第42話:世紀の大スター、緊急来日
『アリエラ・グレイス』
その名前が出た瞬間、社長室から音が消えた。
大澄カガリ。
清白メイカ。
姫野ミカン。
九ナルミ。
VSPでも、ごく一部の人間しか参加することのない会議だった。
机の中央には、九が持ってきたノートパソコンが置かれている。表示されているのは、昨日VSP公式窓口へ届いた1通のメッセージだ。
「……あの、アリエラ・グレイスですか?」
姫野が確認する。
「はい。あのアリエラ・グレイスです」
九が答えた。
「送信元は先方の正式なマネジメント窓口。ドメイン、署名、認証、過去の公式連絡先との照合まで済ませました。なりすましの可能性は、ほぼありません」
「本人の意向という確認は?」
大澄が聞く。
「取れています。マネジメント側からも、本人があの動画を見た上で希望していると返答がありました」
九が画面をスクロールする。
そこに書かれている内容は、何度読んでも変わらない。
『Green Peas本人と、一度話をしてみたい。
可能であれば、一緒に歌ってみたい』
文章にすれば驚くほど短い。
問題は、その差出人だった。
――アリエラ・グレイス。
米国出身。世界各国のチャートで何度も首位を獲得し、世界最大級の会場を埋めるツアーを何度も成功させてきた女性歌手。
音楽に詳しいかどうかは関係ない。最近の洋楽を追っているかどうかも関係ない。本人を知らなくても、代表曲のどれかは知っている。
テレビ、映画、CM、スポーツ大会、街中、店内。
世界中の至るところで流れてきた曲を、何曲も持っている。
そんな人物が、VSP所属タレントではなく、運営スタッフの歌を聞いて会いたいと言っている。
「…………」
清白が画面を見る。
珍しく、笑っていなかった。
「本当に、アオちゃんなんですね~……」
「グリーンピース指名です」
九が答える。
「豊臣さんにも触れてますけど、面会希望は明確にグリーンピース本人です」
「…………」
姫野が額を押さえた。
「どうしてこうなった……」
誰も答えなかった。
4日前まで、遠藤アオはVSPの新人社員だった。
今も社員ではある。
そこは何も変わっていない。
なのに、世界のトップスターから直接指名が来た。
わけワカメである。
だが、大澄だけはすでに画面から目を離していた。
「九」
「はい」
「この件を知ってる人間は?」
「最初にメールを確認した担当が一人。私。それから、今ここにいる4人です」
「その担当には?」
「口外禁止を伝えています。チャットへの転載もなし。データも権限を絞りました」
「分かった」
大澄は少しだけ考えた。
「じゃあ、ここで止める」
3人が大澄を見る。
「現時点では社内共有しない。役員会にも上げない。必要になった人間だけ、私の判断で追加する」
「役員にもですか?」
姫野が聞く。
「今はまだ必要ない」
大澄は即答した。
「名前だけで騒ぎになる。社内で漏れたら、本人に届く前に会社中が遠藤を見るようになる」
「……でしょうね」
姫野には容易に想像できた。
ただでさえ今の遠藤アオは、社員から注目されている。
そこへ『世界のアリエラ・グレイスがお前に会いたがっている』などという情報が流れたら。
「死にますね」
姫野が言った。
「死ぬね~」
清白も頷く。
「そんなん殺人ドッキリっしょ」
九まで同意した。
大澄は続ける。
「だから遠藤にも、まだ言わない」
清白が少しだけ眉を上げた。
「アオちゃん本人にもですか?」
「まだ相手が何を求めてるのか分からない」
大澄は机の上のメールを見る。
「一緒に歌ってみたい。そこまでは分かる。でも、どういう意味で言ってるのかは分からない」
商業案件なのか。
個人的なセッションなのか。
正式な楽曲制作なのか。
レコーディングなのか。
あるいは、本当に一度歌ってみたいだけなのか。
メールだけでは判断できない。
「この状態で遠藤に名前だけ伝える意味はないよ」
「……確かに」
清白が頷く。
「アオちゃんの場合、期待させるというより先にプレッシャーだけ背負わせちゃいますね~」
「それに、話が流れる可能性だってある」
大澄の声は淡々としていた。
「逆に、向こうが想像以上の話を考えている可能性もある。どっちにしても、今の段階で遠藤に判断させる材料がない」
九が頷く。
「同意します。法的にも、現状だと案件ですらありません。正式なオファー内容がない以上、本人に提示できる条件もありません」
「なので、まず私たちが会う」
大澄が言った。
「先方の意向を直接確認する」
姫野が顔を上げる。
「会うんですか?」
「向こうが会いたいと言ってきた以上、一度はね」
「こちらからアメリカへ行きます?」
「ひとまず、そのつもりで返答する」
九がパソコンへ手を伸ばしかけた。
その直前、通知が入った。
先方からの追加メッセージだった。
「え~と、なになに?…………ぇ」
一瞬、九の呼吸が止まる。
「何?」
大澄が聞く。
九は一度読み、もう一度読み直した。
「……向こうから来るそうです」
「どこにですか?」
姫野が聞く。
「日本」
「…………」
清白が止まった。
「日本に?」
「はい」
「あのアリエラ・グレイスが?」
「はい」
「わざわざアオちゃんに会うために?」
九が少し考える。
「少なくとも、この面談が来日の目的の一つなのは間違いないです」
長い沈黙が落ちた。
「うっ…………胃が」
姫野が腹を押さえる。
「私もちょっと痛くなってきました~……」
清白も笑えていない。
九ですら乾いた顔をしている。
「いやいやいや!え、これ来るの早すぎません!?世界的大スターってもっとこう、予定とか年単位で詰まってるもんなんじゃ……」
「それは向こうに聞いて」
大澄が返す。
「大澄社長、平気なんですか?」
九が聞いた。
「……平気じゃない」
即答だった。
三人が少し安心した。
ちゃんと人間だった。
「でも、来るなら受ける」
大澄は椅子へ深く座り直した。
姫野が見る。
「即決ですか?」
「ここで逃げてどうするの」
声は静かだったが、先ほどまでとは少し違った。
「向こうが世界のアリエラ・グレイスなら、こっちはVSPだよ」
三人が黙る。
「世界規模では向こうの方が何十倍も大きい。そんなの分かってる。でも、だからって遠藤を裸で向こうに渡すわけにはいかない。うちの社員なんだから、まずうちが受ける」
そして一拍置く。
「大手事務所の看板を背負ってるのは、こういう時に逃げないためでしょ」
清白が大澄を見る。
普段は寝坊する。
会議室では眠そうにしている。
蓮見カンナに辞表を突きつけられれば、退出後に清白へ抱きついて泣く。
そんな人間。
でも、清白は知っている。
この人が会社を背負わなければならない時だけは、絶対に逃げないことを。
「それと、一つだけ今のうちに合わせておく」
大澄が3人を見る。
「相手が誰でも、最後に決めるのは遠藤本人」
誰も口を挟まなかった。
「アリエラ・グレイスが相手だから受けろ、はなし。VSPにとって得だから受けろ、もなし。遠藤が嫌だと言ったらそこで終わり」
「はい」
姫野が答えた。
清白も頷く。
九も同じだった。
「ただし」
大澄は続ける。
「こっちが怖がって、遠藤に話を持っていく前に潰すのもダメ」
清白が、わずかに笑った。
「……大澄社長らしいですね~」
「遠藤を守ることと、遠藤の可能性を勝手に捨てることは違う」
大澄はメールを見る。
「相手の名前に浮かれて進めたら、遠藤を売ることになる。相手の名前に怖がって断ったら、今度は遠藤の選択肢を私たちが奪う」
「どっちもやらない、と」
九が確認する。
「そう」
大澄が頷いた。
「まず私が会う。相手が何をしたいのか聞く。それから考える」
会議の結論は、それで決まった。
数日後。
日本中が朝から同じニュースを見ていた。
『世界的歌姫、アリエラ・グレイスが緊急来日』
『突然の訪日にファン騒然』
『来日の目的は明かされず』
『新プロジェクトか? 極秘撮影か?』
『日本公演の電撃発表を期待する声も』
テレビ、ネットニュース、SNS。
朝から、どこを見てもアリエラ・グレイスだった。
「へぇ……」
遠藤アオも、昼休みに社内モニターへ流れているニュースを見ていた。
隣には蓮見カンナ。
少し離れたところに豊臣ツバサと明野ノゾミ。
「この人、来日したんですね」
アオが言う。
「はい」
蓮見が答える。
反応は薄い。
「蓮見さん、知ってます?」
「もちろん」
「やっぱり」
「ミュージックビデオも何本か参考資料として見ています」
「そっちなんですね……」
やっぱり蓮見さんだった。
「アリエラさんですかぁ」
豊臣がニュースを見る。
「日本を楽しんでいただけるといいですねぇ」
「でも緊急来日って何なんでしょうね」
明野も画面を見る。
「ライブなら流石に急すぎるし。新曲の撮影とか?」
「映画関係じゃないですか?」
アオが言う。
「日本の映画に出るとか」
「ありそう」
「ブランドイベントかもしれませんねぇ」
4人は好き勝手に予想している。
誰一人、正解を知らない。
その少し離れた場所で、姫野ミカンはコーヒーを飲みながら全部聞いていた。
「何しに来たんでしょうね」
アオが姫野を見る。
「…………」
ええ、知ってますとも。
YOUは何しに日本へ、だって?
……お前だよ。
お前に会いに来てんだよ、あのアリエラ・グレイスが。
「さあな」
「姫野さん、顔色悪くないですか?」
「寝不足」
「ちゃんと寝た方がいいですよ」
「誰のせいだと思ってんだ……」
「え?」
「何でもない」
言えない。
絶対に言えない。
そこへ清白がやってきた。
「みんな、お疲れさま~」
「清白さん」
アオが呼ぶ。
「ニュース見ました?」
「ニュース?」
「アリエラ・グレイスです。来日したらしいですよ」
「…………」
清白の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「へぇ~、そうなんだぁ」
姫野がジト目で見る。
「何しに来たんでしょうね」
「なんだろうね~」
「清白さん、何か知ってます?」
「し、知らないよ~?」
姫野は思った。
嘘がド下手。
下手っぴとかじゃない。マジもんのド下手。
上司じゃなかったら、殴り倒してる。
「……スズちゃん」
「何?」
「ちょっと来い」
「え~、今来たばっかりなんだけど」
「いいから」
姫野が清白を連れていく。
背後からアオの声が聞こえた。
「……二人とも今日変ですね」
「ですね」
蓮見。
「何かあるんでしょうか」
「さあ」
「まあ、仕事ならそのうち分かるっしょ」
明野。
「そうですねぇ」
豊臣。
果てしなく呑気。
ものすご~く呑気。
姫野の胃が、さらに痛くなった。
一方、社長室。
九はソファへ沈んでいた。
「……もう空港出たって」
「うん」
大澄が答える。
「今この辺、記者とか来てないですよね?」
「今のところは」
「追跡されてない?」
「警備会社からは問題なし」
「ルートは?」
「変更済み」
「地下から?」
「そう」
「入館名義は?」
「処理済み」
「…………」
九が胃の辺りを押さえた。
「吐きそう」
「まだ吐かないで」
「大澄社長は?」
「同じ」
「顔に出てないですよ」
「社長だからね」
大澄は普通に書類を見ていた。
少なくとも、見た目だけは一切動揺していない。
今回の来社は、社内ですら伏せられている。
必要な警備担当。
施設管理。
来客導線を担当する最低限のスタッフ。
それぞれにも必要な情報しか渡していない。
誰が来るのか知っている人間は、極端に少ない。
社内には、
『重要VIP来訪のため、一部区画を時間限定で封鎖』
それだけ。
理由も、名前もない。
そして当のグリーンピース本人は、今頃普通に仕事をしている。
九は天井を見る。
「これでアオちゃん、普通に広告素材の確認とかしてるんですよね」
「してるだろうね」
「世界の歌姫が自分に会いに来てる日に?」
「本人知らないからね」
「温度差で風邪引きそうなんですけど」
大澄も、それには少し笑った。
午後。
指定された時刻が近づく。
四人はVIPルームにいた。
大澄カガリ。
清白メイカ。
姫野ミカン。
九ナルミ。
そして4人とも、誰だと言いたくなるくらい普段と格好が違った。
大澄は濃色の完全なビジネススーツ。
いつもの少し眠たげな雰囲気は跡形もなく、髪も整えられ、姿勢も表情も完全にVSP代表取締役のそれだった。
清白も普段の柔らかい服装ではなく、落ち着いたフォーマルスーツ。
姫野も同様。
九に至っては、姫野が部屋へ入ってきた時に三秒ほど見つめられた。
「……キューちゃん?」
「何ですか」
「本人ですか?」
「本人ですよ」
「初めて見ましたよ、その格好」
「ウチも人生で何回目か分かんないです」
「写真撮っときます?」
「やめてください」
清白も自分の袖を見ながら笑った。
「私もこんなの着たの、いつぶりだろ~」
「清白」
大澄が呼ぶ。
「はい」
清白の背筋が伸びる。
「英語、無理しなくていいから」
「……ありがとうございます」
「九がいる。先方も通訳を連れてくる。分からないのに分かったふりする方が危ない」
「助かります~……」
清白は英語が壊滅的だった。
姫野はそこそこ。
旅行や簡単な日常会話、多少の仕事ならどうにかなる。
九は普通に話せる。
問題は大澄。
「大澄社長は大丈夫ですか?」
姫野が聞く。
「最低限」
「最低限って」
「挨拶くらい」
「その後は?」
「……九さん」
「任せてください」
即答。
大澄は無理に格好をつけなかった。
自分にない能力なら、ある人間へ任せる。
その代わり、自分が決めるべきことは自分で決める。
「……定刻まで、あと3分です」
九が時計を見る。
その瞬間、4人が黙った。
3分。
長い。
姫野がネクタイを確認する。
清白が一度だけ深く息を吐く。
九が先ほどまで何度も確認した資料を、もう一度開く。
大澄だけは扉を見ていた。
「……大澄社長」
姫野が呼ぶ。
「はい」
「私、正直まだ信じられないんですけど」
「私もだよ」
「本当に来るんですよね」
「来る」
「アリエラ・グレイスが」
「うん」
「この会社に」
「うん」
「…………胃が」
「耐えて」
「はい」
ノック。
全員の呼吸が止まった。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、先方のマネジメントスタッフ。
次に通訳。
そして最後に、一人の女性が姿を現した。
4人は言葉を失った。
アリエラ・グレイス。
テレビで何度も見た。
MVで。
広告で。
授賞式で。
ライブ映像で。
世界中の巨大ステージで、何度も見たことがある。
同じ顔。
同じ人間。
そのはずだった。
でも、違った。
画面越しとはまるで違う。
部屋に入ってきただけだった。
派手なポーズを取ったわけでもない。
取り巻きを従えて威圧しているわけでもない。
ただ歩いている。
それだけなのに、空間の中心が彼女へ移ったように錯覚した。
姫野が息を呑む。
九も一瞬、英語を忘れた。
清白は笑顔のまま完全に固まっている。
そして大澄ですら、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
大澄も清白も、これまで何人もの経営者と会ってきた。
大企業の役員。
大手芸能事務所の重役。
音楽会社。
テレビ局。
広告代理店。
VSPは国内最大手のVTuber事務所。
他の3人も、相手の肩書だけで縮み上がるような人間ではない。
それでも、思った。
――井の中の蛙大海を知らず。
実際にはそんなこと無いのだが。
彼女たちも大海そのものは知っている。
何度も外の世界と戦ってきた。
だからこそ分かってしまう。
今、目の前にいる女性が、その海のさらに先。
世界という規模で頂点に立ち続けてきた人間だということを。
格。
風格。
オーラ。
存在感。
どんな言葉を使っても少し足りない。
世紀の大スター、アリエラ・グレイス。
その肩書が誇張ではないことを、たった数秒で理解させられた。
アリエラが4人を見る。
微笑む。
「Thank you for having me on such short notice.(急なお願いだったのに、迎えてくれてありがとう)」
九が一瞬遅れて我に返り、訳そうとする。
その前に椅子が小さく動いた。
大澄が立った。
一歩、前へ出る。
その瞬間、姫野が大澄を見る。
さっきまで同じように圧倒されていたはずなのに、もうその気配は顔に残っていなかった。
大澄は最低限しか話せない英語で、ゆっくり、確実に口を開く。
「Welcome to VSP. I'm Kagari Osumi, president of VSP.(VSPへようこそ。代表の大澄カガリです)」
発音が完璧なわけではない。
流暢でもない。
それでも、声は一切震えていなかった。
「Thank you for coming all the way to Japan.(日本までお越しいただき、ありがとうございます)」
アリエラが大澄を見る。
ほんの少し、目が変わった。
大澄は九を見る。
そこから先は任せる。
九が自然に一歩出て、英語で先方と挨拶を交わす。
滑らかで、淀みがない。
その間も、大澄は逃げずにアリエラを見ていた。
世界の大スター。
確かに次元が違う。
なら、それでいい。
向こうには向こうの世界がある。
こちらには、こちらの守るものがある。
そして今日、それを代表して座るのは自分だ。
簡単な挨拶が終わる。
全員が席につこうとした時、アリエラがふと部屋を見渡した。
大澄。
清白。
姫野。
九。
4人。
それだけ。
アリエラが九へ尋ねる。
「Where is Green Peas?(グリーンピースはどこ?)」
九が大澄を見る。
姫野も、清白も大澄を見る。
大澄は数秒、アリエラと目を合わせた。
それから日本語で静かに言った。
「九。私が今から言うことを訳して伝えて」
「はい」
「その前に、一つ聞きたい」
九が英語へ変える。
大澄は世界の歌姫を真正面から見た。
「あなたが、遠藤アオに何を望んでいるのか。まず、それを聞かせてください」
九が正確な英語へ変えていく。
世界のアリエラ・グレイス。
国内最大手VTuber事務所、VSP。
その代表、大澄カガリ。
二人の視線が、初めて真正面からぶつかった。




