第45話:大澄、人としての尊厳を失う
アリエラ・グレイス一行を見送り、会議室の扉が閉まった。
誰も喋らない。
姫野は椅子に座ったまま、しばらく正面を見ていた。
九も似たようなものだった。手元の資料を閉じるでもなく、ただ机の上に置いたまま動かない。
清白は静かに息を吐き、大澄は背もたれへ身体を預けた。
数秒。
さらに数秒。
そして。
「…………疲れたぁ」
大澄が崩れた。
ついさっきまで世界最高峰の交渉人を真正面から睨み返していた女が、背もたれの上でずるずると沈んでいく。
「もうやだ。今日もう喋りたくない」
姫野がゆっくり振り返った。
「あの」
「なに」
「さっきまでの社長はどこ行ったんです?」
「帰った」
「早ぇっす」
九が机へ突っ伏した。
「いや、マジでしんど……」
清白もようやく肩の力を抜く。
「キューちゃん、お疲れさまでした~」
「スズちゃんもね。途中から顔怖すぎっしょ」
「え~?」
「え~?じゃないっって。普通にドン引き何ですけど」
姫野が即座に食いついた。
「それ!!」
勢いよく清白を指差す。
「アタシも言おうと思ってた!スズちゃん何だったの、あれ!?」
「何が~?」
「何がじゃねぇよ!別人だっただろ!」
「普通に仕事してただけですよ~」
「嘘つけ!アンタ、途中から人の皮被った何かだったぞ!」
清白が首を傾げる。
「失礼ですね~」
「怖かったのは事実じゃんね」
「え~キューちゃんまで?」
「いや、ウチも途中で『この人こんな顔するんだ』って思ったし」
大澄が沈んだ姿勢のまま手を上げた。
「メイカ怖かったよね」
姫野と九が同時に振り返る。
「あなたが言わんといてください」
「社長が言うんすか?」
「だって怖かったもん」
「誰のためにああなったと思ってるんですか~?」
「私?」
「分かってるならよろしいです」
姫野は額を押さえた。
さっきまでの空気はどこへ消えた。
世界のアリエラ・グレイス。
その側近、リチャード・ヘイルマン。
1語の裏に何重もの意味を仕込み、1つ返答を間違えれば権利も主導権も持っていかれるような会談だった。
大澄と清白は、その中心で戦っていた。
なのに今、目の前にいるのは、椅子からずり落ちかけている寝坊助と、何事もなかったかのように微笑んでいる女だった。
姫野は納得がいかなかった。
「つーか、途中からマジで何やってたんだよ」
大澄が瞬きをする。
「交渉」
「それは知ってる」
「じゃあ何?」
「中身だよ!」
姫野は机を軽く叩いた。
「なんでスズちゃんがちょっと目動かしただけで質問変わんだよ。なんでリチャードが一言喋っただけで九が顔変わんだよ。何が起きてんのか途中から全然分かんなかったぞ」
九が顔だけ上げる。
「それ、ウチも」
「お前も!?」
「法務的な意味は追えた。でも盤面全体とか無理無理。途中から契約上ヤバい単語だけ拾うモード入ってた」
「そんなモードあんの?」
「今日できました。ウエーイ」
「ウエーイじゃねぇよ。新機能みたいに言うな」
九は再び机へ頬をつけた。
「“reasonable”とか“support”とか、普通の単語の顔して入ってくんのやめてほしいわ。あいつマジで性格悪い」
「聞こえは普通だったけどな」
「だから厄介なんよ」
九が身体を起こし、指を一本立てる。
「例えば最初の“reasonable costs”」
「合理的な費用?」
「そう。それに普通に『はい』って言ったら、何が合理的かって定義争いになるじゃん?」
「うん」
「向こうの合理的とウチらの合理的、規模が違いすぎるんで」
「ああ……」
「最悪、アオちゃんが途中でやっぱ無理ってなった時に、会社がアホみたいな額被る可能性が出るだよね」
姫野の顔が引きつる。
「それ、遠藤に知られたら絶対引けなくなるじゃん」
「そゆこと」
「……怖っ」
大澄がぽつりと言った。
「危なかったね」
3人が大澄を見る。
九が眉を寄せた。
「社長、分かってたんすよね?」
「いんや?全部は分かってないよ」
「は?」
「何か気味悪かった」
姫野が黙る。
九も黙る。
清白だけが柔らかく笑っている。
「何か気味悪かったから、メイカ見た」
「カガリちゃん、変な時だけ勘いいですからね~」
九がゆっくり顔を覆った。
「待って。マジでそれで防いだんですか?」
「うん」
「合理的費用の罠を?」
「うん」
「何か嫌だったから?」
「うん」
姫野は椅子から身を乗り出した。
「怖ぇよ、アンタらのなんとなく!」
大澄が少し考える。
「でもメイカも分かってたよね?」
「私は、リチャードさんが言った直後のアリエラさんの顔と、カガリちゃんの手が止まったのを見ただけだよ~ん」
「だけじゃねぇんだよ!」
「ミカンちゃん、声大きくな~い?」
「誰のせいだと思ってんだ!あとミカンちゃんいうな!」
九が笑い始めた。
最初は小さかった。
やがて堪えきれなくなったように肩を震わせる。
「やば……昨日今日で社長の評価めちゃくちゃなんすけど」
「何で?」
「世界最高峰と殴り合える女が“なんか気味悪い”で生き残ってる」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「気味悪い」
「あれ、なんかこっちに返ってきた」
姫野も、とうとう笑ってしまった。
張り詰めていたものが、一気に抜けていく。
さっきまで同じ人間たちだったとは思えない。
でも。
たぶん、これがいつものVSPだった。
――しばらく4人で会談を振り返った。
リチャードの「Best efforts」に九が本気で殺意を覚えた話。
清白が途中から、リチャード本人よりも大澄の反応を見る時間の方が長くなっていた話。
大澄が「Final release」のあたりで一度本気で分からなくなり、清白を見ることで誤魔化した話。
「誤魔化してたんすか!?」
「バレてなかったでしょ」
「バレてたと思いますよ~」
「メイカ!?」
そんな話をしているうちに、外はもう暗くなり始めていた。
姫野は窓の外へ目を向ける。
身体の疲労より、頭の奥に残っている妙な感覚の方が強かった。
怖かった。
リチャードが、ではない。
あの場そのものが。
自分には見えていないものが、何重にも飛び交っていた。
九は途中まで追えていた。
清白はもっと深く見ていた。
大澄は、その中心で最後まで退かなかった。
よく知っている人たちだ。
大澄が2、3時間寝坊するのも知っている。
清白が柔らかく笑いながら場を荒らすことがあるのも知っている。
九が普段はパリピなギャルなのも知っている。
そんな連中が。
自分には全く届かない場所で戦っていた。
姫野は机へ肘をついた。
「……今日さ」
3人が見る。
言った瞬間、少し後悔した。
やっぱりやめようかと思った。
でも。
ここまで言ったなら仕方がない。
「アタシ、何もできなかったな」
大澄が瞬きをした。
九も少しだけ表情を変える。
清白だけは何も言わず、姫野を見ていた。
「いや、分かってんだよ」
姫野は自分で先回りした。
「畑が違うって。アタシの仕事はああいう交渉じゃねぇし、契約も専門じゃねぇ。炎上とか、現場回すとか、そういう方がアタシの領域なのも分かってる」
頭では全部分かっている。
「でもさ」
姫野は少し笑った。
「知ってるやつらに、あそこまで置いてかれると。まあ、ちょっとクるわ」
自分でも、情けないことを言っていると思う。
大澄と清白が凄かった。
それだけの話だ。
だから何だと言われれば、それまで。
けれど。
思うところがないと言えば嘘になる。
清白が少しだけ考えた。
「そうだねぇ」
姫野が見る。
「今日のカガリちゃんは、かなりすごかったと思いますよ~」
大澄が胸を張る。
「だろぉ?」
「社長ちょっと黙っててください」
「……なんでぇ?」
清白は笑う。
「あと、私も結構頑張りましたよ~」
「自分で言うんだ」
「事実なので~」
「慰める気あんの?アンタら」
九が吹き出した。
姫野も少し笑う。
その笑いが落ち着いたところで、大澄が口を開いた。
「でも、姫野にできて私にできないこともあるじゃん?」
「いやあの、そういう慰めは別に……」
「慰めじゃないって」
珍しく、大澄の声に冗談っぽさがなかった。
姫野が見る。
「最後、アリエラが聞いたでしょ」
「何をです」
「遠藤を一番理解してるのは誰かって」
姫野は黙る。
「あれ、私じゃ答えられなかったよ」
「……」
「少なくとも、姫野みたいには」
姫野は目を逸らした。
清白も続ける。
「私もです。私、アオちゃんを見つけましたけど、今のアオちゃんをああやって話せるのは姫野さんだと思います」
「それは……普段見てる時間が長ぇからだろ」
「それが仕事なんじゃな~い?」
姫野は言葉に詰まった。
九が横から入る。
「ていうか姫野さん、現場でなんか燃えたらこの二人より普通に頼りになりますけどね」
「おい」
「社長と清白さん現場に放り込んだら、違う意味で燃やしそうだし」
清白が笑顔のまま九を見る。
「九さん?」
「特に社長」
「なんで私!?」
「普段の行いっす」
「理不尽!」
姫野は思わず笑った。
胸の奥にあったものが、完全に消えたわけではない。
たぶん消す必要もない。
大澄と清白は凄い。
間違いなく、自分にはないものを持っている。
あれは認めるしかない。
でも。
だからといって、自分がそこへ追いつかなければならないわけでもない。
自分には、自分が立つ場所がある。
それでいいのかもしれない。
そう思ったところで。
大澄が突然、両手を叩いた。
「よし」
嫌な予感がした。
「今から飲みに行くべ」
姫野が眉を寄せる。
「はい?」
「今日頑張ったし」
「いや、もう普通に帰りたいんすけど」
「打ち上げ」
「明日も仕事ですが」
「経費で酒飲もう」
九が顔を上げる。
「行きます」
「おい、そこのギャル」
「経費なら話変わるっしょ」
清白も頷く。
「私も行きたいかも~」
「スズちゃんまで!?」
大澄は満足そうに立ち上がった。
「決まり」
「誰が決めたんだよ!」
「社長」
「最悪の権限行使すんな!」
1時間後。
4人は会社近くの居酒屋にいた。
「「「「かんぱーい!!」」」」
大澄が一番元気だった。
姫野はジョッキを持ったまま睨む。
「あなたさっきまで疲れたって死んでませんでした?」
「酒は別腹」
「腹は関係ないでしょう」
九が笑いながらグラスを傾ける。
清白もいつもより少し頬が赤い。
「カガリちゃん、今日は頑張りましたねぇ」
「でしょー」
「明日起きられます?」
「起きるよ~」
「……すでに起きる気ゼロでしょ」
「失礼だなぁ」
「平常運転なら2、3時間寝坊する人が何言ってんすか」
大澄は唐揚げを食べながら首を傾げる。
「……んじゃあさ」
嫌な間だった。
「明日、ウチら午前休でよくない?」
姫野の箸が止まった。
九も止まる。
清白だけが「いいですね~」と頷いた。
「待て待て待て」
姫野が手を上げる。
「何その制度」
「今できた」
「作らんといてください」
「社長権限」
「今日一番しょうもない使い方しますけど!」
「今日頑張ったし」
「あなたそれ何回言うんですか!」
九がスマホを見ながら言う。
「まあ午前休自体はありがたいっすけど」
「キューちゃん!」
「いやウチも人間なんで」
清白も笑う。
「明日は午後から頑張りましょう~」
姫野は頭を抱えた。
多数決。
1v3。
しかも1人は社長。
勝てるわけがない。
「……分かりましたよ」
「やったー!」
大澄がグラスを掲げる。
「明日午前休!」
この判断が、翌日VSP史に残る最低最悪の黒歴史を生むことになる。
翌日。
午後1時。
姫野は普通に出社した。
九も来た。
清白も、少し眠そうではあったが来た。
大澄はいない。
この時点では、まだ誰も気にしなかった。
まあ大澄社長だしで済む範疇だった。
午後2時。
まだいない。
「いつも通りなら、このへんですかね」
九が時計を見る。
姫野も頷いた。
「午前休で起きる時間ズレてるだろうしな」
清白も苦笑する。
「まあ、カガリちゃんですから~」
午後3時。
まだ来ない。
午後4時。
姫野が時計を見る。
「いや……遅くね?」
九も見る。
「いつもの二、三時間寝坊なら、もう来ててもいいっすよね」
清白はすでに笑っていなかった。
午後5時を回った。
事務所の空気が少しだけざわつく。
社長がいないこと自体は珍しくない。
珍しくないのが問題なのだが。
ただ今日は、自分で午前休を設定した日だ。
その上で、まだ来ていない。
清白がスマートフォンを見る。
連絡はない。
「…………」
姫野は少し離れた。
九も一歩離れた。
午後5時27分。
エレベーターが開いた。
大澄カガリが現れた。
髪は整えている。
服も普通。
顔だけは、明らかに起きたばかりだった。
「おはよー」
事務所が静まり返った。
大澄が瞬きをする。
「どしたん?」
清白が立ち上がった。
「……大澄社長」
声が怖い。
昨日とは違う方向で、姫野はさらに半歩下がった。
「はい」
「今、何時か分かります?」
大澄が壁の時計を見る。
「5時半前」
「そうですね」
「うん」
「午前休でしたよね?」
「うん」
「午後から出社でしたよね?」
「うん」
「今、何時ですか?」
「5時半くらい」
「そうですね」
同じ会話が1周した。
清白のこめかみがヒクついた。
「何か、言うことありません?」
さすがに。
さすがに大澄も分かるだろう。
姫野はそう思った。
九もそう思ったらしい。
社員たちも、仕事をしているふりをしながら聞いている。
大澄は少し考えた。
そして。
「めんご」
――空気が死んだ。
九は目を閉じた。
姫野は口元を手で覆って体を震わせている。
笑ってはいけない。
絶対に。
清白の眉が跳ねる。
「……めんご?」
「うん」
「それだけ?」
「ちゃんと来たじゃーん」
清白の笑顔が消えた。
完全に。
「午後5時半に?」
「まだ終業前だよ」
「そういう問題ですか?」
「来ないより偉くない?」
「比較対象が終わってるんですよ!」
ついに清白が爆発した。
「自分で午前休にするって言ったんですよね!?」
「言った」
「だったら昼過ぎから来てください!」
「午後ではあるよ」
「夕方です!!」
「細かいなぁ」
「細かくないです!」
九が肩を震わせている。
姫野は壁を見た。
無理だ。
こんなん笑うに決まってますやん。
昨日、あれだけ格好よかったのに。
リチャード・ヘイルマンが自分から名刺を渡すほどの女が。
今、午後5時半を実質昼過ぎだと言い張っている。
清白は止まらない。
「そもそも連絡くらいしてください!」
「寝てた」
「知ってます!」
「じゃあいいじゃん」
「良くないです!」
「メイカ怒りすぎじゃない?」
「誰のせいですか!」
大澄はそこで少し考えた。
何かしら思うところがあったらしい。
「なぁ、メイカ」
清白が止まる。
「……なんですか?」
声は半分怒っている。
それでも聞く姿勢は取った。
姫野も少しだけ期待した。
さすがに、今度こそ詫びるだろう。
あるいは弁明する。
反省はしていなくても、多少まともなことを言う。
大澄は清白を見た。
そして。
「どんまい」
――清白の顔から、表情というものが完全に消えた。
「…………」
「メイカ?」
返事がない。
「清白さーん?」
清白がゆっくり姫野を見る。
「……姫野さん」
「あっはい」
反射で敬語になった。
「段ボール、余ってますか?」
「……たぶん」
「太い紐も」
「あります」
大澄が首を傾げる。
「何するの?」
清白は答えなかった。
その日の夜。
多くのVSP社員が、ある光景を目撃した。
事務所フロアの入口脇。
その壁際で。
――そこにVSPの代表取締役、大澄カガリが座らされていた。
首からは、段ボール製のプラカード。
太い黒マーカーで大きく
【私は社会不適合者です】
と書かれている。
大澄は不服そうだった。
「メイカぁ」
「なんですか?」
「これいつまで?」
「反省するまでです」
大澄は少し考えた。
「じゃあ帰れないじゃ~ん」
清白が無言で時計を見る。
「今の発言で1時間追加です」
「えっ」
その横を社員たちが、目を合わせないように通り過ぎていく。
誰も触れない。
触れてはいけない。
昨日、世界のアリエラ・グレイスと対峙し。
世界最高峰の交渉人から、直接名刺を渡された女。
その翌日。
【私は社会不適合者です】の札を首からぶら下げている。
姫野は遠くからその姿を眺めた。
九も隣にいる。
「……なぁ」
「どしたん」
「これが弊社の社長ってマジ?」
九は少し考えた。
「昨日の方がバグだったんじゃね?」
「アタシもそう思えてきた」
2人の視線の先で、大澄がまた清白へ声をかける。
「メイカぁ」
「なんですか?」
「今日もう帰っていい?」
「1時間追加します?」
「……すいませんでした」
今日初めて、まともな謝罪が出た。




