第34話:コミュ障、超常現象を起こす
三。
二。
一。
私は、息を吸った。
伴奏に合わせて、声を出す。
硬い。
歌い出した瞬間、自分でも分かった。
一人で歌う時なら、もっと楽に出せる高さなのに、喉の奥に余計な力が入っている。
それでも。
音程は外さない。
リズムにも遅れない。
イヤホンから聞こえる豊臣さんの声へ、自分のパートを重ねていく。
聞こえるのは、それだけだった。
伴奏。
豊臣さんの歌声。
スタッフさんの声もない。
コメント欄もない。
同接もない。
配信画面もない。
外に何人いるのか。
今、何を言われているのか。
何も分からない。
それでいい。
今は。
豊臣さんの声だけを聞けばいい。
調整室では、姫野が腕を組んでモニターを見ていた。
豊臣の歌枠は、休憩画面の時点から同時接続数を伸ばし続けている。
理由は明白だった。
最後の曲。
豊臣ツバサが一番好きだと公言し、昔から大切な場面で歌ってきた一曲。
その大トリを。
音声トラブルによって、VSPの運営スタッフが急遽デュエットする。
そんな情報が、短い休憩の間だけで既に広がっていた。
「……すげぇ同接増えてんな」
姫野が数字を見る。
「そりゃ増えますよ」
音響スタッフも苦笑する。
「運営スタッフが急にタレントと歌うなんて、聞いたことないですし」
「間違いないな」
第二ブースにいるアオには、徹底的に外部の情報を遮断している。
カメラなし。
配信画面なし。
コメント欄なし。
同接表示なし。
調整室との窓も塞いだ。
曲が始まってからは、こちらからも一切声をかけない。
途中で異常が起きない限り、アオが聞くのは、伴奏と豊臣の声だけ。
そこまでしてようやく歌わせている。
ただ、案の定とでもいうべきか。
やはりその歌声は、どこか硬いように聞こえた。
それでも。
「……普通に上手いんだよな」
コメント欄も、同じ反応だった。
『おぉ』
『めっちゃうまい』
『普通に歌唱力高くない?』
『スタッフだよな??』
『ハモリ綺麗』
『急に合わせてこれ?』
音程は安定している。
入りも正確。
豊臣の声を邪魔しない。
そのうえ、自分のパートもきちんと成立させている。
声こそ硬いが。
歌そのものは、明らかに上手い。
「ヒトカラが趣味ってレベルじゃないでしょ、これ」
音響スタッフが呟いた。
姫野も同感だった。
ただ。
この時点で十分に上手い。
このときはまだ、その程度の認識しか持っていなかった。
豊臣も、前半は普段と大きく変わらなかった。
イヤーモニターには、自分の声。
伴奏。
そして、別のブースから届くアオの声。
とても合わせやすい。
そう感じた。
急遽組んだとは思えないほど、入りが正確だった。
豊臣が少し強く出れば、アオは自然に引く。
息を入れたいところでは、前へ出て埋めてくれる。
自分の声を押し退けようとはしない。
歌っていて、楽だった。
間奏へ入る。
豊臣はいつもの歌枠と同じように、視線だけをコメント欄へ向ける。
『スタッフうまっ』
『相性いいな』
『これ急造デュエットなんだよな?』
『普通に完成度高い』
反応もいい。
豊臣は、わずかに口元を緩めた。
それ以上はしない。
別室にいるアオへ声をかけることもなかった。
今、アオがどれだけの思いで歌っているのかは、豊臣にも分かっている。
意識をこちらへ向けさせる必要はない。
歌だけでいい。
そのまま。
次の歌詞へ入った。
一回目のサビ。
私は、豊臣さんの声を聞く。
伸ばす。
だから少し引く。
次は私が入る。
そのあと、豊臣さんが前へ出る。
最初は考えていた。
音を外さないように。
遅れないように。
豊臣さんの邪魔をしないように。
ちゃんと歌わないと。
ずっと。
自分の声を確認しながら歌っていた。
でも少しずつ。
考えるより前に分かるようになってきた。
豊臣さんが息を吸う。
次は強く出る。
ここは少し長く伸ばしたい。
だったら。
私は、そこに合わせればいい。
それだけだった。
サビの後半。
豊臣さんの声が、大きく伸びる。
私は、その下へ声を重ねた。
その瞬間。
私の中から、何かが剥がれ落ちた。
「……ん?」
音響スタッフが顔を上げた。
姫野も気づいた。
アオの声が変わった。
まだ。
ほんの少し。
高音へ抜ける瞬間。
それまで喉のどこかに引っかかっていたものが、ふっと消えた。
響きが深くなる。
『今の何?』
『声変わった?』
『サビ入ってから急に……』
『元から上手かったけど今のヤバくない?』
コメント欄も反応した。
姫野は第二ブースのモニターを見る。
アオは歌詞を見ている。
それだけ。
様子に異常はない。
なのに知っている。
姫野は以前にも、一度だけ見ている。
普段のアオから。
怖れも。
迷いも。
余計な思考も。
その何もかもが剥がれ落ち。
アオの中に眠る怪物が、目を覚ましたその瞬間を。
人に聞かれている。
その意識がいつの間にか、遠くなっていた。
完全に忘れたわけではない。
どこかにはある。
でも。
どうでもよかった。
豊臣さんが歌っている。
それだけでいい。
この曲を。
一番好きな曲を。
最後まで歌いたいように歌ってほしい。
そのために私がいる。
豊臣さんの声が聞こえる。
次に何をしたいのか分かる。
ここは前へ出たい。
次は柔らかく落としたい。
この一音は、少し長く残したい。
なら。
私は邪魔をしない。
必要なところだけ支える。
空いたところへ入る。
呼吸を合わせる。
もっと。
豊臣さんが歌いやすいように。
それだけ考えればいい。
喉から力が抜けた。
息が深く入る。
そして声が出た。
二番へ入った。
調整室から声が消えた。
姫野も。
音響スタッフも。
誰も喋らない。
アオの歌声が完全に別物になっていた。
少し前までの歌唱も、十分すぎるほど上手かった。
下手だと思う人間など、まずいない。
高いレベルで安定した歌だった。
だが。
今は。
そんな基準で聞くものではなかった。
一音。
ただ。
一音が出る。
それだけで耳が、勝手にそちらへ向く。
透き通っている。
なのに薄くない。
柔らかい。
それでいて、芯がある。
豊臣の声へ重なっても消えない。
しかし、押し潰しもしない。
むしろ。
アオの声が重なるほど、豊臣の声まで鮮明になる。
「…………」
姫野が、何かを言いかけてやめた。
言葉が出てこない。
音響スタッフも同じだった。
仕事柄、歌の上手い人間など、いくらでも聞いてきた。
歌唱を武器にするVSPタレント。
外部アーティスト。
プロの収録。
そのどれとも違う。
技術だけでは説明できない。
声質だけでも説明できない。
聞いた瞬間、分析しようとする意識そのものを奪われる。
ただ。
聞いてしまう。
豊臣もアオの変化には気づいていた。
最初よりも、明らかに合わせやすくなっている。
いや、合わせやすいというだけではない。
豊臣が一歩前へ出れば、アオが自然に引く。
豊臣が声を抜けば、空いた場所へ入る。
少し長く伸ばしたい。
そう思った瞬間には、もうアオの声が、そのための場所を作っている。
打ち合わせなどしていない。
なのに。
まるで、自分が次にどう歌いたいのかを先に知られているようだった。
前半。
豊臣は間奏のたびにコメントを確認していた。
いつもの歌枠と同じだった。
リスナーが楽しめているか。
反応はどうか、確かめながら歌う。
二番に入ってから、それをしなくなった。
正確には、必要がなくなった。
アオの声がある。
それだけで、もっと歌っていい。
そんな感覚があった。
一番好きな曲だからこそ。
これまでは、失敗したくない。綺麗に歌いたい。ちゃんと届けたい。
そう考えてきた。
今日は考えなくてよかった。
歌いたいように歌えば、アオがいる。
そう思えた。
豊臣はいつもより深く息を吸った。
そして、今まで。
この曲を歌ったどの時よりも。
真っ直ぐに声を出した。
姫野は、豊臣の変化にも気づいた。
「……豊臣の歌唱にまで影響してるのか」
明らかだった。
豊臣ツバサというタレントを姫野は長く見ている。
この曲だって何度も聞いた。
配信。
ライブ。
収録。
そのどれよりも、今の歌唱が最も優れている。
アオが豊臣を引っ張っている。
そう思った。
だがすぐに違うと気づく。
最初はアオが合わせていた。
今は。
豊臣もアオへ合わせ始めている。
片方が一歩上がる。
もう片方が追いつく。
するとまた一歩。
さらに上がる。
互いの歌が互いを押し上げ続けている。
「これ……」
音響スタッフが小さく声を漏らした。
続きは出てこなかった。
何と表現すればいいのか。
姫野にも分からない。
ただ異常だ。
それだけは間違いなかった。
ふと。
姫野はモニターへ目をやった。
同時接続数上昇している。
まだ増えている。
だが。
「……ん?随分とコメントの流れが遅いな」
流れが遅い。
さっきまでは追うことすら難しかった。
ところが。
『え』
一つ少し間が空く。
『何これ』
また。
間が空く。
『ちょっと待って』
そのあと。
ほとんど流れなくなった。
「おい、配信側がバグってるかもしれん。確認してくれ」
「……いや、正常です。特にこれといった不具合は見受けられません」
配信スタッフが答える。
「何だって?じゃあ、コメントサーバーは?」
「異常は確認できません」
「遅延は?」
「いえ、目に見える範囲では無いです」
「……何がどうなってやがる」
であればなぜ。
同接は今も上がり続けている?
視聴者は増えている。
誰も離れていない。
なのに。
コメントだけが減っていく。
普通ならあり得ない。
盛り上がれば当然それだけコメントは増える。
人が増えればその分だけ速くなる。
今は完全に逆だった。
姫野が隣を見る。
音響スタッフの右手がマウスの上で止まっていた。
別のスタッフも操作する手を止めている。
この配信を見ている誰もが。
モニターではなく。
歌声を聴いていた。
姫野自身も同じだった。
自分は今何秒。
仕事を忘れていた?
「まさか……そういうことかよ」
機械が止まったんじゃない。
人間が止まっている。
画面の向こうもきっと同じだ。
文字を打つ。
その数秒すら歌から意識を外したくない。
だから誰も何も書かない。
同接だけが増えコメントが消えていく。
こんな現象は見たことがない。
というか有り得ない。
もはや超常現象という他ない光景だった。
二回目のサビ。
私はもう、ほとんど何も考えていなかった。
豊臣さんが歌う。
私も歌う。
それだけ。
呼吸が合う。
声が重なる。
次の音が出す前から、そこにある。
怖くない。
誰もいない。
見られていない。
豊臣さんだけがいる。
この人がもっと気持ちよく歌えるなら。
もっと。もっと。
私は何だってできる気がした。
二回目のサビへ入った瞬間、姫野は背筋に薄い寒気を覚えた。
最早、声がいい。
そんな言葉ですら足りない。
アオの歌声には、聞いた人間の意識を強制的に惹きつける何かがあった。
音響スタッフまで。
プロとして分析することをやめている。
いや、違う。
やめたのではない。
できなくなっている。
一音聞くたび、次を待ってしまう。
そして、豊臣まで
その声に導かれるようにどんどん良くなっている。
コメント欄は。
ついに。
ほぼ完全に止まった。
数秒。
十秒。
新しい文字が流れない。
同時接続数だけが右肩上がりに増えていく。
姫野はモニターの数字を見ながらもう不具合など疑わなかった。
これはそういう現象だ。
人間が、歌を聴く以外のことを忘れている。
最後の掛け合い。
豊臣が歌う。
アオが返す。
豊臣が伸ばす。
アオが重なる。
そして。
最後。
二人の声が一つの音へ重なった。
伴奏がゆっくりと落ちていく。
豊臣の声が消える。
アオの声も静かに消えた。
無音。
一秒。
二秒。
三秒。
姫野も。
スタッフも。
動かなかった。
画面の向こうも同じだった。
まだ誰も。
曲の外へ戻ってきていない。
やがて一つ。
コメントが流れる。
『…………』
次。
『え』
その次。
『待って』
そして。
堰が外れた。
『なんだ今の』
『え?????????』
『誰???????』
『待って待って待って』
『スタッフだよな???』
『意味分からん』
『鳥肌やばい』
『コメント打つの忘れてた』
『マジで何が起きた??』
『途中から別人だっただろ』
『最初から上手かったのに後半何??』
『今まで何してた人???』
『頼むからもう一回』
『アーカイブ絶対残して』
『ツバサも今日過去一じゃない?』
『二人ともヤバい』
文字が一気に画面を埋め尽くす。
まるで止まっていた時間を取り戻そうとするかのように。
そして。
色が混ざった。
一件。
二件。
五件。
十件。
スーパーチャット。
『最高の歌をありがとう』
『ツバサさんありがとう』
『スタッフさんにも届けて』
『今日この配信にいられてよかった』
『このデュエット忘れない』
また。
さらに。
また。
いつの間にか。
通常コメントの間をスーパーチャットが流れるのではなく。
スーパーチャットの間を通常コメントが流れていた。
「……なんだよこりゃ」
姫野が漏らす。
豊臣の歌枠はこれまで何度も見てきた。
周年。
誕生日。
大型企画。
記念配信。
当然、大量のスーパーチャットが飛んだ日もある。
それでもこんな光景は、一度もなかった。
豊臣は最後の音を伸ばしきったあとゆっくり息を吐いた。
気持ちよかった。
まず浮かんだのはそれだった。
今までこの曲を何度も歌ってきた。
大好きだからこそ。
大切だからこそ。
いつも綺麗に歌いたい。
失敗したくない。
そう思っていた。
今日は途中からそれすら忘れた。
ただ歌った。
アオの声があった。
だから。
歌いたいように歌えた。
自分の中で間違いなく。
今までで一番だった。
そこでようやく視線がコメント欄へ戻る。
「まあ……」
目が少し丸くなった。
画面が見たことのないことになっていた。
コメント。
スーパーチャット。
コメント。
スーパーチャット。
止まらない。
豊臣は、しばらく眺めたあと穏やかに笑った。
『皆さま、ありがとうございますぅ』
コメント欄が。
さらに加速する。
『私もぉ』
豊臣は一度。
呼吸を整えた。
『今までで、一番気持ちよく歌えた気がいたしますぅ』
また大量の文字が流れた。
第二ブース。
私は歌い終わったままマイクの前に立っていた。
静かだ。
何も聞こえない。
曲が終わった。
それだけは分かる。
さっきまで頭の中には豊臣さんの声しかなかった。
今少しずつ他のものが戻ってくる。
ブース。
マイク。
ヘッドホン。
そして。
配信。
「…………」
聞かれていた。
そこまで思い出した瞬間心臓が急に速くなった。
私。
今。
ちゃんと歌えていた?
途中からあまり覚えていない。
豊臣さんの声に合わせていたことだけは分かる。
でも。
どんな声を出していたのか。
どれくらい大きかったのか。
変なことをしていなかったか。
何も分からない。
怖い。
それでも。
誰も声をかけてこない。
曲が終わるまでは誰も私へ話しかけない。
そう決めていたから。
私はただその場で待った。
豊臣がいつもの調子で配信を締めていく。
『本日もありがとうございましたぁ』
コメント欄は。
まだ。
まともに読める速度ではなかった。
『明日も真っ直ぐ、のんびりと。おつばさですぅ』
『おつばさああああ』
『神回』
『伝説だった』
『アーカイブ絶対見る』
『スタッフさんありがとう』
『ツバサありがとう』
『もう一回聞いてくる』
そして配信終了。
録画停止。
音響スタッフがようやく大きく息を吐いた。
「……終わった」
誰かが呟いた。
仕事を終えたというより。
今まで息を止めていたことにようやく気づいたような声だった。
姫野はモニターを見る。
配信は終わった。
それでも。
頭の中にはまだあの歌声が残っている。
同接が増え続ける中。
コメントが止まった。
音響スタッフの手まで止まった。
自分も。
何度か仕事を忘れた。
豊臣までどんどん引っ張られ。
最後には今までで一番と言っていい歌をした。
そしてこの騒ぎの中心にいた本人だけが。
何も知らない。
姫野は第二ブースへの通信を入れた。
「遠藤」
『は、はい……』
いつもの頼りない声。
さっきまであの歌を歌っていた人間と同じとは思えない。
「終わったぞ」
『……よかった』
心底安心したような声だった。
少し間が空く。
『あの……』
「何だ」
『ちゃんと、歌えてましたか?』
姫野は思わずモニターへ視線を向けた。
未だに残っている大量のコメント。
見たこともないスーパーチャットの履歴。
放心したままのスタッフ。
そして。
満足そうに息を整えている豊臣。
「歌えてたよ」
『よかった……』
また安心した声。
何も分かっていない。
本当に何一つ。
姫野はしばらく黙った。
アオの声が特別なのは知っていた。
最初に聞いた時から。
一級品。
そう評価していた。
でも今日聞いたものは。
そんな言葉で収まるものではなかった。
「遠藤」
『……はい?』
姫野は。
率直に。
口にした。
「……正直見くびってたよ、お前のこと」
『…………はい?』
しばらくして。
いつもの。
困り果てた声が返ってくる。
『何の話ですか……?』
姫野は深く息を吐いた。
「まぁ……そうなるわな」
本人だけがまだ何も分かっていなかった。




