第33話:コミュ障、天下人とデュエットを組む
豊臣ツバサさんの歌枠当日。
私は、VSP本社に併設された配信スタジオで、進行表とにらみ合っていた。
配信予定時間は九十分。
対して、豊臣さんが用意したセットリストは十七曲。
休憩時間は、合計五分。
「…………」
何度見直しても、数字は変わらない。
「豊臣さん……」
「はいぃ」
豊臣さんは、歌詞カードの角を丁寧に揃えていた。
「この十七曲は……その、候補ですよね?」
「いいえぇ。今日、歌う曲ですぅ」
候補ではなかった。
全員出場だった。
「九十分で、ですか……?」
「一曲四分として、六十八分ですぅ」
「曲の間に、お話も……」
「少しだけいたしますぅ」
隣で確認をしていた姫野さんが顔を上げる。
「豊臣の『少しだけ』は信用するな」
「あらぁ」
「前回、一曲の思い出話だけで十分使っただろ」
「あの曲には、大切な思い出がありましたのでぇ」
「十七曲全部にあるだろ」
「もちろんですぅ」
当然のように答えた。
このまま始めたら、九十分の歌枠が三時間の思い出語り配信になる。
それはそれで喜ぶ人はいるかもしれない。
でも、今日の私には進行を守る役目がある。
「遠藤」
姫野さんが進行表を指先で叩いた。
「お前が調整しろ」
「わ、私がですか……?」
「今日はアタシの監修で、お前が進行管理を担当するって話だっただろ」
「そうですけど……」
古株タレントが時間をかけて選んだ曲を、新人スタッフが減らす。
崖の上に設置されたOJTだった。
私はセットリストを見る。
それぞれの曲には、豊臣さんが選んだ理由が書かれていた。
活動初期から歌っている曲。
視聴者から要望が多かった曲。
記念配信で歌えなかった曲。
最近知って好きになった曲。
どれも簡単には外せそうにない。
「あの……こちらの四曲なんですが」
「はいぃ」
「リクエスト数が、ほとんど同じなんですよね」
「どなたのご希望だけを優先するのも不公平ですので、全て入れましたぁ」
豊臣さんらしい理由だった。
選ばなかった誰かを残念がらせるくらいなら、全部歌う。
その結果、自分の負担だけが増えている。
「一番だけを歌って……四曲をメドレーにするのは、どうでしょうか」
「最後までは歌わないのですかぁ?」
「はい。でも、その……全部を歌枠には入れられます」
私は事前に集められたコメントを表示した。
「『一番だけでも聴きたい』と書いている方もいます。それに、曲の間を短くすれば……十五分くらい余裕ができます」
「十五分」
「お話をする時間と……水を飲む時間にも使えます」
最後は少し強調した。
前回の件以来、水分と休憩の確認は私の重要業務になっていた。
豊臣さんは、コメントとセットリストを見比べる。
しばらく考えたあと、ゆっくり頷いた。
「分かりましたぁ。四曲とも、一番まで歌うことにいたしましょう」
「いいんですか……?」
「全てのご希望を、全て同じ形で叶えることはできませんからぁ」
豊臣さんはセットリストへ書き込む。
「その中で、できるだけ多くの方に喜んでいただける方法を選びますぅ」
了承してもらえた。
私は胸の奥に溜めていた息を、そっと吐き出した。
「遠藤。曲順は?」
姫野さんに聞かれる。
「今から……確認します」
「調が離れすぎてる曲を、順番だけでつなぐなよ」
「はい……」
四曲の情報を開く。
一曲目と二曲目は自然につながる。
三曲目だけ、歌い出しが高い。
四曲目と順番を入れ替えれば、流れが作りやすい。
頭の中で曲を再生する。
二曲目の終わりから、次の歌い出しへ。
無意識に、小さく旋律を口ずさんでいた。
「遠藤さん」
「……はい?」
豊臣さんが、こちらを見ていた。
「今の順番でしたら、歌いやすそうですぅ」
「す、すみません。勝手に歌って……」
「音を確認してくださったのでしょう?」
最初から、そのつもりだったわけではない。
ただ、頭の中だけでは確認しにくかった。
「遠藤、歌に詳しいのか?」
「詳しいというほどでは……」
「今の四曲、全部分かるのか」
「一応……」
歌ったことがある。
何度も。
ただし、それを誰かに披露したことは、ほとんどない。
「カラオケがお好きなのですかぁ?」
豊臣さんが尋ねる。
「た、たまに行きます……」
「どなたと?」
「…………」
一人である。
家族以外と行ったことはない。
正直に答えると、悲しい情報まで同時に公開されてしまう。
「その……一人で」
豊臣さんが目を丸くした。
「お一人で行かれるのですねぇ」
「すみません……」
「なぜ謝るのでしょう?」
自分でも分からなかった。
「素敵な趣味だと思いますよぉ」
豊臣さんは、いつも通り穏やかに微笑んだ。
同情ではなさそうだった。
それだけで、少しだけ救われた。
配信開始三十分前。
スタジオでは、最終確認が始まっていた。
VSPのタレントは、普段は自宅の配信環境から活動することが多い。
今回は歌枠のため、音響設備の整った社内スタジオを使用する。
防音された歌唱ブース。
その外側にある調整室。
複数のモニターには、配信画面、音量、待機中のコメント欄が表示されていた。
私は姫野さんの隣で、進行表とコメントの監視を担当する。
「豊臣。マイクの位置は?」
姫野さんが、歌唱ブースへ呼びかける。
『問題ありませんよぉ』
「イヤーモニターは?」
『よく聞こえていますぅ』
音響スタッフが伴奏を流した。
豊臣さんが短く声を出す。
普段のゆったりとした話し声とは違う。
真っ直ぐで、芯のある歌声だった。
防音ガラスを隔てているのに、胸の奥まで響いてくる。
「遠藤」
「は、はい」
「聞き入って手を止めるな」
「すみません……」
進行表の確認が止まっていた。
私は慌てて視線を戻す。
メドレー用に編集された音源が再生される。
一曲目。
二曲目。
三曲目へ切り替わった瞬間、ほんの少しだけ違和感があった。
「あの……」
私が声を出すと、音響スタッフがこちらを見る。
急に自信がなくなる。
気のせいかもしれない。
「何だ?」
姫野さんに促された。
「三曲目の入りが……少しだけ、早いような」
「どのくらい?」
「半拍……だと思います」
音源が巻き戻される。
もう一度、同じ部分が流れた。
音響スタッフが波形を確認する。
「確かに、切り替えが半拍早いですね」
編集点が修正された。
今度は綺麗につながる。
ブース内の豊臣さんが、こちらを見た。
『遠藤さんは、耳がよいのですねぇ』
「知っている曲だったので……」
『それでも、助かりましたぁ』
褒められた。
顔が熱くなる。
私はモニターの下へ視線を落とした。
「褒められるたびにケーブルを見るな」
姫野さんから指摘される。
「今まで見たことのない形だったので……」
「全部同じケーブルだけど?」
逃げ道が閉じられた。
配信開始時刻。
待機画面が切り替わる。
ブース内の豊臣さんが、カメラへ穏やかに微笑んだ。
『皆さま、こんつばですぅ』
コメント欄に、挨拶が一斉に流れる。
『こんつば~』
『こんつば!』
『歌枠待ってた』
『今日も真っ直ぐ、のんびりと。VSPのツバサですぅ』
豊臣さんは、最初に前回の配信を休んだことへ触れた。
『先日は急なお休みとなり、申し訳ありませんでしたぁ。皆さまから、たくさんのお気遣いをいただきました』
『無理しないでね』
『休めて偉い』
『今日は元気そうでよかった』
『これからも長く活動を続けるために、休むことも少しずつ覚えてまいりますぅ』
調整室で、姫野さんが小さく頷いた。
私も、胸の奥が少し温かくなる。
あの日の選択を、豊臣さん自身の言葉で視聴者へ伝えていた。
一曲目が始まる。
コメント欄が、歓声で埋まった。
私は進行時間、音量、コメントの流れを確認する。
曲が終わる。
豊臣さんが、その曲を選んだ理由を語り始めた。
三分。
四分。
五分。
まだ終わらない。
姫野さんが私へ顎を向けた。
私が止めるらしい。
用意していた指示用のボードへ書き込む。
【次の曲へ】
ガラス越しに掲げる。
豊臣さんが、こちらを見た。
『スタッフさんから、そろそろ次の曲へ進むように言われてしまいましたぁ』
コメント欄に笑いが流れる。
『もう時間管理されてる』
『運営ナイス』
『放っておくと朝まで話すからな』
豊臣さんは、少し名残惜しそうに次の曲へ進んだ。
二曲目が終わったあと、水へ手を伸ばさない。
私は再びボードを出す。
【水分】
『今度は、水分を取るように言われましたぁ』
いや、なんでカンペを全部垂れ流す?
『ちゃんと飲んで』
『マネージャー有能』
『我々も飲むか』
豊臣さんは、グラスをカメラへ向けた。
『では、皆さまもご一緒にぃ』
コメント欄が、乾杯の記号で埋まった。
ただ水を飲ませたかっただけなのに、一つの企画になっている。
「今のは悪くない」
姫野さんが小声で言った。
「豊臣さんが、勝手に……」
「タレントが膨らませられる隙を作るのも進行の仕事だ」
狙ったわけではない。
それでも、配信は盛り上がっている。
少しだけ。
本当に少しだけ、嬉しかった。
中盤のメドレーも、予定通りに進んだ。
四曲が滑らかにつながり、コメント欄に喜ぶ声が並ぶ。
『全部入ってる!』
『一番だけでも嬉しい』
『つなぎ方きれい』
『選曲した人分かってる』
豊臣さんが曲を終え、息を整える。
『今回のメドレーは、スタッフさんが考えてくださいましたぁ』
私は固まった。
『例の水分スタッフ?』
『進行も選曲もできるのか』
『ツバサを九十分に収める有能スタッフ』
「遠藤、褒められてるぞ」
姫野さんが笑う。
「違うところを見ます……」
「んでだよ」
私は流れる文章の意味を読まず、問題のある単語だけを探すことにした。
配信は終盤に差しかかる。
残る曲は二つ。
最後は、二人分の歌声が必要な曲だった。
豊臣さんの歌唱へ、事前収録されたもう一人分の音声を重ねる予定になっている。
午前中の確認では、問題なく再生できていた。
音響スタッフが、本番用のデータを呼び出す。
その手が止まった。
「……音声が出ません」
「さっきは流れただろ」
姫野さんがモニターへ近づく。
「最終データへ差し替えた時に、参照先が外れたようです。バックアップを確認します」
豊臣さんのトークは続いている。
残り時間は、およそ五分。
「復旧までどのくらいだ」
「早くても十分は必要です」
配信時間には間に合わない。
曲が終わり、豊臣さんが息を整える。
姫野さんはすぐに休憩用の映像を出すよう指示した。
『それでは、最後の曲の準備をしてまいりますぅ。少々お待ちくださいねぇ』
配信画面が切り替わる。
ブース内のマイクも切られた。
「豊臣。最後の曲の収録音声が出ない」
豊臣さんの視線が、調整室へ向いた。
「復旧には十分以上かかる。残り時間じゃ無理だ」
豊臣さんは何も言わなかった。
手元の歌詞カードへ目を落とす。
他の曲よりも、多くの付箋と書き込みがある一枚だった。
「予備曲へ変更する」
姫野さんの判断に、間違いはなかった。
無理に復旧を待てば、配信時間を大きく超える。
リスナーを待たせ、スタッフにも負担をかけることになる。
豊臣さんも、それを分かっている。
「……分かりましたぁ」
返事までに、ほんの少しだけ間があった。
「予備の曲へ変更いたしましょう」
笑顔も声も、普段と変わらない。
以前の豊臣さんなら、予定した曲を守るために復旧を待つと言っていたかもしれない。
今は、スタッフの判断を受け入れられている。
これでいい。
私はそう思った。
思ったはずなのに。
豊臣さんの右手は、最後の曲の歌詞カードを持ったままだった。
姫野さんが予備曲の進行を説明しても、指が動かない。
一行目の歌詞を、親指でゆっくりとなぞっている。
「豊臣。予備曲は頭から流す。水を飲んだら戻れ」
「はいぃ」
返事は、いつも通り穏やかだった。
無理を言わない。
残念だとも言わない。
誰にも負担をかけないように、笑って諦めようとしている。
だからこそ、分かってしまった。
豊臣さんは、平気なのではない。
平気なふりをしている。
最後の曲を決める時、豊臣さんは珍しく迷わなかった。
活動を始めた頃から、一番好きな曲。
落ち込んだ時にも、迷った時にも聞いてきた曲。
リスナーもそれを知っている。
今日のために、自分でもう一方のパートを収録した。
何度も歌ってきたはずなのに、歌詞カードには息を吸う場所まで細かく書き込んでいた。
その曲を、豊臣さんは諦めようとしている。
自分で納得したような顔をして。
胸の奥に、一つの考えが浮かんだ。
私なら、もう一方のパートを歌える。
すぐに打ち消す。
無理だ。
ここは一人用のカラオケルームではない。
VSPの公式配信で、大勢のリスナーが待っている。
一度声を乗せれば、なかったことにはできない。
音を外したら。
声が震えたら。
人に聞かれていることばかり考えて、まともな声が出なかったら。
豊臣さんが大切にしている曲を、今度は私が壊すかもしれない。
それに、私は運営スタッフだ。
タレントの配信へ出演するために、ここにいるわけではない。
音源に問題が起きたなら、予備曲へ差し替える。
それが一番安全で、正しい対応だ。
黙っていればいい。
姫野さんの判断は正しい。
豊臣さんも受け入れている。
誰も私を責めない。
予備曲でも、歌枠はきちんと終わる。
それなのに。
豊臣さんの指は、まだ歌詞カードから離れていなかった。
以前、豊臣さんが無理をして配信を続けようとした時。
私は、怖いまま声をかけた。
豊臣さんは、私の言葉を聞いてくれた。
本当は配信を続けたかったはずなのに、休むことを選んでくれた。
今度は、豊臣さんが我慢している。
スタッフの判断を無駄にしないように。
誰にも迷惑をかけないように。
自分が一番大切にしているものを、笑って手放そうとしている。
見なかったことには、できなかった。
歌いたいわけではない。
むしろ、逃げたい。
このまま予備曲が流れてくれた方が、ずっと楽だった。
けれど、何も言わずに終わったら。
私はきっと、歌わなかったことではなく、言えたのに黙っていたことを後悔する。
膝の上で、両手を握る。
声を出そうとしても、喉が動かなかった。
それでも。
豊臣さんが歌詞カードを置く前に。
「あの……」
自分の声が、思っていたより大きく調整室へ響いた。
全員がこちらを見る。
怖い。
今すぐ、なかったことにしたい。
「待って……ください」
「遠藤?」
姫野さんの目が細くなる。
私は一度、唾を飲み込んだ。
「その曲……私、歌えます」
言ってしまった。
心臓が、遅れて逃げようと暴れ始める。
「もう一方のパートも……全部、分かります」
「リハで合わせられたのは見た」
姫野さんが、まっすぐ私を見る。
「けど、お前が言ってるのは生配信で歌うってことだぞ」
「……はい」
「顔は出さなくても、声は残る。誰が聞くかも、どう広がるかも制御できねぇ」
考えただけで、喉が狭くなる。
「本来の声も、たぶん……出ません」
「歌自体は?」
「歌えます」
声が硬くても。
人に聞かれていることが怖くても。
音程やリズムまで、全部失うわけではない。
「豊臣さんと……合わせられると思います」
豊臣さんは、歌詞カードを抱えたまま動かなかった。
「遠藤さん」
「……はい」
「私は、予備の曲でも大丈夫ですよぉ」
優しい声だった。
私が怖がっていると分かって、逃げ道を作ってくれている。
「……大丈夫じゃ、ないと思います」
「え?」
「豊臣さんは今……大丈夫なふりをしています」
豊臣さんの笑顔が、わずかに止まった。
間違っていたらどうしようと思った。
それでも、目を逸らさなかった。
「歌いたくないなら……言いません」
声が震える。
「でも、本当は歌いたいのに……諦めようとしているなら」
息を吸う。
「私に、歌わせてください」
短い沈黙が落ちた。
豊臣さんが、歌詞カードへ目を落とす。
「……歌いたいですぅ」
初めて、笑顔が消えた。
「今日、この曲を皆さまへお届けすることを、ずっと楽しみにしておりましたぁ」
歌詞カードを握る指に、少しだけ力が入る。
「ですが、遠藤さんが無理をするのは違いますぅ」
「無理は……します」
「遠藤」
姫野さんの声が飛んでくる。
「すみません……」
言い方を間違えた。
けれど、訂正したいことはそこではない。
「怖いです。でも……」
私は豊臣さんを見る。
「このまま何も言わない方が、嫌です」
豊臣さんは、しばらく私を見つめた。
やがて、ゆっくりと頭を下げる。
「では……一緒に歌っていただけますかぁ」
「……はい」
姫野さんが大きく息を吐いた。
「音響。第二ブースから音声だけ送れるか」
「可能です。リハーサルでもタイミングは合っていました」
「問題が出たら、すぐ予備曲へ切り替えろ」
「了解です」
姫野さんが私を見る。
「今回だけだ。音源トラブルへの緊急対応として扱う」
「はい……」
「それと、客に向かって歌おうとするな」
「え?」
「人に聞かれてるって考えたら、また声が固まるんだろ」
「……はい」
姫野さんは、音響スタッフへ振り返った。
「第二ブースを使う。カメラはなし。コメント、配信画面、同接表示は全部切れ」
「調整室が見える窓も塞ぎますか?」
「塞げ。ブース内には歌詞だけ出せ」
音響スタッフが動き始める。
私は状況についていけなかった。
「姫野さん……?」
「配信を聞いてる人間そのものは消せない」
姫野さんは、私を見る。
「だから、お前がそいつらを思い出す材料を消す」
「でも……スタッフの方は」
「見えない。声も返さない」
「聞かれていることは、分かります……」
「分かってていい」
姫野さんの声は、きっぱりしていた。
「客にもスタッフにも歌うな。豊臣と曲だけ聞け」
第二ブースの準備が進む。
窓へ簡易の遮光幕が下ろされる。
モニターからコメント欄が消える。
配信中であることを示す赤い表示も、私の視界に入らない位置へ移された。
「イヤホンには、伴奏と豊臣の声だけを返せ。音量はカラオケに近づけろ」
「了解です」
「それと」
姫野さんが調整室を見渡した。
「遠藤が歌い始めても騒ぐな。何が聞こえても、歌い終わるまでは反応するな」
音響スタッフが、一瞬だけ顔を見合わせる。
「最初は声が硬くても止めるな。歌として成立してるなら、そのまま続けさせろ」
私は、第二ブースの中を見る。
マイク。
歌詞を表示するだけの画面。
狭い防音室。
余計なものは、何もない。
私が通い慣れた、一人用のカラオケルームに少し似ていた。
「短く音を確認する」
姫野さんが言う。
「歌として成立するなら、本番へ戻す。無理なら予備曲だ」
「……はい」
「本来の声が出るかは考えるな。いつも通り歌え」
いつも通り。
誰にも聞かれない狭い部屋で、溜まったものを吐き出すように歌っていた時と同じように。
それが、一番難しい。
私は第二ブースへ入った。
扉が閉まる。
外の音が消えた。
ヘッドホンをつける。
流れてきたのは、聞き慣れた伴奏と、豊臣さんの穏やかな声だけだった。
『遠藤さん』
「……はい」
『私だけを聞いてくださいなぁ』
大勢の視聴者ではなく。
調整室のスタッフでもなく。
今は、豊臣さんと曲だけ。
画面に歌詞が表示される。
最初から、本当の声が出るとは思えない。
きっと硬い。
それでも。
歌うことなら、できる。
歌い出しまで、あと四小節。
三。
二。
一。
私は、息を吸った。




