幕間:清白主催のお疲れ様会①
――翌日。
私は、午後出社だった。
午後出社。
なんて甘美な響きだろう。
しかし、その日の私は、少し得をした気分どころではなかった。
午前出社だったら、たぶん布団と合体していた。
物理的に。
昨日、私たちは早朝から夜遅くまで動き続けた。
帰宅した記憶はある。
靴を脱いだ記憶も、たぶんある。
でも、布団に入った記憶がない。
気づいたら布団の中にいた。
人間には自動帰巣本能があるらしい。
素晴らしきかな、人類。
あれ、そういえば私、人類じゃない。
VSP公認のモルモットじゃん。
……早く人類になれるように頑張ろ。
そんな状態で出社した私は、エレベーターの鏡に映った自分を見て、そっと目を逸らした。
目が、真理を悟ってしまったモルモットだった。
「お、おはようございま……す……」
フロアに入った私は、小さく挨拶した。
すると、自分の席の近くに、すでに人影があった。
姫野さんだった。
さすが姫野さん。
この人は昨日あれだけ動いても、今日も普通に出社している。
やはりバリバリのキャリアウーマンは違う。
私のような小動物とは基礎体力の規格が違う。
そう思った。
三秒後、その評価は崩れた。
姫野さんは、机に頭を突っ伏していた。
右手には、まだ中身の入ったエナジードリンク。
左手はキーボードの横に投げ出されている。
髪は少し乱れ、肩は微動だにしない。
――完全に気絶していた。
「…………」
私は口を開けた。
あんぐり、という擬音が似合う開き方だった。
人は本当に驚くと、口が勝手に開く。
そして閉じ方を忘れる。
言葉が出なかった。
あの姫野ミカンが。
昨日、部署を止め、回し、指示を飛ばし、私の魂を何度か回収したあの姫野ミカンが。
机に突っ伏して、エナドリを握ったまま死んでいる。
いや、死んではいないか。
たぶん。
「あ、あの……姫野さ――」
私が声をかけようとした瞬間だった。
姫野さんの肩が、びくん、と跳ねた。
「――ッ!」
机に伏せたまま、姫野さんの体が痙攣した。
私は思わず一歩下がる。
ホラー映画だったら、ここでエナドリ缶が転がって、怪異が始まる場面である。
しかし、次の瞬間、姫野さんはゆっくり顔を上げた。
目が死んでいた。
「……遠藤か」
「は、はい……」
「何時だ」
「午後です……」
「そうか、午後か……」
姫野さんの声は、いつもより低かった。
というより、地面から聞こえてくるみたいだった。
「姫野さん、大丈夫ですか……?」
「大丈夫に見えるか?」
「見えません……」
姫野さんは、持っていたエナドリを見た。
まだ開いている。
まだ残っている。
しかし飲めていない。
「……午前中のアタシは、これを飲む前に落ちたらしい」
「落ちた……」
「電源が」
「電源……」
姫野さんは缶を持ち上げた。
手が少し震えている。
私が小さく頷いた時、フロアの入口が開いた。
――蓮見さんが入ってきた。
見た目は、いつも通りだった。
ただ、よく見ると少しだけ歩調が乱れている。
足元が、ほんのわずかにふらついている。
そして、ただでさえ薄い生気が、今日はさらに薄い。
いつもが省エネモードなら、今日は省エネを通り越して残量一パーセントである。
それでも顔は平常。
怖い。
「おはようございます」
蓮見さんは、いつもの調子で言った。
姫野さんが机に片肘をついた。
「午後だ」
「では、こんばんちわ」
「ナメんな」
「こんにちは、遠藤さん」
「あ、こんにちは……」
蓮見さんは、私にだけ少しだけ丁寧に会釈した。
姫野さんの眉がぴくりと動く。
「おい。アタシへの扱いが雑すぎんだろ」
「姫野さんは頑丈なので」
「クソっ、一応先輩だぞ……」
姫野さんが、まだ完全に起動していない声でグチグチ言う。
その横で、蓮見さんは私の席の近くへ来た。
「遠藤さん、体調はどうですか」
「あ、えっと……しょぼしょぼです」
「しょぼしょぼ」
蓮見さんが、真顔で復唱する。
「しょぼしょぼの遠藤さん……良い」
「いや何が……?」
蓮見さんは、少しだけ瞬きをした。
そして、唐突に言った。
「そういえば、昨日夢を見ました」
「夢、ですか?」
「はい」
私は少しだけ首を傾げる。
蓮見さんが夢の話をするのは珍しい。
いや、そもそも蓮見さんが自分から雑談を始めること自体が珍しい。
「どんな夢だったんですか?」
私が聞くと、蓮見さんは静かにこちらを見た。
「遠藤さんが――」
蓮見さんは続きを話そうとした。
その時だった。
フロアの入口が、また開いた。
――九さんと清白さんが、一緒に入ってきた。
「おはよーございまーす。午後だけど」
「みんなー、生きてるー?」
いつもと変わらない声。
いつもと変わらないテンション。
その二人を見た瞬間、姫野さんの顔が戦慄に染まった。
「……やっぱりこいつら人間じゃねぇ」
私も一瞬、そう思った。
九さんは軽く手を振っている。
清白さんもにこにこしている。
昨日の早朝から夜遅くまでフル稼働していたはずなのに。
どうして普通に出社できるのか。
どうして声が明るいのか。
どうして「生きてるー?」と聞く側に回れるのか。
やはり人類ではなかったのか。
狂人ではなく人狼だったか。
しかし。
近づいてきた二人をよく見ると、そうでもなかった。
九さんのメイクが、いつもよりだいぶ薄い。
というより、かなり簡略化されている。
アイラインがいつもの三割くらいしか戦っていない。
リップの色も控えめ。
髪も整ってはいるけれど、どこか気合いが足りない。
そして清白さん。
喋り口はいつも通り。
笑顔もある。
でも、少し頬がこけている。
しかも、よく見ると体が小刻みにぷるぷるしていた。
よかった、ギリ狂人で済んだみたいだ。
「清白さん……なんか震えてませんか?」
私が聞くと、清白さんは明るく笑った。
「あ、バレちった」
「認めた……」
「昨日から体中の関節が痛くて……」
「若年寄かよ」
姫野さんが即座に言った。
蓮見さんも清白さんを見て、淡々と言う。
「清白さんがプルプルしても、別にカワイくないです」
「お~い、オマエラ~?一応上司だぞ~?」
清白さんの笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。
こめかみが、ぴくりと動く。
「スズちゃん、よく見たらめっちゃプルってるじゃん。小鹿?」
「小鹿ならカワイイじゃん。保護すべきだよね?」」
「いえ、鹿は害獣です。むしろ駆除しなくては」
「鹿っていうか人狼だろ。今のうち吊っとこうぜ」
「おっけーおっけー。キミたち3人、昨日の残業代100%カットね」
清白さんは笑っている。
でも、目が笑っていない。
VSPの運営統括プロデューサー。
昨日、全体を動かし、タレントさんのそばで支え続けた人。
そんな人が、今日は部下たちに「若年寄」・「害獣」・「人狼」などと言われている。
VSP、上下関係が独特すぎる。
いや、これが信頼なのかもしれない。
清白さんは、こほん、と咳払いをした。
「さて」
全員が清白さんを見る。
清白さんは、いつもの調子でにっこり笑った。
「英気を養うのも仕事のうちです」
「なんだいきなり」
姫野さんが言った。
「というわけで」
清白さんは両手を広げる。
「今から打ち上げをします」
沈黙。
フロアに、何とも言えない沈黙が落ちた。
私は清白さんを見る。
姫野さんを見る。
蓮見さんを見る。
九さんを見る。
もう一度、清白さんを見る。
「……今から、ですか?」
「うん。今から」
「仕事は……?」
「昨日、みんな人間の限界を超えたので、今日は人間に戻る日です」
「名言っぽく言ってるけど雑だな」
姫野さんが額を押さえる。
九さんは、少し考えてから頷いた。
「でも、まあ正直、今日まともな判断できる気しないんだよね」
「キューさんがそれ言うの怖いですね」
「だって今のウチ、契約書読んだら全部“優勝”って書いてあるように見えるもん」
「それは寝てください」
清白さんがにこにこする。
「だから、今日の仕事は打ち上げ。反省会じゃなくて、お疲れ様会」
「……まあ、確かに今日はまともに動けねぇしな」
「でしょ?」
清白さんは、ぱん、と手を叩いた。
「じゃあ決定。会議室押さえてあるから、そこでやります。食べ物も頼んであります」
「準備済みかよ」
姫野さんが呆れる。
「もちろん。こういう時のスピード感が大事」
「昨日の炎上対応で使え、そのスピード感」
「使ったよ?」
「そうだったわ」
姫野さんが負けた顔をした。
私は、ぽかんとしたまま話を聞いていた。
お疲れ様会。
打ち上げ。
昨日の地獄みたいな一日の翌日に。
この人たちは、もう笑う準備をしている。
すごい。
というより、強い。
いや、単に壊れているだけかもしれない。
VSP、判断が難しい。
「遠藤さん」
蓮見さんが、私を見た。
「はい」
「さっきの夢の話ですが」
「あ、そうでした。どんな夢だったんですか?」
蓮見さんは、少しだけ間を置いた。
「打ち上げが始まったら話します」
「なぜ引っ張るんですか……?」
「夢にも演出があります」
「夢に構成を持ち込まないでください……」
九さんが笑う。
「カンナちゃんの夢、絶対ろくでもないじゃん」
「失礼です。かなり意味深でした」
「余計怖いわ」
姫野さんがエナドリを飲み干し、立ち上がった。
足元が少しだけふらつく。
清白さんがぷるぷるしながら歩き出す。
九さんは省エネギャルのままスマホをしまう。
蓮見さんは、なぜか少しだけ楽しそうに見えた。
私は、その後ろをついていく。
昨日の炎上の熱は、まだ完全には消えていない。
でも、今はその話をしない。
まずは、生き残った人たちで、ちゃんと息をする。
それもきっと、仕事のうちなのだと思う。
たぶん。
たぶん、清白さんの狂気に言いくるめられているだけではない。
……はずである。




