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第37話:コミュ障、遠い未来への一歩を踏み出す


「で、遠藤」


ひとしきり笑った姫野さんが、目尻を拭いながら姿勢を戻した。


何ということだろう。

まだ笑っている。

姫野さん、私だって怒るんですよ?


「最後に、お前の今後についても一応確認しとく」


「……今後」


急に話が重くなった。

さっきまで私の顔を見て爆笑していた人と同一人物とは思えない。


姫野さんは私のそんな視線を無視して続けた。


「まず聞くけど。お前、歌手になりたい?」


「……なりません」


「早ぇな」


考える必要がなかった。


歌うことは好きだ。

一人で歌うのも好きだ。


でも、それを仕事にして、人に聞かせ続ける生活がしたいかと聞かれたら。

無理。


昨日の一曲だけでこれなのだ。

仕事になったら胃がいくつあっても足りない。


「じゃあ、タレント活動」


「……いまは、到底無理だと思います」


画面の向こうに何万人。


コメント欄。

数字。

期待。


無理ぽよ。

想像するだけで喉が縮む。


「まあ、そう言うと思ってたけどさ」


「なら何で聞いたんですか……」


「確認は大事だろ」


それはそう。


姫野さんは腕を組んだまま、少しだけ考えるようにこちらを見る。


「じゃあ、昨日歌ったこと自体は?」


「……え?」


「豊臣と歌ったこと。後悔してる?」


今度は、すぐに答えられなかった。


昨日のことを思い出す。


歌う前は死ぬほど怖かった。


そして何より。

歌った後は世界が大変なことになった。


今日一日で会社の人たちに囲まれて、動画編集部へ逃げて、蓮見さんに捕まって、さっき自分の知らない自分の声まで聞かされた。


当分ヒトカラにも行けない。

被害だけ並べれば、かなりひどい。


でも。

豊臣さんは、あの曲を歌えた。


本当は歌いたかったのに、誰にも迷惑をかけまいとして諦めようとしていた。

最後まで歌い終えた豊臣さんは、すごく嬉しそうだった。


『今までで、一番気持ちよく歌えた気がいたしますぅ』


あの言葉を思い出す。


「……後悔は、してないです」


姫野さんは何も言わず、続きを待った。


「こんなことになるとは……思ってなかったですけど」


「そりゃこっちも思ってねぇよ」


「でも、豊臣さんが……あの曲、歌えたので」


あの時。

私が黙っていれば、安全だった。

誰にも注目されなかったし、今日みたいなことにもならなかった。


それでも。

あの時に戻ったとして。

豊臣さんが、また同じ顔で歌うのを諦めようとしていたら。


「たぶん……また、言うと思います」


「歌えますって?」


「……たぶん」


怖いけど。


たぶん。


姫野さんは一度だけ小さく頷いた。


「じゃあ、そこまで分かってりゃ十分だ」


「……十分なんですか?」


「今はな」


姫野さんはあっさり答えた。


「昨日一回あんな歌したからって、お前の人生まで今日決める必要ねぇだろ」


「…………」


「外が勝手に盛り上がってるから歌手になれとか、タレントやれとか。そんな話は全部無視していい」


横で九さんも頷く。


「そそ。向こうはアオちゃんの事情とか知らんしね。昨日の歌だけ聞いて『この人ほしいです』って言ってる状態だから」


「……はい」


「ありがたい話ではあるけど、それで本人置いてきぼりにしたら普通に事故るんよ」


九さんらしい言い方だった。


清白さんも、さっきまでの自慢げな顔から少し表情を緩める。


「アオちゃんはアオちゃんのままでいいよ~」


「……はい」


「歌いたくなったら、その時考えればいいし。やっぱり嫌だってなったら、それでもいいしね」


「でも」


口に出してから、一度止まる。


三人がこちらを見た。

視線が集まる。

ちょっと帰りたい。


「……昨日みたいに」


何とか続きを出す。


「誰かが困ってて。その……私の声で、何かできるなら」


そこで言葉が詰まった。


歌手は嫌。

タレントも無理。

人前で歌いたいとも思わない。


それでも。


自分の声で誰かが助かるなら。

豊臣さんみたいに、できなかったことができるようになるなら。


「例外なく……嫌っていうわけでは、ないです」


言ったあとで、少し恥ずかしくなって俯いた。


清白さんがふっと笑う。


「うん。それでいいんじゃないかな~」


「……そうですか?」


「うんうん。今それ以上決める必要ないよ」


姫野さんも同意するように頷いた。


「昨日のあれがもう一回出せるかも分かんねぇしな。使い方考えるのは、その辺分かってからでいい」


「はい」


「ただ」


人差し指を向けられる。


「また何かあった時、一人で勝手に『私がやれば』って突っ込むなよ」


「…………」


「返事」


「……はい」


心当たりしかない。


「本当に分かってんのか?」


「分かって……ます」


たぶん。


姫野さんの目が細くなった。


「今の間で信用なくしたぞ」


「そんな……」


「んじゃ、方向性はそんな感じで」


九さんが資料をめくった。


「で、ここから超実務的な話なんだけど」


まだあるらしい。


今日の話はなかなか終わらない。


「アオちゃんの名前、どうする?」


「……名前?」


「そう」


九さんがノートパソコンをこちらへ向ける。


画面には、今日届いた問い合わせをまとめたらしい一覧が並んでいた。


『昨日の歌唱スタッフについて』

『豊臣ツバサ様配信内の女性歌唱者について』

『VSP所属スタッフ様へのご依頼』


呼び方が全部違う。


「今、外じゃ『裏方セイレーン』とか『歌姫スタッフ』とか好き勝手呼ばれてるじゃん?」


「…………」


何だそれ。


セイレーン。

歌姫。


どちらも私の人生で自分につくとは思っていなかった単語だ。


「……スタッフは、合ってます」


「そこだけ拾う?」


「他は……ちょっと」


重い。

あまりにも肩書きが重い。


特に歌姫。

姫。


私は今日、朝から人に囲まれて死にかけ、午後は動画編集部へ逃亡し、さっきヒトカラまで禁止された女である。


姫要素がどこにもない。


「昨日一回だけなら、それでも別によかったんよ。でも、もうそれじゃ処理しづらい」


九さんが指折り数える。


「問い合わせ管理する時。昨日の歌を公式で何か扱う時。クレジット出す時。もし今後またアオちゃんが声だけ参加することになった時」


一つ。

二つ。

三つ。


「毎回『豊臣ツバサの歌枠で歌ったVSP所属の匿名運営スタッフ』は長すぎるっしょ」


「……長いですね」


「でしょ?」


そこはよく分かった。


「だから、本名とは別に、外向けで使える名前を一個決めたいんよ」


「…………」


外向けの名前。

その言葉に、少しだけ身構えた。


姫野さんがすぐ気づく。


「別にタレント名じゃねぇぞ」


「……はい」


「お前は運営のまま。顔も本名も出さねぇ。ただ、あの声の人間を呼ぶ時の名前が必要ってだけ」


「なるほど……」


それなら。

分かる。


「今日すぐ決めなくてもいいけどね~」


清白さんが言う。


「本名に繋がりすぎないやつで、アオちゃんが呼ばれて嫌じゃない名前なら何でもいいと思うよ」


「何でも……」


一番困るやつだ。


ペンネーム。

ハンドルネーム。


そういうものを今まで考えたことが――

そこまで考えて。

止まった。


いや。

ある。


一度だけ。

使ったことがある。


「…………」


ずっと前ではない。

ほんの少し前。


なのに、随分昔のことみたいに感じる。


VSPのオーディション。

まだ私は、もしかしたら、自分もあの輝いている側へ行けるかもしれないと。


そう思っていた頃。


その時、一度だけ使った名前がある。


「遠藤?」


姫野さんに呼ばれて顔を上げる。


「何か浮かんだ?」


「……一応」


「あるんじゃん。言ってみ?」


言う。

それだけなのに、妙に緊張した。


「…………グリーンピース」


一瞬。

静かになった。


九さんが瞬きをする。

姫野さんも。


「グリーンピース?」


「……はい」


九さんが首を傾げた。


「何で?」


「その……」


説明するのが急に恥ずかしくなってきた。

でも、言わないともっと意味が分からない。


「遠藤、アオなので……」


「うん」


「アオエンドウ……」


「……ああ」


九さんの顔に理解が広がる。


「グリーンピース」


「……はい」


「ダジャレじゃん」


「…………ひゃい」


言わないでほしい。


姫野さんも遅れて意味を理解したらしい。


「お前、そこから取ったのかよ」


「……駄目ですか?」


「いや、別に駄目じゃねぇけど」


姫野さんは少し笑った。


「思ったよりちゃんと名前っぽいの出てきたから、ちょっと意外だった」


「どういう意味ですか……」


失礼だ。


「アタシはいいと思うけどね。覚えやすいし」


九さんが言う。


その隣で。

清白さんだけが何も言っていなかった。


「……?」


見ると。

清白さんは、少し驚いたような顔で私を見ていた。


それから、ゆっくり笑った。


「あ~」


「……何ですか?」


「ううん」


何だろう。


「そっかぁ。グリーンピースにするんだね~」


「…………」


その言い方。


姫野さんが眉を寄せた。


「何。スズちゃん知ってんの?」


「知ってるよ~」


「何で?」


清白さんは何でもないことのように答えた。


「アオちゃん、オーディションの時もその名前だったから」


「…………」


ばれた。

いや、清白さんが知っているのは当たり前なのだけど。


「え?」


九さんが私を見る。

姫野さんも見る。


やめてけれ。


「お前、これ前にも使ってたの?」


「……はい」


「VSPのオーディションで?」


「…………はい」


何で二回聞くのだろう。


「へぇ~」


九さんが面白そうに私を見る。


「じゃ、新しく付けた名前じゃないんだ」


「……そうです」


「何でそれまた使おうと思ったん?」


「…………」


答えようとして止まった。


名前なら、他にもいくらでも考えられる。


アオに関係するもの。

好きなもの。

適当な単語。

今から新しく作ったっていい。


なのに。

名前を決めてと言われた時。

最初に浮かんだのはこれだった。


「……他に、思いつかなかったので」


結局そう答えた。

嘘ではない。


九さんは「ふーん」と頷いた。

姫野さんも、それ以上は何も聞かなかった。


ただ、清白さんだけはなぜか。

少し嬉しそうに笑っていた。


「あれ、いい名前だと思ってたんだよね~」


「……そうですか?」


「うん」


清白さんが頷く。


「アオちゃんらしくて」


「ダジャレですけど……」


「そこも含めて」


「…………」


褒められているのだろうか。

よく分からない。


「じゃ、決まりでいい?」


九さんが確認する。


「……はい」


答えた。

その瞬間、何かが大きく変わったわけではない。


私は明日もVSPへ来る。

運営の仕事をして。

たぶん、姫野さんに怒られて。

蓮見さんには昨日の歌の続きを聞かれる。


歌手になるわけでもない。

タレントになるわけでもない。


それでも。


グリーンピース。


その名前は、私にとって、今初めてできた名前ではなかった。


オーディションの時。

私はその名前で、画面の向こう側へ行こうとした。


結局、そこへ行くことはできなかった。


今はもう、行こうともしていない。


私はVSPの運営スタッフで。

それでいいと思っている。


なのに。

別の名前にしようとは、なぜか思えなかった。


「じゃあ、外向けはグリーンピースで進めるね」


九さんが、何でもないことのように言った。


「……はい」


一度だけ使った昔の名前。


それを私は、今度はVtuberになるためではなく。

Vtuberを支える側としてもう一度、使うことになった。


――グリーンピース。


それが、これから外の世界で呼ばれる、私の名前になった。


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