↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
53/61

第44話:頂上決戦 ~世界の交渉人VS最強義姉妹~


「今度はこちらが、判断させてもらいます」


九が大澄の言葉を訳し終えても、すぐに返事はなかった。


ほんの少し前まで、この場で査定されていたのはVSPだった。


世界のアリエラ・グレイスを前にして、遠藤アオという一人の社員をどう扱うのか。あの歌声を誇張するのか。本人の意思より会社の利益を優先するのか。世界的スターという肩書に浮き足立つのか。


アリエラたちは、それを見ていた。


その試験を真正面から受け切った大澄が、今度はこちらの番だと言った。


遠藤アオへ、あなたたちを会わせてもいいのか。

それをVSPが判断する、と。


姫野には、いつ攻守が入れ替わったのか分からなかった。

ただ、大澄の言葉を受けた側近の目から、それまで残っていた余裕が消えたことだけは分かった。


「Then tell us what you need to know.(では、何を知りたい?)」


声は穏やかだった。

まだ先ほどまでの男と同じように見える。


けれど、もう姫野には同じには聞こえなかった。


「まず、今まで出た条件を分けたいです」


九が訳す。


「どこまでがアリエラさん本人の希望で、どこからがビジネスとして必要な条件なのか。遠藤に判断してもらう以上、そこは混ぜたくありません」


「Does the distinction matter?(それを分ける必要がある?)」


「あります」


大澄は迷わなかった。


「アリエラさんが欲しいものと、あなた方がアリエラさんのために確保しておきたいものは、同じとは限らないので」


側近の目が僅かに細くなる。

その返答を聞きながら、清白は大澄ではなくアリエラを見ていた。


「大澄社長、一つ確認してみてもいいですか?」


「お願いします」


清白がアリエラへ身体を向ける。


「アリエラさんは、グリーンピースとの曲を世界的に売りたいから、日本まで来たんでしょうか?」


九が訳す。

アリエラは僅かに考え、首を横へ振った。


「No. If we make something great, of course I want people to hear it. But that's not why I came.(違うわ。素晴らしいものができれば、もちろん多くの人に聴いてほしい。でも、それが日本まで来た理由じゃない)」


「では、グリーンピース本人を歌手として世界へ売り出したい?」


今度は間がなかった。


「No. That's her decision.(いいえ。それは彼女が決めることよ)」


「ありがとうございます」


清白はそれ以上聞かなかった。


ただ、大澄を見る。

大澄も清白を見る。


ほんの一瞬。


「分かりました」


大澄が前を向く。


「では、アリエラさん本人の目的と商業上の条件は、今後明確に分けて話しましょう」


側近の視線が清白へ動いた。


姫野は少し遅れて理解した。

大澄が確かめようとしていたものを、清白が別方向から本人へ聞いた。


具体的な指示など受けていない。


大澄が何に引っかかり、何を確かめたいのか。

清白はそこまで読んで動いたのだ。


「All right. Let's separate them.(分かった。分別しよう)」


側近はあっさり受けた。


そこから、交渉はさらに深くなった。


匿名性、原盤、二次利用、公開地域、プロモーション、報酬、制作上の責任、中止条件。


九は法務と権利の穴を潰す。

清白は向こう側の三人だけでなく、大澄の反応まで見ている。

そして最後に決めるのは、大澄だった。


何度か応酬が続いたところで、側近が一つの提案を出した。


Green Peasの匿名性は維持する。

継続的な芸能活動も要求しない。

制作費はアリエラ側が大部分を負担し、世界規模のプロモーションも用意する。


その代わり、一部の利用権を認めてほしい。


利用範囲は限定。

期間も限定。


姫野には、むしろ好条件に聞こえた。


だが、大澄は答えない。


九の眉が僅かに動く。

清白は側近ではなく、大澄を見た。


側近がもう一つ条件を加える。

すると、さっきまで好条件にしか聞こえなかった話の意味が微妙に変わった。


さらに一つ。

また変わる。


九の指が止まった。

条件1つ1つの法的意味が分からないわけではない。


ただ、この男がなぜ今、この順番で条件を置いたのか。その狙いを掴むまでに、ほんの一瞬だけ時間が必要になった。


向こうの通訳も同じだった。


翻訳は一語も落としていない。

だが、交渉そのものの読み合いまで同時に追えば、肝心の翻訳精度を落としかねない。


2人とも、まだついていけていないわけではない。

ただ、処理すべきものが増え始めていた。


「大澄社長」


清白が口を挟んだ。


「今の条件、そのまま答えない方がいいと思います」


大澄は理由を聞かなかった。


「誰を見ました?」


清白が尋ねる。

大澄の視線が一瞬だけアリエラへと動く。


「私もです」


それで十分だった。


側近はその条件を出した直後、ほんの一瞬だけアリエラを見た。

それまで、自分の裁量で出していた条件では一度もしなかった確認を。


「アリエラさん」


大澄が直接呼びかける。


「今出た条件について、あなた自身は必要だと思っていますか?」


「No. Not for what I want.(いいえ。私が望んでいることには必要ない)」


静寂が落ちる。


大澄と清白の目が合った。

今度は姫野にも分かった。


まさに以心伝心。


「では、その条件は外してください」


大澄が側近へ向き直る。


「そちらが必要だというなら、別の理由を提示してください。アリエラさん本人の希望として扱うことは認めません」


清白も続く。


「アリエラさんご本人が欲しいものと、あなたがアリエラさんのために確保しておきたいもの。少しずつ違ってますよね」


側近が清白を見る。


「どちらが悪いという話ではないですよ。ただ、混ぜられてしまうと遠藤さん本人が判断できませんので」


その言葉を受け、大澄が続けた。


「あなたがアリエラさんを守ろうとしていることは、よく分かりました」


側近の視線が大澄へ戻る。


「私たちも同じです」


大澄は穏やかだった。


「あなたがアリエラさんのために譲れないものを持っているように、私たちにも遠藤のために譲れないものがあります」


一拍。


「もしアリエラさんの希望を叶えるために、遠藤の意思を後回しにしなければならないのであれば」


そこで、大澄は完全に線を引いた。


「この話は、ここで終わりです」


――その瞬間だった。


側近が笑った。


姫野は最初、何が変わったのか分からなかった。


口角が上がった。

ただそれだけなら、今日だけでも何度も見ている。


この男の笑顔は完璧だった。


穏やかで、知的で、相手を不必要に刺激しない。それでいて、自分が交渉の主導権を握っていることだけは決して忘れさせない。


世界最高峰のビジネスマンが身につけた、作為的な笑み。

それが、消えた。


今、同じ顔に浮かんでいるものには、相手を安心させようという意思が一片もない。


愛想も。

演技も。

余裕を見せるための計算すらない。


剥き出しだった。


久しく出会えなかったものを、ようやく見つけた。

自分が持つすべてを使って、それでも打ち倒せるか分からない相手。


その存在を前にして、忘れていた血が騒ぎ出した。

1人の戦士が浮かべる、獰猛な笑み。


姫野の身体が、本能だけで強張った。


九も。

通訳も。

そして、アリエラでさえ。


「Ricky...?(リッキー……?)」


その声には、明らかな驚きがあった。


側近は反応しない。

アリエラを見ない。

視線は最初から最後まで、大澄だけに固定されている。


やがて男が、自ら口を開いた。


「Allow me to introduce myself properly. Richard Haleman.(改めて名乗ろう。リチャード・ヘイルマンだ)」


アリエラの目が、さらに見開かれた。


「Ricky... You introduced yourself...?(あのリッキーが、自分から名前を……?)」


思わず漏れた呟きだった。


返事はない。

一瞥すらない。


リチャード・ヘイルマンの目には、もう大澄カガリしか映っていなかった。


姫野にだって分かった。


完全にロックオンした。

そういう目だった。


この女を、必ず打ち倒す。


相手を好敵手と認めたからこそ。

全力を以って。


「President Osumi.(大澄社長)」


獰猛な笑みが深まる。


「Let's begin again. Properly this time.(改めて始めよう。今度こそ、本当に)」


その瞬間。

隣で空気が変わった。


姫野は反射的に清白を見る。

そして一瞬、隣に座る顔なじみが誰なのか、判別できなかった。


――清白メイカが消えていた。


もちろん本人だ。

座っている位置も変わらない。

声を荒らげてもいない。


それでも、普段の清白にある柔らかな笑みも、人を安心させる目も、少し間延びした空気も消えていた。

残っているのは、恐ろしいほど静かな目だけ。


リチャードを見る。

アリエラを見る。

通訳。

九。

そして、大澄。


一人ずつ見ているのではない。

全部を一つの盤面として捉えている。


その中でも、清白が最も注意深く追っているのは大澄だった。


呼吸。

視線。

返答までの間。

指先の僅かな動き。

長い付き合いだからこそ分かる、大澄本人すら意識していない癖まで。


今のカガリちゃんは、何を考えている。

どこまで読んだ。

何に引っかかった。

次に、どこを斬りたい。


清白は敵だけを読むのではない。

大澄まで読んで、その一手が最も深く入る場所を探している。


九が清白を見る。

その九でさえ、一瞬だけ目を見開いた。


姫野は、こんな清白を知らない。


普段、大澄が情けない顔をしていれば「カガリちゃん」と笑っている人。

その人が今、大澄を守ろうとしているのではない。


一緒に挑まんとしている。


大澄がほんの少しだけ横を見る。

清白も同じ瞬間に大澄を見る。


視線が重なった。

1秒にも満たない。

それでも姫野には、言葉よりはっきりと見えた。


――行くよ、カガリちゃん。

――分かってる、メイカ。


そんな会話が確かにあったように。


大澄の口元がほんの僅かに上がった。

清白の目も僅かに細くなる。


2人は同時に前を見る。


「……分かりました」


大澄が言った。


「受けましょう」


九が訳す。

リチャードの獰猛な笑みが、さらに深くなった。




――頂上決戦が始まった。


最初の一撃は、驚くほど短かった。


「Who pays?(誰が払う?)」


姫野は一瞬、何の話か分からなかった。


「If she walks away.(彼女が降りた場合だ)」


大澄が答える。


「会社として発生する責任はVSPが負います。遠藤個人には負わせません」


「All of it?(すべて?)」


「事前に合意した範囲で」


「Define the limit.(上限を定義してくれ)」


九が僅かに反応した。

ここは九の領域だった。


VSP側から先に数字を出せば、その金額までは負担可能だと自ら認める形になりかねない。

九が口を開くより早く、大澄が返した。


「先に、損失の範囲を定義してください」


リチャードの目が細くなる。


「Reasonable costs.(合理的な費用だ)」


今度は九が即座に入った。


“合理的”。

一見、何でもない言葉。


だが、世界ツアー級の制作を日常とする側とVSPでは、その基準が違う。


スタジオ、人員、外部クリエイター、確保済みの時間。

どこまで含むかで、遠藤が「やっぱり無理です」と言える重さは大きく変わる。


「Direct, committed, non-recoverable.(直接発生し、確定済みで、回収不能なものだけだ)」


「機会損失は?」


「No.(含まない)」


「将来の広告枠」


「No.(含まない)」


「社内人件費」


「Only if specifically allocated.(本件専用に確保した分だけだ)」


九が1つずつ潰していく。


その攻防が終わるより早く、リチャードが次へ進んだ。


「Readiness.(実行可能性だ)」


また1語。

大澄はすぐに答えなかった。


準備ができているか。

ただそれだけの言葉。


だが、大澄が聞いたのは別のことだった。


「誰が判断します?」


リチャードの笑みが僅かに深くなる。


「Ariella.(アリエラだ)」


短い。

清白の目が動く。


そしてリチャードが付け加えた。


「And us.(そして我々だ)」


一語増えただけで、意味が変わった。


アリエラだけなら芸術的判断。

“我々”まで含めれば、制作やマネジメント側にも遠藤の実行可能性を評価する余地が生まれる。


「範囲を限定してください」


九が入る。


「Production viability only.(制作継続性だけだ)」


「本人の心理状態は?」


「Only if it affects viability.(継続性に影響するなら)」


また、入口が残った。

大澄が切る。


「それは認めません。本人の内面を、そちらの継続判断材料にはさせません」


「Then how do we know she is ready?(なら、どうやって準備できていると判断する?)」


「本人が歌うと言うこと。それと、こちらの制作担当が実行可能と判断することです」


「Your people only?(そちらだけで?)」


「遠藤の状態については」


「Convenient.(都合がいい)」


刺すだけの一言。つまりブラフだ。

大澄は乗らない。


「必要なら、歌唱サンプルは出します」


「Regularly?(定期的に?)」


九の目が鋭くなった。


定期的。

その一語を認めれば、サンプル提出が事実上の定期歌唱義務になる。


「必要な節目で」


「Defined by whom?(誰が決める?)」


「双方です」


「Then deadlock.(なら膠着する)」


「その時は止めます」


リチャードが初めて一拍置いた。


「You would stop that easily?(そんな簡単に止めるのか?)」


「簡単ではありません。でも、遠藤を動かすために条件を歪めるよりは止めます」


獰猛な笑みは消えない。


「Best efforts.(最大限努力する)」


今度は清白が即座に首を振った。


「大澄社長、それは入れられません」


「理由は?」


「VSP側に達成努力義務ができます。遠藤さんが拒否した場合でも、説得、再調整、追加練習、代替案の提示まで『最大限やったか』を問われかねません」


姫野にも分かった。

本人を守る会社へ、本人を説得する義務を背負わせる。


「認めません」


大澄が即答する。


「Commercially reasonable efforts.(商業的に合理的な努力なら?)」


「それも駄目です」


リチャードが笑った。

短く攻め、短く返された。


すると今度は、一気に長くなる。


「Then VSP is asking us to commit capital, personnel, studio time, international distribution planning and Ariella's own schedule while promising neither performance, continuity nor even an obligation to attempt cure if Endo withdraws. What exactly are you offering us in return for that asymmetry?(ではVSPは、こちらに資金、人員、スタジオ、国際配信計画、そしてアリエラ本人の時間まで確保させる一方で、歌唱も継続も保証せず、遠藤が撤退した場合の是正努力すら負わないということになる。その非対称性に対して、そちらは何を差し出す?)」


姫野にも、これは痛いと分かった。


VSPは遠藤を守る。

歌唱を保証しない。

継続も保証しない。

それでも向こうには莫大なリソースを求める。


大澄が黙った。


2秒。

3秒。


清白はリチャードではなく、大澄を見た。


追い詰められている?

――いや違う。


清白の目が僅かに細くなる。


カガリちゃんは今、答えを探していない。

この質問そのものの前提を見ている。


清白はアリエラを見る。

次に、リチャード。

そしてもう一度、大澄。


僅かに首を横へ振った。

大澄が口を開く。


「何も」


九が大澄を見る。


リチャードの目が細くなる。


「Nothing?(何も?)」


「先に差し出すものはありません」


姫野の心臓が跳ねた。

大澄は続ける。


「この企画そのものが、双方に価値があると思うから話しているんですよね?」


リチャードは黙る。


「アリエラさんが遠藤と歌いたい。こちらも、遠藤にとって価値のある機会になる可能性は認めている」


一拍。


「それで十分です」


大澄は真っすぐリチャードを見る。


「片方がもう片方へ何かを差し出さないと成立しない関係なら、最初から対等ではありません」


清白の目が僅かに笑った。


リチャードの笑みが、さらに深くなる。

次。


「Approval.(承認権)」


また一語。


「Final release.(最終公開だ)」


九が反応する。


「相互承認ですか?」


「Naturally.(当然だ)」


公平に聞こえる。

どちらかが納得しなければ公開しない。


姫野にも、今度こそ問題がないように思えた。


大澄は答えない。


清白は、その大澄を見た。


僅かに眉間へ力が入っている。

何かに引っかかっている。


清白が先に口を開く。


「完成条件、ですよね?」


ほんの一瞬、大澄が清白を見る。


「……うん。それ」


姫野の背中に、またぞくりとしたものが走った。

大澄自身がまだ口にしていなかった違和感を、清白が先に拾った。


清白がリチャードへ視線を戻す。


「最終公開を承認するなら、その前に完成品を評価しますよね」


「Yes.(そうだ)」


「じゃあ、何をもって完成とするかを先に決めておかないと駄目ですよね?」


九の表情も変わった。

姫野にも繋がった。


双方に承認権があるだけなら公平。

だが、相手が「まだ完成していない」と言い続ければ、何度でも修正を求められる。


もし完成条件が「あの日のGreen Peas」に近づくことなら。


もう1度。

あと1回。

まだ足りないと。

直接強制しなくても、完成させるためという名目で遠藤へ歌わせ続けられる。


「先に完成条件を決めましょう」


大澄が言った。


「そこが合意できないなら、最終承認権の話には進みません」


リチャードが清白を見る。

それから、大澄。


獰猛な笑みが一段深くなる。


「Good.(いい)」


姫野には、それが罠だったのか、単なる確認だったのかもう分からなかった。


おそらく、リチャードにとってはどちらでもいい。


見抜かれなければ使う。

見抜かれれば次へ行く。

ただそれだけ。


そのことの方が怖かった。

次は、


「Support.(支援)」


だった。

今度は清白が先に動く。


「包括的な支援義務という意味なら、認められません」


「Why?(なぜ?)」


「範囲次第では、スケジュール確保、練習環境、追加トレーニング、本人への説得までVSP側の義務に読めます。遠藤本人が拒否した時、それを会社側の支援不足へ置き換えられる余地が出ます」


大澄が頷く。


「では、約束するのは二つだけです。選択肢を正確に遠藤へ伝えること。本人が自発的に希望した場合に、必要な社内調整をすること」


「Only that?(それだけ?)」


「それだけです」


リチャードは楽しそうだった。


そこから先、九と通訳は自分たちの仕事を変えた。


九はもう、交渉全体の先読みまで抱え込まない。


法務。

権利。

責任。

そこだけは絶対に落とさない。


通訳も同じだった。


戦況まで追えば、一語を落とす。

だから、そこを捨てた。


言葉の表面だけではなく、その文化的な重さと含意まで、一欠片も失わず相手側へ渡す。

世界最高峰だからこそ、自分が何を担当し、何を大澄と清白へ預けるべきかを即座に切り替えた。


それでも。

姫野には、もう何が起きているのか分からなかった。


リチャードは短い一語で刺した次には、長い論理で包囲する。

長い説明でこちらに考える時間を使わせた直後、


「Who decides?(誰が決める?)」


の一言だけで盤面をひっくり返す。


「Necessary.(必要だ)」


誰にとって。


「Temporary.(一時的だ)」


いつまで。


「Limited.(限定的だ)」


何が。


「Standard.(標準だ)」


どこの標準。


答え方を1つ誤れば、その言葉が次の条件の前提になり、さらにその次で責任へ変わる。

気づいた時には、何気なく返した「はい」が、5つ先の条件を支える柱になる。


それが、リチャード・ヘイルマンの全力だった。


姫野は、もっと前から何も分かっていない。


何を喋っているかは分かる。

訳されている日本語も理解できる。


それなのに。


今の一語の何が危なかった?

なぜ大澄社長は止まった?

清白さんは何を見た?

何でリチャードは笑った?


3手前の話が、なぜ今になって効いている?

誰が押している?

誰が返した?

そもそも、今どっちが優勢なの?


誰も声を荒らげていない。

立ち上がってすらいない。

机も一度も叩かれていない。


それなのに姫野には、目の前で人間同士が命を取り合っているようにしか見えなかった。


刃だけが見えない。

血だけが流れない。

一言間違えれば、遠藤が自由に断れるはずだった道が塞がる。


VSPが持っていた決定権が、いつの間にか相手へ移る。

本人を守るはずの会社が、本人を説得する側へ回される。


しかも、そのすべてが合法的に、丁寧な文章として成立する。


炎上現場なら、姫野は戦える。

誰かが取り乱せば止められる。

人手が足りなければ動かせる。

何を先に処理するか、瞬時に決められる。


そこなら自分は前線指揮官だ。


ここは違う。


九は法務という盾へ徹した。

通訳は言葉を繋ぐことへ全神経を注いだ。

アリエラさえ、途中から黙っている。


その中央にいるのは3人だけ。


リチャード・ヘイルマン。

大澄カガリ。

清白メイカ。


リチャードが倒そうとしている相手は、最初から一人。

大澄カガリ。


だが、大澄が受け止め、清白がその隣で相手と大澄の両方を読み、必要な一手だけを差し込む。


実際にリチャードが相手をしているのは。

VSPの双璧を成す、この義姉妹だった。




――どれほど続いたのか。

姫野には分からない。


やがて、リチャードが1つの問いを投げた。


「If Ariella concludes, after good-faith production attempts and after all agreed safeguards have been observed, that the song cannot be completed without Green Peas reaching the level we heard in the original performance, and Endo is unable—or unwilling—to reproduce it, what will VSP do?(合意した保護条件をすべて守り、誠実に制作を試みた上で、それでもアリエラが『最初の歌唱で聴いた水準のグリーンピースなしでは曲を完成させられない』と判断し、遠藤がそれを再現できない、あるいは再現したくないと言った場合、VSPはどうする?)」


この質問だけは、姫野にも意味が分かった。


歌えなかったら、どうする。

いや。

歌いたくなかったら、どうする。


世界のアリエラ・グレイスがどうしても欲しいと言っても。

莫大な金と時間を使っても。

あと少しで完成していても。


大澄は答えた。


「―――何も」


九の指が止まった。

通訳も、次の言葉を待ったまま動かない。


リチャードの目だけが、僅かに細くなる。


「Nothing?(何もしない?)」


「はい。あの日と同じように歌えとは要求しません。それが出なければ、企画を止めます」


「Even after the investment?(投資した後でも?)」


「はい」


「Even if Ariella asks once more?(アリエラ本人が、もう一度だけと頼んでも?)」


「頼むことは止めません」


そこで、大澄は区切った。


「ただし、断る権利は遠藤にあります」


「And if that kills the project?(それで企画が死んでも?)」


最後だけ、恐ろしく短かった。

大澄は迷わなかった。


「終わらせます」


その一言で、この会談で積み上げられてきた無数の条件が、すべて枝葉へ戻った。


遠藤アオが嫌だと言えば、終わる。

最後まで、大澄が守っていた答えはそれだけだった。


リチャードは、しばらく大澄を見ていた。

獰猛だった笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


勝った顔ではない。

負けた顔でもない。


自分がどれだけ形を変え、どれだけ言葉を重ねても。

最後まで一度も動かなかった一点。


そこを、完全に理解した顔だった。


「Understood.(分かった)」


そして、この頂上決戦は幕を閉じた。




姫野は、誰にも気づかれないように息を吐いた。


九も僅かに椅子へ身体を預ける。

通訳も初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

清白の顔にも、いつもの柔らかさが戻り始めている。


そこで、アリエラが口を開いた。


「I have one more question.(もう一つだけ、聞きたいことがある)」


姫野は心の中で呻いた。

まだあるのか。


だが、アリエラの問いは今までとはまるで違った。


「Who here works closest with Ao Endo?(ここにいる中で、普段一番近くで遠藤アオと働いているのは誰?)」


姫野は一瞬固まった。

そして、ほぼ反射的に清白を見る。


清白は姫野を見ていた。

大澄も。

九も。


「…………え?」


三人とも自分を見ている。


「いや、待ってください。清白さんじゃないんですか?」


清白が、ようやくいつもの笑顔で返した。


「私は遠藤さんを見つけましたけど、今一番近くで見てるのは姫野さんですよ」


「大澄社長は?」


「私は社長として見てるからね」


「九は」


「私、入口が法務なんで」


逃げ道が全部消えた。


姫野はアリエラを見る。

世界の歌姫が、自分の答えを待っている。


さっきまでとは違う意味で胃が痛い。


「……私です」


九が訳した。

アリエラが姫野を見る。


「Then tell me who she is. Not as Green Peas. As Ao Endo.(なら教えて。グリーンピースとしてじゃない。遠藤アオが、どんな人なのか)」


姫野は黙った。

褒める言葉ならいくらでもある。


歌が上手い。

観察力がある。

優しい。

真面目。


でも、たぶんそういう話ではない。


姫野は息を吐いた。

上手く言おうとするのをやめる。


「遠藤は、めちゃくちゃ臆病です」


九が訳す。

アリエラが僅かに瞬きをした。


「人と喋るだけで緊張します。知らない人が増えると露骨に声が小さくなるし、褒められたら喜ぶより先に、どう返したらいいか分からなくなって固まります」


清白が小さく笑った。


「自信もそんなにありません。歌については、自分が上手いことくらい本人も分かってます。でも、あの日みたいな歌をいつでも出せるなんて思ってないし、別に歌手になりたいとも言ってません」


そこに飾るものはなかった。

姫野が普段見ている、そのままの遠藤アオだった。


「面倒くさいくらい人に気を遣います。自分が困ることより、誰かに迷惑をかける方を嫌がります。だから放っとくと、自分のことを後回しにします」


豊臣を休ませようと必死になっていた時のことを思い出す。

自分の言葉に自信などなくても、相手に届くまで怖がりながら話していた。


「でも、別に勇敢なやつじゃないです」


姫野の口元が少しだけ緩んだ。


「怖い時は普通に逃げたがります。できれば目立ちたくないし、人前にも出たくない。面倒なことが起きたら、顔に『帰りたい』って書いてあります」


九が訳しながら、ほんの少しだけ笑っている。


「ただ」


姫野の声から笑いが消えた。


「誰かが本当に困ってる時だけ、逃げられないんですよ」


アリエラが姫野を見る。


「自分が怖くても、自分にできることがあるって気づいたら、結局戻ってきます」


あの日もそうだった。


豊臣がどうしても歌いたかった曲。

本来なら、アオが前へ出る必要などなかった。


「豊臣とのデュエットだって、歌いたかったから手を上げたわけじゃありません。豊臣がどうしてもあの曲を歌いたそうだったからです」


歌手になりたかったからでもない。

自分の才能を見せたかったからでもない。


「だから、たぶん」


姫野は少し考えた。

何も飾る必要はない。


「あの日みたいに遠藤の歌が変わるのも、そういう時なんだと思います」


大澄も、清白も、九も黙って聞いていた。


「自分のために凄い歌を歌えって言っても、たぶん無理です。でも、隣にいる誰かのために歌いたいって、あいつ自身が思ったら」


そこで姫野は止めた。

それ以上は、自分が決めることではない。


「……何が起こるのかは、私にも分かりません」


そして最後に、そのままを言った。


「それが、私の知ってる遠藤アオです」


九が最後まで訳す。

アリエラは、しばらく何も言わなかった。


やがて僅かに笑う。

この部屋へ入ってきた時に見せた、世界的大スターの笑顔ではなかった。


一人の歌手が、まだ会ったことのない一人の人間へ、純粋に興味を持った顔だった。


「I see.(なるほど)」


そして。


「Now I want to meet her even more.(ますます会ってみたくなった)」


姫野は頭を掻いた。


「本人が会うって言ったら、ですけどね」


九が訳す。

アリエラは笑った。


「Of course.(もちろん)」


それで、ようやく会談は終わった。


決まったことは一つ。

遠藤アオ本人へ、この話を伝える。

それだけだった。


世界のアリエラ・グレイスが日本へ来た。

世界最高峰の交渉人が全力を出した。

大澄と清白が、それを真正面から迎え撃った。


それでも最後に残った答えは。

アオに聞く。

ただ、それだけ。


そして大澄は最初から、その一点だけは何があっても動かすつもりがなかった。


全員が立ち上がる。

大澄が頭を下げた。


「本日はありがとうございました」


「Thank you.(こちらこそ)」


九には疲労が滲んでいる。

通訳も同じ。

清白はもう、ほとんどいつもの清白へ戻っていた。

姫野は一刻も早くこの部屋から出たかった。


――その時だった。


「President Osumi.(大澄社長)」


リチャードが呼び止めた。

大澄が振り返る。

リチャードは自分の名刺入れを取り出し、一枚の名刺を抜いた。


「Would you exchange business cards with me? Personally.(よろしければ、私個人と名刺を交換していただけますか?)」


「ええ。もちろんです」


大澄も名刺入れを出す。

歩み寄る。

互いに名刺を差し出す。

受け取る。


それだけ。

日本では、珍しくもない光景だった。

だから最初、VSP側の誰もその異常さに気づかなかった。


アリエラを除いて。


「…………」


アリエラが固まっていた。

リチャードが自ら名乗った時でさえ驚いていた彼女が、今度はそれ以上にはっきりと。


隣の通訳も、今日初めてと言っていいほど露骨に目を見開いている。


アリエラがリチャードを見る。


「Ricky... You gave her your card?(リッキー……自分から名刺を渡したの?)」


「Yes.(ああ)」


今度は、ちゃんとアリエラへ返事をした。


「You never do that.(あなた、そんなことしないじゃない)」


リチャードは、大澄から受け取った名刺へ視線を落とした。


大澄カガリ。

そこに記された名前を確認し、丁寧に胸元へしまう。


「I did today.(今日はした)」


それ以上は何も言わなかった。


大澄も受け取った名刺を見る。

――Richard(リチャード) Haleman(ヘイルマン)――


VSP側の四人は、まだ知らない。


リチャード・ヘイルマンが、自ら個人の名刺を差し出した相手は、これまで世界でも片手で数えられるほどしかいないことを。


そして、その全員が彼自身に「直接繋がっておく価値がある」と認めさせた人間だったことを。


今日。

世界最高峰の交渉人が、自ら手を伸ばした者たち。

その、世界にほんの僅かしか存在しない名前の列へ、新たな一名が刻まれた。


大澄カガリ。

大澄自身はそんな意味など知る由もなく、いつも通りに名刺をしまった。


「では、また」


リチャードが大澄を見る。

あの獰猛な笑みは、もう消えていた。


「Yes. We'll meet again.(ああ。また会おう)」


そこに残っていたのは、世界最高峰の交渉人が、自ら全力をぶつけた相手へ向ける。

静かな敬意だけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。