幕間:コミュ障、遠い未来の夢を見る
不定期更新に切り替えてから、初めての投稿です。
少し間が空いて三日ぶりの更新となりました。
今回から第2章に入ります。
まずはプロローグとして、アオのこれからを少しだけ感じられる話になっています。
引き続き、よろしくお願いいたします。
廊下の先で、エレベーターが開いた。
中から出てきた女性を見て、胸の奥がまた小さく揺れた。
姫野さんだった。
ただし、知っている姫野さんとは少し違う。
髪は今より短く、スーツの着こなしもずっと板についている。片手にはタブレット、もう片方には当然のようにエナジードリンク。
そこは変わらないらしい。
ただ、胸元のIDカードには、こう書かれていた。
【運営統括プロデューサー:姫野ミカン】
「遠藤、ちょうどよかった」
姫野さんは、当然のように彼女を呼び止めた。
「来月の新人研修、例の講座を正式教材に入れたい」
「……ああ、あの講座ですか」
「『告知文の温度差とファン心理』の回だ。育成チームから、あれが一番分かりやすいって上がってきた」
「……正式教材にするなら、古い事例は差し替えた方がいいと思います」
「もうそのつもりで呼び止めた」
「では、元データを確認します。タレント本人の許諾範囲は?」
「匿名化済み。二次利用許諾も取ってる。法務チェックは九が済ませた」
「なら、大丈夫そうです」
「助かる」
会話が、あまりにも自然だった。
姫野さんが頼み、遠藤アオが受け取る。
そこに遠慮はない。
けれど、押しつけもない。
「にしても、初期研修にお前の動画が入るとはな」
姫野さんが、少しだけ口元を緩める。
「自分でも、まだ不思議です」
「公式番組に月二で出てるやつが何言ってんだ」
「それとこれは別です」
「同じだろ」
「違います。公式番組は事前台本があります。研修教材は、後輩スタッフの判断基準として残ります」
「真面目か」
「仕事なので」
姫野さんは短く笑った。
「変わったな、お前」
彼女は少し黙る。
それから、静かに答えた。
「変わったというより、変えてもらったんだと思います」
「誰に」
「皆さんに」
姫野さんが一瞬だけ目を逸らした。
「そういうことをさらっと言うようになったのは、かなり変わったところだな」
「そうでしょうか」
「昔のお前なら、言ったあとに机の下に潜ってた」
「誇張はやめてください。せいぜい観葉植物に日和ってたくらいです」
「誇張……?」
姫野さんが噴き出す。
彼女も、小さく笑った。
その笑いは、知っているようで知らないものだった。
怯えて縮こまる笑いではない。
相手の言葉をちゃんと受け取って、返せる笑いだった。
「とにかく、研修用の修正案、今日中に一回見せてくれ」
「分かりました」
「あと、十六時の公式収録。社長も見るってよ」
「えっ、そうなんですか?」
「まぁ暇なんだろ」
「社長さんに対して、その言い方はどうなんでしょう……」
「今更だ」
姫野さんはそう言って、エナジードリンクを軽く掲げた。
「じゃ、頼んだ」
「はい」
二人はそこで別れた。
姫野さんの背中が遠ざかる。
――運営統括プロデューサー。
その肩書きが、なぜかひどく似合っていた。
忙しそうで、少し口が悪くて、それでも誰かを支えるために走っている。
知っている姫野さんと、地続きの姿だった。
場面が少し滲む。
次の瞬間、そこはスタジオの前だった。
ガラス越しに、収録セットが見える。
中央には丸テーブル。
壁にはVSPのロゴ。
大きなモニターには、番組タイトルが表示されていた。
【VSP公式ラジオ特別編:裏方さんの話を聞いてみよう】
出演者欄に、所属タレントたちの名前が並ぶ。
その下に。
【ゲスト:グリンピース】
その文字だけが、妙にくっきり見えた。
「アオさーん!」
スタジオの中から、明るい声が飛んだ。
華やかな衣装のタレントが、こちらへ駆け寄ってくる。
「今日、よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「台本、どうでした?」
「企画の入りはとても良いと思います。ただ、三つ目の質問だけ少し強いかもしれません」
「え、どれですか?」
彼女はタブレットを見せた。
「ここです。『最近の活動で一番悔しかったことは?』という聞き方だと、少し重く入るかもしれません」
「あー……たしかに。笑って話せる自信ないかも」
「言いたくない内容ではないと思うんです。ただ、入り口が少し冷たいです」
「入り口が冷たい」
「はい。なので、『最近、次はもっとこうしたいと思ったことは?』くらいにすると、前向きに話しやすいと思います」
「あ、それなら言える!」
タレントはぱっと笑った。
「すごい。やっぱりアオさん、すごいですね。私、自分でもどこが引っかかってたか分かってなかったです」
「たぶん、話す準備はできていたんだと思います。ただ、最初の一歩だけ少し硬かったので」
「そう、それです! 最初の一歩が硬い!」
近くのスタッフが笑う。
「遠藤さんの言語化、今日も入ってますね」
「入っているとは」
「出てます」
「出さないようにします」
「いや、出してください。番組的にも助かります」
タレントがにこにこしながら言う。
「コメント欄も待ってますよ。遠藤さんの“温度調整”」
「それは、あまり待たないでいただけると……」
「無理です。みんな好きなので」
「困ります」
「困ってるアオさんも好きです」
「もっと困ります」
スタジオに笑いが広がる。
その中心にいるのに、彼女は主役を奪っていない。
ただ、自然にそこにいた。
スタッフとして。
けれど、誰にも見えない存在ではなく。
必要な時に、必要な場所へ声を置く人として。
「本番、入りまーす」
スタッフの声が響く。
照明が少し明るくなり、カメラのランプが灯る。
司会役のタレントが元気よく手を振った。
「VSP公式ラジオ特別編、始まりましたー! 今日はなんと、みんな大好き、あの方に来ていただいています!」
拍手。
モニターのコメント欄が流れ始める。
『まさか』
『来た?』
『グリンピースさん?』
『おマメちゃん!』
『裏方の星』
彼女はカメラに向かって、丁寧に頭を下げた。
「VSP運営スタッフのグリンピースです。本日はよろしくお願いします」
その声が落ちた瞬間、スタジオの空気が少しだけ静かになった。
大きな声ではない。
強く押し出す声でもない。
けれど、澄んでいた。
水面に落ちた透明な雫が、静かに輪を広げるような声だった。
コメント欄がさらに流れる。
『神声だわ』
『裏方なのに謎の安心感』
『VSPの温度計』
『タレントやればいいのに』
――神声。
その文字だけが、妙に胸に残った。
番組は進んでいく。
「グリンピースさんって、どうして告知文の“温度感”が分かるんですか?」
タレントの一人が尋ねる。
彼女は少し考えた。
「分かるというより、引っかかるだけです」
「引っかかる?」
「はい。言葉そのものが間違っていなくても、本人が伝えたい温度と、受け取る人が感じる温度が少しズレている時があります」
「たとえば?」
「“待っていてください”と“見に来てもらえたら嬉しいです”は、似ているようで圧が違います」
「あー!」
司会のタレントが大きく頷く。
「待っていてください、だと待たなきゃってなる!」
「そうです。でも本人が言いたいのが“楽しみにしてくれていたら嬉しい”なら、少し逃げ道があった方が届きやすいことがあります」
「グリンピースさんのそういうところ、本当に助かるんですよね」
「助かっているなら、よかったです」
画面の端で、姫野さんが腕を組んで見ていた。
その隣には、清白メイカがいる。
胸元のIDカードには、【CEO】の文字。
けれど表情は、昔と同じように柔らかい。
清白は姫野さんに何かを囁いた。
「ね。すごいでしょ、アオちゃん」
声は聞こえないはずなのに、その口の動きだけでそう言っている気がした。
姫野さんは、少しだけ呆れた顔をしていた。
でも、誇らしそうだった。
番組の終盤、司会のタレントが笑顔で言う。
「最後に、グリンピースさんからVSPを目指す新人スタッフさんへ一言お願いします!」
コメント欄が一気に加速する。
『来た』
『名言タイム』
『新人スタッフ必修』
『温度計のお言葉』
『神声ください』
彼女は困ったように眉を下げた。
「神声なるものは、くださいと言われて出るものでは……」
「コメント拾わなくていいです!」
「すみません」
「謝らない!」
スタジオが笑う。
彼女も少しだけ笑って、それからカメラを見た。
「怖いと思うことは、悪いことではないと思います」
その声で、場の温度が変わった。
「不安になることも、立ち止まることも、仕事の邪魔になる時があります。でも、その不安があるから気づけることもあります」
スタジオの笑いが、静かに引いていく。
「一人で全部抱える必要はありません。気づいたものを、誰かに渡せばいい。誰かがそれを形にしてくれることもあるし、自分が誰かの気づきを受け取ることもあります」
彼女は、少しだけ息を置いた。
「運営は、ひとりでタレントを支える仕事ではなくて、みんなで声を守る仕事だと思っています」
コメント欄が止まらない。
『全米が泣いた』
『VSPに入りてぇ』
『これ研修で流して』
『もう教材になってる』
『草』
『それは本当にそう』
司会のタレントが、少し涙目で笑う。
「アオさん、これ毎年お願いします」
「いやです」
「じゃあ半年に一回」
「増えています」
「月一で」
「さらに増えています」
「毎週」
「それはもう定期番組です」
「やりましょう」
「検討しません」
「厳しい!」
スタジオにまた笑いが戻った。
その笑いの中に、彼女はいた。
遠藤アオ。
裏方。
運営スタッフ。
けれど、画面の向こうから名前を呼ばれる人。
主役を奪わず、主役の声を守ることで、いつの間にか多くの人に知られている人。
遠い。
あまりにも遠い。
けれど、どこかで見覚えがある。
言葉に詰まるところ。
褒められて困るところ。
自分を大きく見せようとしないところ。
――その全部が、今と地続きのものだった。
収録が終わる。
拍手が起きる。
タレントたちが彼女の周りに集まった。
「アオさん、今日もありがとうございました!」
「次、うちのチャンネルでゲストとして来てください!」
「私も相談したい告知ある!」
彼女は少し困ったように笑う。
「スケジュールは、マネジメントを通してください」
「真面目か!」
「冷たい!」
「でもそこがイイ!」
「裏方ですから」
その言葉が、静かに胸の奥へ落ちた。
――裏方ですから。
どれだけ知られても。
どれだけ名前を呼ばれても。
彼女は、そこに立っていた。
表に出るためではなく。
表に立つ誰かの声を守るために。
世界が、少しずつ白く滲み始める。
夢が終わる気配がした。
――もっと見たい。
そう思った。
怖いのに。
眩しいのに。
もう少しだけ、この先を見ていたかった。
その時、彼女がふと振り返った。
視線が、こちらを向いた気がした。
ありえない。
誰もいないはずの場所。
夢を見ている意識しかない場所。
それでも、彼女は確かに、こちらを見ていた。
口元が、ほんの少しだけ動く。
声は聞こえない。
けれど、何を言ったのかは分かった気がした。
――大丈夫。
次の瞬間、世界は真っ白になった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第1章完結済み、現在は第2章「タレントとの邂逅編」を更新中です。
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