プロローグ③
家に帰ると、妹がリビングでアイスを食べていた。
「おかえり。どうだった?」
アオは無言で靴を脱いだ。
そして、無言でリビングに入り、無言でソファに座った。
妹が察したように頷く。
「落ちたか」
「まだ正式には落ちてないけど、実質落ちたようなもん」
「まぁそうだよね」
「でも、別の話をもらった」
「別の話?」
アオは名刺を差し出した。
それを妹は手に取り、まじまじと見つめた。
「え?VSPの人の名刺?どしたのこれ?」
「……何かもらった」
「そんなテキトーな感じで貰えるとは思えないんだけど」
――アオはVSPの人から名刺を貰った時の経緯を簡単に説明した。
「へーなるほど。つまり運営スタッフに誘われたってことね」
「うん……タレントは無理だけど、運営側ならって」
「すごいじゃん」
「すごいのかな」
「いやすごいでしょ。普通に」
アオは膝の上で手を握った。
本当は誘われた時点で、もう答えは決まっていた。
持ち帰らせてほしいと言ったのは、考える時間がほしかったからではない。
あの場で即答する勇気がなかっただけだ。
もしその場で「やります」と言ったら、声が裏返って、転んで、名刺を落として、ついでに意識も失いそうだった。
だから持ち帰った。
けれど、腹は決まっていた。
自分が憧れたVtuberにはなれない。
少なくとも、今の自分では。
大勢の前で笑って、話して、誰かの心を掴むなんて、まだ遠すぎる。
でも。
こんな自分を、見てくれた人がいた。
声を聞いてくれた人がいた。
憧れを、別の形で使ってみないかと言ってくれた人がいた。
なら。
「……やってみたい」
アオは小さく言った。
妹はアイスのスプーンを止めた。
「うん」
「怖いけど」
「うん」
「絶対、いっぱい失敗するけど」
「それは知ってる」
「いやそこは人として否定してよ」
「無理ぽよ」
「人の心は?」
それでも、アオは笑った。
ほんの少しだけ。
そして自室に戻り、机に名刺を置いた。
パソコンを開く。
メール画面を開く。
宛先に、名刺の連絡先を入力する。
手が震える。
文章を打っては消し、打っては消し、最終的に三十分かけて完成したメールは、びっくりするほど短かった。
『本日はお声がけいただき、ありがとうございました。運営スタッフのお話、ぜひお受けしたいです。よろしくお願いいたします』
読み返す。
硬い。
めちゃくちゃ硬い。
文章から緊張が漏れている。
でも、今のアオには、これが精一杯だった。
「……送る」
今度の送信ボタンは、前より少しだけ小さく見えた。
怖いことに変わりはない。
でも、押せないほどではなかった。
クリック。
送信完了。
アオは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
胸がどきどきしている。
不安で。
期待で。
そして、少しだけ、嬉しくて。
数日後。
正式な連絡が届いた。
遠藤アオは、晴れてVSPの運営スタッフの一員となることが決まった。
Vtuberタレントたちの本名も、素顔も、個人情報も、絶対に外に漏らしてはいけない。
そのすべては、事務所にとって最重要機密。
アオは表舞台に立つわけではない。
きらきらしたアバターをまとって、リスナーの前で笑うわけでもない。
けれど、憧れた世界の扉が、ほんの少しだけ開いた。
そこから差し込む光は、画面越しに見たあの声と同じくらい眩しかった。
「……が、がんばろう」
誰に聞かせるでもなく、アオは呟いた。
その声は、まだ小さかった。
けれど、確かに外へ向かっていた。
そしてこのときのアオは、まだ知らない。
VSPという場所が、想像以上に騒がしくて。
タレントたちが、想像以上に自由で。
運営スタッフという立場が、想像以上に胃に悪くて。
しかもなぜか、女の子たちとの距離感が、想像以上に近すぎるということを。
遠藤アオの青春は、この日、静かに始まった。
本人の希望とは裏腹に、まったく静かでは済まない方向へ。




