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第43話:世界の歌姫、VSPを測る

「あなたが、遠藤アオに何を望んでいるのか。まず、それを聞かせてください」


九が、大澄の言葉をそのまま英語へ変えた。

VIPルームに短い沈黙が落ちる。

アリエラ・グレイスはすぐには答えず、正面の大澄を見ていた。


ほんの数分前、部屋へ入ってきただけで四人を黙らせた世界の歌姫。その存在感は、席についても少しも薄れていない。


何万人もの観客。無数のカメラ。各国の要人や世界的大企業の経営者。


そうした人間に見られ、値踏みされ、自分の一言が莫大な金や人を動かす場所で生き続けてきたのだろう。これほど注視されているのに、アリエラには身構える様子さえない。


大澄も、その圧をまともに受けていた。

怖くないわけがない。

むしろ真正面から向き合った今の方が、相手がどれほど巨大なのかはよく分かる。


それでも、自分が退けば、その分だけ遠藤アオが前へ押し出される。

だから退かない。


やがて、アリエラが口を開いた。


「I want to sing with Green Peas.(グリーンピースと歌いたい)」


簡潔だった。

それでも、本人の口から聞かされると重みが違った。


世界の歌姫が、遠藤アオと歌いたいと言っている。


「Not as an exhibition. Not just for one special performance.(ただのエキシビションとしてじゃない。特別な一回だけの共演でもない)」


隣に座る側近が、1枚の資料をテーブルへ滑らせた。

肩書はマネージャー。


しかし、ただ予定を管理する人間ではない。アリエラが世界の頂点へ立ってから現在まで、レーベル、巨大興行、世界的企業、国家規模のイベントと渡り合い続けてきた人物だ。


さらにその隣には通訳がいる。


英語と日本語を置き換えるだけではない。言葉の重さ、文化差、意図的に伏せられた情報まで読み取り、意味を落とさず両者へ渡す。


大澄たちが国内最大手のVTuber事務所を支える一流なら、向こうは世界そのものを相手にしてきた一流だった。


資料に記されていたのは、アリエラが数年前に発表した大ヒット曲。


姫野でも知っている。

清白も。

九なら当然だ。


世界各国でチャート上位へ入り、日本でも何度となく流れていた。


「この曲を、ですか?」


九が確認する。


「Yes.(そう)」


アリエラが頷いた。


「It was a hit. A very big one. But I've never thought it was truly complete.(ヒットした。とても大きなヒットだった。でも私は、一度も本当の意味で完成したとは思っていない)」


売れた。

評価された。

ライブでも何度も歌った。


それでも、アリエラ自身の中では何かが足りない。


かつて世界を席巻した自分の代表曲には届いていない。

アレンジも変えた。構成も試した。一流のミュージシャンとも合わせた。それでも、その違和感だけは消えなかったという。


「Then I saw the video.(それから、あの動画を見た)」


豊臣ツバサとグリーンピース。

例のデュエット。


「And for the first time, I thought I might have found what was missing.(初めて、足りなかったものを見つけたかもしれないと思った)」


大澄が尋ねる。


「グリーンピースの声ですか?」


九が訳す。


「No.(違う)」


即答だった。


「Her voice is extraordinary. But that's not why I came to Japan.(彼女の声は並外れている。でも、それだけが理由なら日本まで来ていない)」


アリエラが少しだけ身体を前へ傾ける。


「I was watching the other singer. Tsubasa.(私はもう一人の歌手を見ていた。ツバサを)」


九と清白の目が変わった。


世間が騒いだのはグリーンピースだった。

しかし、この人はその横を見ていた。


「She was already good. Very good. But after Green Peas changed, she changed too.(彼女は最初から上手かった。でも、グリーンピースが変わった後、彼女も変わった)」


「Green Peas wasn't trying to overpower her. She listened. She adjusted. She gave her space.(グリーンピースは彼女を上回ろうとしていなかった。聴いて、合わせて、歌える余白を作っていた)」


「And somehow, Tsubasa became better.(それなのに、ツバサまで良くなった)」


そこまで見抜いている。

アリエラは単にGreen Peasの美声へ惹かれて日本まで来たのではなかった。


そして清白は、それとは別のものも見ていた。

豊臣について話す時だけ、アリエラ自身の熱が明確に強くなる。対して側近は動かない。


少なくとも、この話の中心にあるのは商売ではない。

アリエラ本人の欲求だ。


清白は、その情報を覚えておく。


「I want to know what happens if she sings with me.(彼女が私と歌ったら、何が起きるのか知りたい)」


アリエラが大澄を見る。


「I want to hear what that song becomes.(あの曲がどうなるのか、聴いてみたい)」


姫野は、もう十分ではないかと思った。


世界のアリエラ・グレイスがここまで言っている。ただの記念共演ではなく、自分の大ヒット曲を作り直す相手としてアオを求めている。


これ以上、何を確かめる必要があるのか。


だが、その直後。

アリエラの側近が僅かに視線を上げた。


清白が拾う。

話をアリエラ本人の熱から、再び交渉へ戻す動き。


次の問いが来た。


「Can Green Peas sing like that again?(グリーンピースは、もう一度あのように歌える?)」


姫野には当然の質問に聞こえた。


だが九は質問そのものを。

清白は質問した側と、それを聞いている人間の顔を見た。


側近も通訳も、答えの中身以上に、大澄がどう答えるかを待っている。


大澄は一拍置いた。


「分かりません」


九が訳す。


「正確に言えば、再現できるとは保証できません。本人自身も、もう一度まったく同じように歌えるとは思っていません」


姫野が大澄を見る。


そこまで言うのか。

二度と来ないかもしれない話なのに、大澄はアオを少しも大きく見せようとしない。


「あなたが見た動画の前半。遠藤の歌が固かったことにも、当然気づいていますよね」


アリエラが僅かに目を細めた。

清白が短く口を挟む。


「大澄社長。たぶん、気づいていますよ」


大澄が一瞬だけ清白を見る。


「……そうだね」


それだけで十分だった。


清白が見ていたのはアリエラだけではない。

側近も通訳も、驚いていない。


彼らは再現性を知りたいのではない。

VSPが不都合な事実を隠すかどうかを見ている。


大澄は再びアリエラへ向き直る。


「遠藤は、人前で歌い慣れていません。あの日も、人に見られているという意識をできるだけ減らした状態で歌っています」


九が訳していく。


「それでも最初は固かった。途中から急激に変わった。何か条件が重なったことは分かっていますが、その条件を私たちも完全には把握できていません」


大澄は言い切った。


「ですから、あなたが動画で聞いたグリーンピースを、こちらから用意できるとは約束できません」


数秒の沈黙。


「Good.(いいわ)」


アリエラが答えた。


「I thought that might be the case.(たぶんそうだと思っていた)」


やはり。

分かっていた。


「She was too tense at the beginning. And the difference later was too extreme.(序盤の彼女は緊張しすぎていた。その後との差も、あまりに大きすぎた)」


「If that were normal for her, the first half wouldn't make sense.(あれが普段通りなら、前半の歌唱に説明がつかない)」


姫野の背中に冷たい汗が流れた。


質問ではなかった。

試されていたのだ。


それを大澄は正面から指摘する。


「今の質問。本当に遠藤の再現性を知りたくて聞いたわけではないですよね」


九がそのまま訳した。


「私たちがどう答えるのかを見たかった。世界的スターとの仕事を逃したくなくて、できると言うのか。都合の悪いところを隠すのか。遠藤を売るために、実際より大きく見せるのか」


大澄はアリエラだけでなく、側近と通訳まで見る。


「違いますか?」


誰も否定しなかった。


清白は三人の反応を追う。

アリエラも側近も互いへ確認を取らない。通訳にも驚きはない。


この試しは、三人の間で最初から共有されていた。


ならば、ここで相手の足並みを崩そうとする必要はない。

大澄が真正面から受ければいい。


清白は何も言わなかった。

それもまた、彼女が大澄へ渡した判断だった。


姫野にもようやく分かった。

この会談は最初から、アリエラ側による査定だった。


世界的大スターを前にした時、VSPは社員一人をどう扱うのか。


会社の利益を取るのか。

本人を商品として差し出すのか。

才能を誇張するのか。

相手の名前に媚びるのか。


そのすべてを、丁寧な会話の中で見られていた。


普通なら、気づいても笑って流す。

相手はアリエラ・グレイスなのだから。


大澄は流さなかった。


「一つ、こちらからも確認しておきます」


大澄の声が少し低くなる。


「遠藤は歌手ではありません。VSP所属のタレントでもない。運営スタッフです」


「I know.(知っているわ)」


「でしたら、話が早いですね」


大澄は続けた。


「今回の話を、遠藤の歌手としてのキャリアアップだと考えているなら、その前提は外してください。あなたとのデュエットが成立しても、それを理由に遠藤をタレントへ転向させる予定はありません」


ここで初めて、側近が直接割って入った。


「At this point?(現時点では?)」


「現時点では」


「And in the future?(将来的には?)」


「遠藤が決めます」


「Would VSP encourage her to pursue it?(会社として、歌手活動を勧める可能性は?)」


「本人が望まない限りありません」


「Even if you knew she could become globally successful?(世界的な成功が見込めても?)」


「関係ありません」


大澄は一度も視線を逸らさなかった。


そこで、側近が初めて黙った。




――ほんの数秒。

それまで一切の間を置かなかった男が、大澄を見たまま考える。


そしてゆっくりと座り直した。


清白から笑みが消える。

九も表情を引き締めた。

大澄だけは変わらない。


側近はテーブルに置かれた薄いファイルへ手を伸ばした。

それまで閉じたままだったファイルを開き、数枚の資料を取り出す。


アリエラが、その動きを横目で見た。

背もたれから背が離れた。


通訳も大澄へ向き直る。


それまでも完璧だった。

しかし今は、大澄が発言する前の呼吸や間まで拾おうとしている。九がどこで反応し、清白が誰を見るかまで、その視界に入れている。


言葉を訳すだけではない。

この場に生まれる意味を、一つも落とさないために。


九には分かった。

ここからが、本当の腹の探り合いだと。


清白も同じだった。

そして彼女は、その変化の順番まで見ていた。


最初に側近。

それにアリエラが応じ。

最後に通訳が合わせた。


今回の案件の主役はアリエラ。

だが、交渉の速度と強度を支配しているのは側近だ。


清白が一瞬だけ大澄を見る。

大澄も側近を見ていた。


言葉はいらなかった。


――ここからは、あの人。


大澄の視線の比重が、僅かに側近へ移る。


その一瞬のやり取りで、姫野にもようやく清白の仕事が見えた。


九が条件と言葉を拾う。

清白が人間と意図を拾う。

大澄が、その全部を使って決める。


その3人の向こうで。

世界最高峰の陣営もまた、大澄カガリを相手として認識し直していた。


アリエラはもう、興味本位では見ていない。

通訳は一言も取りこぼすまいと集中している。


そして側近の顔には、まだ穏やかなビジネスマンの笑みが残っていた。

ただし、その笑みの奥から余裕だけが消えている。


――ナメてかかれる相手じゃない。


誰も口にはしない。

それでも姫野にさえ、その結論だけは分かった。


世界最高峰の3人が、大澄カガリ1人へ向き直る。

その瞬間。

姫野の背筋を、冷たいものが走った。


嘘でしょ。

じゃあ、今までのあれで。

まだ本気じゃなかったの?


さっきまででも十分すぎるほど化け物だった。

なのに、今からさらにギアが上がる。


「Then let us be more precise.(では、もう少し正確に話しましょう)」


側近が言った。


声は変わらない。

穏やかで、丁寧。

笑みも消えていない。


だが姫野には、刃物を抜いたように見えた。

威圧も脅しもない。


ただ、この男は今。

大澄カガリを、心して相手にすると決めた。


「どうぞ」


大澄が返す。

一切、怯まない。

そこから質問の質が変わった。


「If Green Peas were to leave VSP tomorrow, who would control the name?(もしグリーンピースが明日VSPを退職した場合、その名前を管理するのは誰ですか?)」


姫野の思考が一瞬止まる。


明日?

退職?

なぜ、そこまで先の話を?


しかし大澄は動じない。


「質問の意図を、先に聞かせてください」


「We're assessing continuity. If this becomes a long-term project, we need to know whether the identity survives a change in employment status.(継続性を確認しています。長期的な企画になる場合、雇用関係が変わってもその名義が維持されるのか知る必要がある)」


九がすぐに入った。


「でしたら、名義の管理と本人の歌唱活動に関する権利は分けて考える必要があります」


「Agreed. Then who has the final authority over the identity?(同意します。では、その名義に関する最終決定権は誰が持っていますか?)」


九が答えるより先に、大澄が言った。


「遠藤本人です。少なくとも、本人の意思を無視して会社だけで決めることはありません」


そこから話題は一気に広がった。


音源。

原盤。

二次利用。

匿名性。

肖像。

広告。

海外プロモーション。


1つの答えから次の問いが生まれ、側近が投げ、九が論理と権利の面から拾う。


その横で、清白は誰の感情が動いたかを拾っていた。


顔出しの可能性が議題へ上がった時だった。

九が条件を整理する。


「顔出しの有無と、歌唱者としてのクレジットは分けて考えたいです」


清白は側近ではなく、アリエラを見た。


側近は顔出しの余地を探っている。

アリエラ本人は、そこへほとんど反応していない。


「アリエラさんご本人は、グリーンピースが顔を出すことって重要なんですか?」


九が訳す。

側近より先に、アリエラが答えた。


「No. I don't care what she looks like.(いいえ。彼女がどんな姿なのかは気にしていない)」


清白が大澄を見る。


「大澄社長」


「うん」


それだけだった。


「では、顔出しは今回の企画の条件から外します」


側近が、初めて清白を見た。

柔らかい口調で一言質問しただけ。

それでも清白は、側近が商業面から探っていた可能性と、アリエラ本人の本懐を切り離した。


大澄は、その情報を即座に条件へ変えた。


姫野には、一つ一つなら分かる。

だが、それが積み重なるほど全体が見えなくなった。


九がなぜ今の言い回しへ反応したのか。

清白がなぜその瞬間だけアリエラを見たのか。

大澄がなぜ即答せず二秒待ったのか。


そこまでは追えない。


姫野は、自分の理解力が低いとは思わなかった。


現場なら自信がある。

混乱の中で人員を動かし、事故の芽を潰し、瞬時に優先順位を決める。

そこなら自分が前に立てる。


だが、ここは違う。

前線指揮官が戦う場所ではない。


どこを戦場にするのか。

何を勝利とするのか。

そもそも戦うのか。


それを決める人間たちの場所だった。


だから、自分がおかしいのではない。


九がおかしい。

世界最高峰の交渉人が投げる問いを、法務と権利の側から即座に分解している。


清白もおかしい。

英語はほとんど分からないのに、訳された言葉と人間の反応だけで、誰の本音がどこにあるのかを拾い続けている。


そして、何より大澄がおかしい。

法律なら九の方が上。

人を見るなら清白の方が鋭い。

英語も海外業界の経験も、向こうには及ばない。


それでも中央にいるのは、大澄カガリだった。


九が条件を渡す。

清白が人間を渡す。

大澄が決める。


向こうが一段強くなっても、その形だけは崩れない。


やがて側近が一つの提案を出した。


「If VSP grants us broad usage rights, we can guarantee a significantly higher compensation package and worldwide promotional support.(VSP側から広い利用権を認めてもらえるなら、報酬を大幅に引き上げ、世界規模のプロモーションも保証できます)」


破格。

姫野にさえ、それは分かった。


だが九は答えない。

清白も側近を見ている。


この提案について、彼は1度もアリエラへ確認を取っていない。

これはアリエラ本人の希望ではなく、側近が交渉カードとして置いたもの。


大澄は九を見た。

次に清白。


2人とも言葉にはしない。

それで大澄は十分だった。


「その条件が成立した場合、最終的な判断権はどちらにありますか?」


側近が僅かに黙る。

そこで姫野にも分かった。


条件はいい。

しかし、その中に主導権まで含まれている。


九は契約上の危険を見た。

清白は、それが誰の意思から出された条件なのかを見た。

大澄は、その両方を使って一番深いところへ手を伸ばした。


側近の笑みが僅かに深くなる。


まだ作られたビジネスマンの笑顔だった。

だが、不快だからではない。


ようやく、本気で交渉する価値のある相手を見つけた。

姫野には、そう見えた。


大澄はアリエラへ視線を戻した。


「アリエラさん。1つ、誤解してほしくないことがあります」


九が訳す。


「あなたが世界的スターだから、今日ここにいるわけではありません」


アリエラが黙って待つ。


「あなたの話が、遠藤にとって選ぶ価値のあるものかもしれない。だから今日、私たちはここにいます」


大澄は一拍置いた。


「ですから、あなた方が遠藤を見極めているように」


もう一拍。


「こちらも、あなた方を見ています」


アリエラの表情から、最後に残っていた余裕が消えた。

側近の笑みが止まる。

通訳は大澄だけを見る。


「遠藤アオに、あなた方を会わせていいのか」


大澄は、世界最高峰の3人を真正面から見た。


「今度はこちらが、判断させてもらいます」


誰もすぐには答えなかった。

最初、この部屋で試されていたのはVSPだった。


いつ入れ替わったのか。

姫野には分からない。


ただ、今は分かる。


世界最高峰の3人が、大澄カガリの言葉を黙って受け止めている。

そして、その目はもう、この部屋へ入ってきた時のものではなかった。


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