第28話:コミュ障、天下人の側近を打診される
社長室での面談を終えたあと、私は自席へ戻り、炎上対応の記録を整理していた。
何を見て、どこに違和感を覚え、誰へ報告したのか。
大澄社長から言われた通り、自分の感覚だけで終わらせず、他の人にも分かる形に残すためだった。
とはいえ、作業はあまり進んでいない。
何となく変だった
私の中では、それが始まりだった。
でも、仕事の記録に「何となく」とだけ書くわけにはいかない。
モニターの前で唸っていると、頭上から声が落ちてきた。
「煮詰まってんな」
顔を上げる。
姫野さんが、いつものエナジードリンクを片手に立っていた。
「お疲れさまです……」
「進んでるか?」
「同じ場所を回っている気がします……」
姫野さんは画面を軽く確認すると、一箇所を指した。
「ここに、実際に多かった反応を入れろ。お前の感覚と、他人が確認できる情報を分ける」
「なるほど……」
私は慌ててメモを取った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより、遠藤」
姫野さんは、私の横に立ったまま続けた。
「少し話がある」
「…………」
「悪い話じゃない。だから、泡吹くな」
「まだ吹いてません……」
「まだ、をつけるな」
姫野さんは、近くの打ち合わせスペースを指差した。
「向こうで話すぞ」
「は、はい……」
私は立ち上がった。
何だろう。
社長面談で、何か失礼なことをしたのだろうか。
声が小さすぎた。
視線を逸らした。
社長の軽口に、うまく笑えなかった。
それとも、最後に扉へ会釈したことだろうか。
あれは自分でも意味が分からなかった。
扉は人ではない。
でも、偉い人の部屋の扉は、少し偉そうに見える。
私はそんなことを考えながら、姫野さんの向かいへ座った。
「最初に言っとく」
姫野さんが口を開く。
「悪い話じゃない」
「以前も聞いたような気がします……」
「今回は先に言っただろ」
「成長を感じます……」
「誰のせいで成長させられたと思ってんだ」
清白さんである。
その名前を口に出す前に、姫野さんが続けた。
「それから、これは命令でも、正式な異動でもない」
「異動……?」
知らない単語が混ざった。
正確には知っている単語だが、私の人生にはまだ関係がないはずの単語だった。
姫野さんは、私の反応を確認するように少し間を置く。
「遠藤。タレントマネージャーの補助業務を、経験してみないか」
「…………」
聞こえた。
意味も分かった。
しかし、脳が受理しなかった。
タレント。
マネージャー。
補助業務。
経験。
その単語が頭の中で並び、どれだけ待っても文章にならない。
「…………誰が、ですか?」
「お前が」
「私が……」
「そう」
「タレントマネージャーの……」
「補助」
「補助……」
復唱しかできない。
会話ではなく、音声確認になっている。
姫野さんは急かさずに待ってくれた。
少しずつ、言葉の意味が染み込んでくる。
私が。
タレントの近くで。
仕事をする。
「む、無理です」
気づいたら、即答していた。
「そう言うと思った」
姫野さんは驚かなかった。
「ですよね……」
「でも、話は最後まで聞け」
「……はい」
「断っても、お前の評価には一切影響しない」
「本当ですか……?」
「本当だ」
「社長命令では……」
「ない。スズちゃんの命令でもない。アタシからの強制でもない」
姫野さんは、一つずつ否定した。
「その場で返事をする必要もない。今日は説明だけ聞いて、家で考えろ」
逃げ道を、先に作ってくれている。
それが分かった。
だからこそ、少しだけ怖さが下がった。
ほんの少しだけ。
「どうして……私なんですか?」
私は尋ねた。
今回の炎上対応で、少し役に立てた。
それは分かっている。
でも、タレントマネージャーはまったく別の仕事である。
それくらいのことは、私でも分かる。
人と話す。
人の予定を管理する。
人と人の間に立つ。
私が苦手なものを煮詰めて、形にしたような仕事だった。
「今回の件で、お前がタレント本人の言葉を拾ったから」
「やっぱり……あの件が理由なんですね」
「きっかけではある」
姫野さんは、すぐに続けた。
「でも、炎上を見抜いた褒美じゃない」
私は顔を上げる。
「今のお前は、画面の向こうにいる人間を見てる。告知文、動画、コメント、資料。そこに残ったものから、作った人間や受け取る人間を考えてる」
「……はい」
「じゃあ、直接タレントと向き合った時、お前は何を見るのか」
姫野さんの言葉に、胸が揺れた。
「それを確かめたいらしい」
「らしい……?」
「主に社長とスズちゃんが」
「実験……動物……?」
「安心しろ。アタシも最初に同じことを思った」
安心できない。
だが、姫野さんの顔は真剣だった。
「もちろん、最初から主担当を任せるわけじゃない」
定例面談への同席。
本人確認が必要な資料の読み合わせ。
タレントが話した希望や懸念の記録。
関係部署へ共有するための整理。
姫野さんが挙げたのは、あくまで補助的な仕事だった。
スケジュールの最終判断。
外部企業との折衝。
案件の可否。
そういった責任の重い部分は、姫野さんが持つ。
「お前が無理をしてるとアタシが判断したら、その場で外す」
「私がやると言っても……?」
「外す」
「でも、途中で投げ出したら……」
「投げ出した扱いにはしない」
姫野さんの声は迷わなかった。
「向いてなかった。それが分かった。それだけだ」
失敗ではない。
そう言われても、すぐには信じられなかった。
私は、できないことが分かるのが怖い。
期待されたのに応えられないことが怖い。
頼まれた仕事を途中で返すことが、何より怖い。
「……何も気づけなかったら、どうしますか」
「何も気づくことを求めてねぇ」
「でも、私が選ばれた理由は……」
「遠藤」
姫野さんの声が、少し強くなった。
私は口を閉じる。
「お前を便利なセンサーにするつもりはない」
大澄社長と同じ言葉だった。
「タレントと普通に話して、普通に仕事をして、それで何もなきゃ、それが一番いい」
「普通に話す……」
最大の難関が、何でもないことのように言われた。
「そこは頑張れ」
「やはり難関では……?」
「難関だな」
姫野さんは否定しなかった。
「でも、一人で行かせるわけじゃない。最初はアタシが全部つく」
「姫野さんが……」
「アタシの補助だ。何かあったら、全部アタシに振れ」
その言葉だけで、胸の圧迫感が少し和らいだ。
姫野さんがいる。
それなら。
いや、それでも怖い。
怖いものは怖い。
でも、崖から一人で飛べと言われたわけではない。
手すりのついた階段を、一段降りてみないかと言われている。
たぶん。
私にとっては、その一段も断崖絶壁に見えるのだけれど。
「担当するタレントさんは、もう決まっているんですか?」
「候補は決まってる」
姫野さんは手元のタブレットを操作した。
まだ画面はこちらへ向けない。
「ただし、向こうにも断る権利がある。お前が受けたからといって、必ず始まる話じゃない」
「そうですよね……」
少しだけ安心した。
そして、そんな自分に落ち込んだ。
相手に断られる可能性へ安心するのは、失礼ではないだろうか。
でも、断られれば会わなくて済む。
いや、そんな考え方は良くない。
でも怖い。
脳内で、礼儀と恐怖が殴り合っている。
「遠藤」
「はい」
「顔面が忙しい」
「すみません……」
「謝罪じゃなくて報告」
「脳内で、礼儀と恐怖が戦っています……」
「報告が具体的すぎる」
姫野さんは小さく笑った。
そして、タブレットをこちらへ向ける。
画面には、一人の女性のプロフィールが表示されていた。
VSP所属。
活動歴。
配信ジャンル。
これまでの実績。
その一番上に、名前がある。
【豊臣ツバサ】
「え……豊臣?」
思わず呟いた。
ものすごく強そうな名前だった。
かつて天下を取った人物を連想する名字。
そこに、大空へ羽ばたくための翼。
名前だけで、すでに歴史ドラマが始まりそうだった。
「VSPの古株タレントだ」
姫野さんが言う。
「真面目で、曲がったことが嫌い。仕事も活動も、基本的にはきっちりやる」
画面に映るプロフィール写真を見る。
堂々とした立ち姿。
真っ直ぐこちらを見る目。
私とは正反対に見えた。
「……怖そうです」
正直な感想が漏れた。
姫野さんは、すぐには否定しなかった。
「言い方がストレートなところはある」
「やっぱり怖い……」
「でも、理不尽に怒鳴るようなやつじゃない」
「本当ですか……?」
「嘘ついてどうすんだ」
姫野さんは少し考える。
「ただ、困っても困ってると言わない」
「え?」
「何でも自分で片づけようとする。相談しろと言っても、大丈夫です、で終わらせる」
私は画面を見る。
真っ直ぐな目。
堂々とした姿。
確かに、何でも自分でできそうな人に見える。
「……それなら、私が行っても邪魔になるだけでは」
「それを決めるのは、お前でもアタシでもない」
「では……」
「本人と会ってからだ」
会う。
その言葉に、心臓が跳ねた。
豊臣ツバサ。
VSPの古株タレント。
真面目で、曲がったことが嫌い。
困っても、困っていると言わない人。
私は、その人の隣で働くかもしれない。
まだ決まったわけではない。
私が断るかもしれない。
向こうが断るかもしれない。
それでも。
これまで画面の向こう側にいた“タレント”という存在が、急に一人の人間として近づいてきた。
「次の定例面談は、二日後だ」
姫野さんが言った。
「それまでに考えろ」
「二日……」
「短いか?」
「いえ……一か月あっても、たぶん同じくらい悩むので……」
「だろうな」
「でも、その……一つだけ、聞いてもいいですか」
「何だ?」
私はタブレットの画面を見たまま尋ねた。
「豊臣さんは……私が候補だって、知っているんですか?」
「まだ知らない」
「そうですか……」
なぜか、少しだけ息が抜けた。
知らない。
豊臣ツバサは、まだ私のことを知らない。
少なくとも、自分のマネージャー補助候補としては。
それは、少しだけ不思議だった。
同じ事務所に所属している。
けれど、互いのことを何も知らない。
片方は表に立つタレント。
片方は、入社したばかりの裏方。
本来なら、交わらなかったかもしれない二人。
「今日は返事しなくていい」
姫野さんが改めて言った。
「家に帰って考えろ。怖いなら、怖い理由を書き出せ」
「怖い理由……」
「何ができないと思うのか。何が不安なのか。逆に、少しでもやってみたいと思う部分があるのか」
「やってみたい……」
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
怖い。
絶対に怖い。
タレントと話す。
近くで働く。
相手の活動に関わる。
失敗すれば、私ではなく、その人が困る。
考えれば考えるほど、断る理由はいくらでも出てくる。
それなのに。
画面に映る豊臣ツバサの名前から、目を逸らせなかった。
どうしてだろう。
何かが引っかかる。
違和感ではない。
危険を知らせる棘でもない。
もっと小さくて、弱いもの。
知りたい。
ほんの少しだけ、そう思った。
この人は、どんな声で話すのだろう。
真面目で、曲がったことが嫌いで。
困っていても、困っていると言わない人。
その「大丈夫」は、本当に大丈夫なのだろうか。
「……考えます」
私は言った。
姫野さんは頷く。
「それでいい」
「すぐには決められないと思いますけど……」
「だから二日やる」
「たぶん、二日間ずっと胃が痛いです……」
「胃薬は用意しとけ」
「経費で落ちますか……?」
「落ちるわけねぇだろ」
少しだけ笑いが漏れた。
姫野さんも、わずかに口元を緩める。
打ち合わせを終え、自席へ戻る。
モニターには、途中まで整理した炎上対応の記録。
でも、頭の中には別の名前が残っていた。
豊臣ツバサ。
まだ会っていない。
声も知らない。
性格だって、姫野さんから聞いた程度だ。
それなのに、その名前だけが妙に重く胸へ残っている。
二日後。
もし私が引き受けたら、その人と会う。
画面の向こうではなく。
同じ部屋で。
同じ空気の中で。
私は自分の手を見る。
少し震えていた。
怖い。
やっぱり怖い。
それでも、完全に逃げたいだけではない自分がいる。
その事実が、何よりも怖かった。




