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32話:天下人、休戦を受け入れる


目を覚ますと、見慣れない天井があった。


枕元のスマートフォンを手に取る。

予定していた起床時刻は、三時間ほど前。


配信も、すでに終了予定時刻を過ぎていた。


「……あらぁ」


通知欄には、姫野さんからの着信が十二件。

社内チャットにも、複数のメッセージが届いている。


【姫野ミカン】

『起きたか』

『まだか』

『配信は休止にした』

『起きても勝手に始めんなよ』

『寝てるな、これ』

『起きたら連絡しろ』


最後の二つは、返信を求めているのか、独り言なのか分からなかった。

私は入力欄を開く。


『今、起きました。配信を休止することになってしまい、申し訳――』


途中まで打って、指を止めた。

すでに姫野さんから次のメッセージが届いていた。


『謝罪文を作る前に水飲め』


見られているのだろうか。

少しだけ怖い。

私は素直に水を飲んでから、短く返した。


『起きましたぁ』


『5時間寝た感想は』


『よく眠れましたぁ』


『だろうな』


『それでは、今から何かできるお仕事はありますかぁ』


『帰って寝ろ』


『5時間眠りましたよぉ』


『3時間睡眠の借金が五時間で返せると思うな』


『睡眠は借金だったのですねぇ』


『そこから説明しないと駄目か?』


姫野さんの苦労が、文章からも伝わってきた。

配信休止のお知らせには、視聴者の皆さんから多くの反応が寄せられていた。


『ゆっくり休んでください』

『今日より、これからも活動してくれる方が大事』

『ツバサ様が寝坊!?』

『運営さん、よく止めた』


責める言葉は、ほとんど見当たらない。

休んだからといって、全ての信頼を失うわけではなかったらしい。

家族のグループチャットにも、通知が溜まっていた。


【豊臣家連絡網】


『配信休止の告知を見た。体調は大丈夫か』


祖父からだった。

警察官として長く勤めた祖父は、退職した今でも文章が簡潔である。


『少し寝不足だっただけですぅ。もう問題ありません』


送信すると、すぐに叔母から返信が来た。


『3時間睡眠を「少し」と呼ばないでください』


医師である叔母には、すでに姫野さんから事情が漏れているのだろうか。


『どうして睡眠時間をご存じなのですかぁ』


『姫野さんから連絡がありました』


やはり漏れていた。


『本人が大丈夫と言い張るので、医療関係者からも言ってくれ、と』


『個人情報ではないでしょうかぁ』


『体調管理を拒否する人にだけ適用される豊臣家特例です』


そのような特例を承認した記憶はない。

続いて、自衛官の伯父からも届く。


『人間も装備も、整備せずに動かし続ければ壊れる』


『私は装備ではありませんよぉ』


『装備の方が点検に素直だ』


少し失礼だった。

祖父から、もう一通届く。


『休息も任務のうちだ。守る側が先に倒れては、誰も守れない』


その言葉に、指が止まった。


我が家は、あの豊臣家とは一切関係がない。

かつての豊臣の血筋は、大坂夏の陣で途絶えている。


同じなのは名字だけだった。

それでも私は、豊臣という名を誇りに思っている。


警察官。

自衛官。

医師。

消防や看護に携わる親族もいる。


困っている人を助けるために働く家族を、幼い頃から尊敬してきた。

私も警察官か自衛官になりたいと思っていた。


けれど、あまり体が強くなかった私には難しかった。


家族の誰も責めなかった。

それでも私の中には、同じ道へ進めなかった負い目が残った。


体で人を守れないのなら、せめて心だけは誰よりも真っ直ぐでいたい。

間違ったことを、見過ごさない人間でいたい。

そう思うようになった。


『分かりましたぁ。今日はもう休みます』


グループチャットへ送る。

祖父から、すぐに返事が来た。


『よろしい』


叔母からも届く。


『そのメッセージ、保存しました』


『なぜですかぁ』


『証拠です』


家族からも、あまり信用されていないらしい。


姫野さんからの連絡を待つ間、過去の社内チャットを開いた。

以前担当してくださったマネージャーとの履歴。


『今日の案件、体調が悪いなら事前に教えてください』


『業務には支障ありませんでしたぁ』


『収録後に倒れたら、支障がなかったとは言えません』


別の方との履歴。


『もっと私を頼ってください』


『自分で対応できる範囲でしたのでぇ』


『それでは、私が必要ないように感じます』


『そのようなつもりはありません』


『では、必要な時だけではなく、必要になる前に相談してください』


必要になる前に相談する。

当時の私には、意味が分からなかった。


困っていないのに相談すれば、相手の仕事を増やしてしまう。

自分でできることを頼むのは、怠慢だと思っていた。


指示には従った。

相談されたことには答えた。

協力を拒んだつもりもない。


それでも、担当した方々は次第に疲れた顔をするようになった。

姫野さんからも、何度も言われている。


『頼らねぇことを、気遣いと勘違いするな』


今日になって、ようやく意味が少しだけ分かった気がした。

スマートフォンが震える。

遠藤さんからのメッセージだった。


【遠藤アオ】


『豊臣さん、起きましたか……?』


『はいぃ。今、起きました』


入力中の表示が現れる。

消える。

もう一度現れる。

また消える。


どのような文章を作っているのだろう。

しばらくして、長めのメッセージが届いた。


『その……今日は、すみませんでした。私が偉そうなことを言ってしまって……。配信も休止になってしまいましたし……』


『遠藤さんが謝ることではありませんよぉ』


『でも、私が休んでほしいと言わなかったら……』


『私は今も仕事をしていたと思いますぅ』


少し間が空いた。


『やっぱり、止めてよかった気がしてきました……』


正直な方だった。


『遠藤さんは、なぜ私を止めようと思ったのですかぁ』


また、入力中の表示が点滅する。


『姫野さんから課題を出されたから、というのもありますけど……』


『はいぃ』


『大丈夫じゃないのに、大丈夫って言っているように見えたので……』


『私は、配信できる状態ではありましたよぉ』


『は、はい。そこは分かっているんですけど……』


入力が止まる。


『うまく言えないです……』


『ゆっくりで構いませんよぉ』


数分後。


『私は、何かできることがあっても、自分から言えないことが多いです』


意外な文章だった。


『迷惑かもしれないとか、邪魔かもしれないとか……考えているうちに、何も言えなくなります』


『豊臣さんは、私とは違うと思います。でも、誰にも言わないところは、少しだけ似ている気がしました』


似ている。

私と、遠藤さんが。


『私は、迷惑をかけないために自分で対応していますぅ』


『はい……』


『遠藤さんは、迷惑をかけるのが怖くて相談できないのですよねぇ』


『そうです』


やはり、理由は違う。


『ただ……』


続きが届く。


『頼ってもらえないと、周りの人は何をすればいいのか分からないと思います』


『私も、豊臣さんが何も言ってくれなかったら……たぶん、何もできません』


遠藤さんの文章は、整っていなかった。

途中で言葉が足りなくなり、次のメッセージで補う。


『あ、何でも相談してほしいという意味ではなくて……私が全部できるわけでもないので……』


『むしろ、ほとんどできないんですけど……』


『でも、その……一緒に困るくらいなら、できるかもしれません』


一緒に困る。

解決するでも、助けるでもない。

変わった言葉だった。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


『遠藤さん』


『はい』


『昨日は、私のことをどのような人だと思いましたかぁ』


しばらく返事がない。

質問が難しすぎただろうか。


『正直に答えても、怒りませんか……?』


『曲がったことは嫌いですが、正直な感想で怒ることはありませんよぉ』


『最初は、武士みたいな人だと思っていました』


『武士ですかぁ』


『名前と写真が……強かったので……』


『実際に会ってからは?』


入力中。

消える。

入力中。

また消える。


『清白さんと同族の人かと……』


どういう意味だろう。


『人間ではないということでしょうかぁ』


『ち、違います!』


返事が一瞬で来た。


『マイペースという意味です。すみません……!』


『なるほどぉ』


否定し切れない。


『でも、今は……すごく真面目な人だと思います』


『真面目、ですかぁ』


『真面目すぎて、自分のことだけ人数に数えていない人……というか』


私は、その文章を二度読んだ。


『自分のことだけ、ですかぁ』


『他の人が寝ていなかったら、絶対に休ませると思います』


『それは当然ですぅ』


『でも、自分は休まないので……』


返す言葉が見つからなかった。


他人が三時間しか寝ていないと知れば、私は休むよう勧めるだろう。

食事を取っていなければ、仕事より先に食べるよう伝える。


それなのに、自分だけは例外にしていた。


心根だけは、人一倍真っ直ぐでありたい。

そのつもりだった。


けれど、真っ直ぐ進むことへ夢中になり、自分が倒れれば周囲に何が起きるのかを見ていなかった。

それは、本当に誠実だったのだろうか。


明日の予定を確認する。

次回の相談配信で取り上げるお便りを、午前中までに決めなければならない。

届いたお便りは、473通。


今から読み始めれば、間に合う。

そう考えたところで、遠藤さんの言葉が浮かんだ。


――一緒に困るくらいなら、できるかもしれません。


私は彼女とのチャットを開いた。


『明日の企画について、確認をお願いします』


入力して、消す。

命令のようだった。


『明日の企画について、お手伝いいただけますかぁ』


何をしてほしいのかが分からない。

これも消す。


『明日の相談配信に届いたお便りを、一緒に確認していただけませんかぁ』


送信ボタンの上で、指が止まった。

頼めば、遠藤さんの仕事が増える。

473通もある。


やはり、自分で読んだ方が――


『一緒に困るくらいなら、できるかもしれません』


もう一度、彼女の文章を見る。

私は送信した。


数秒後。

入力中の表示が現れる。

消える。

再び現れる。


『は、はい。私でよければ……』


その後、すぐに続きが届いた。


『ただ、473通を2人で全部読むのは……たぶん、駄目なやつだと思います』


『全部では駄目でしょうかぁ』


『駄目だと思います……』


『では、どうしましょうかぁ』


『先に姫野さんへ相談して、ある程度分けてもらうのは……どうでしょう』


私と遠藤さんの二人だけで抱え込まない。

それも、お願いすることの一部なのだろう。

私は姫野さんを加えたグループチャットを作った。


【相談配信お便り確認】


『姫野さん。遠藤さんと一緒に、明日の企画で使用するお便りを確認したいですぅ』


すぐに既読がついた。


『473通全部読む気じゃねぇだろうな』


なぜ分かったのだろう。

『その予定でしたぁ』


『駄目だ』


『遠藤さんからも同じことを言われましたぁ』


『遠藤、よく止めた』


『い、いえ……止まってはいない気がします……』


『明日、先に条件で絞る。残った分を三人で確認する』


『承知しましたぁ』


『豊臣は今から読むなよ』


『もちろんですぅ』


『ファイルも開くな』


『はいぃ』


『頭の中で選考基準を考えるのも禁止』


そこまで禁止されるとは思わなかった。


『姫野さんは、私の思考が読めるのでしょうかぁ』


『何年お前の面倒見てると思ってんだ』


遠藤さんから、恐る恐るといった様子のメッセージが届く。


『あの……豊臣さん』


『はいぃ』


『私で、本当にいいんでしょうか』


『何がですかぁ』


『お便りの確認です。私はタレントさんでもありませんし、経験もなくて……』


私は少し考える。


『遠藤さんだから、お願いしましたぁ』


入力中の表示が止まった。


『私とは違う場所から、読んでくださると思いましたので』


『……はい』


それだけの返事が届く。

続いて、姫野さんから飛んできた。


『2人とも、明日の話は終わり。豊臣は寝ろ。遠藤も業務時間外ならスマホ閉じろ』


『はい……』


『お休みなさいませぇ』


『豊臣』


『はいぃ』


『お便りを一通でも開いたら、明日は全部アタシが選ぶ』


『横暴ではないでしょうかぁ』


『寝ろ』


私はチャットを閉じた。


一人でできる仕事を、誰かへお願いした。

今までの私なら、怠慢だと考えていたかもしれない。


けれど。

遠藤さんは、嫌そうではなかった。

姫野さんも、仕事が増えたとは言わなかった。

むしろ、私が一人で始める前に止められたことへ、少し安心しているように見えた。


相手へ仕事を渡すことは、迷惑を押しつけることではない。

その人が自分の役目を果たす場所を作ることにもなる。


まだ、完全には納得できていない。

次も同じように頼れるかは分からない。


それでも。

今日は、自分一人でも終えられる仕事を、初めて誰かと行いたいと思った。


私はスマートフォンを伏せる。

電気を消し、もう一度ベッドへ横になった。


数秒後。

机の上のスマートフォンが震える。

姫野さんからだった。


『本当に寝たか』


私は返信しようと手を伸ばし――止めた。


返事をすれば、起きていることが知られてしまう。

しかし、返事をしなければ、また着信が来るかもしれない。


迷った末、短く送る。


『スヤァ』


即座に返事が来た。


『はよ寝ろや』


ぐぅの音も出なかった。


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