第19話:パイセン一同、新人の本質に触れる
――遠藤アオを休ませる。
姫野ミカンがそう決めたあと、作業はすぐに再開された。
炎上は待ってくれない。
SNSの流れも止まらない。
やるべきことは、まだ山ほどある。
アオは少し離れた席で、水を飲み、蓮見から渡されたチョコを小さく齧っていた。
両手で包むようにチョコを持っている姿は、どう見ても大炎上の中心で一瞬だけ異様な集中を見せた人物と同一人物には見えない。
見えない、のだが。
――姫野は端末に向かいながら、さっきのアオの声を思い出していた。
『中心は、本人の声が本人のものとして届かなかったこと』
あの瞬間のアオは、いつものアオではなかった。
声が、まっすぐ前に出ていた。
大きいわけではない。
押しつけるでも、奪うでもなく、ただ静かにそこにある。
それでも、一度耳に入れば、意識を引き寄せられる。
――誰かの記憶の奥に、柔らかな爪痕のように残る声だった。
姫野は、チャットへ指示を打ち込みながら小さく息を吐く。
声が良いだけなら、タレント候補だ。
細かいところに気づくだけなら、目端の利く新人で済む。
――だが、アオは違った。
見つけた違和感を、誰かに届く言葉へ変えた。
その言葉で、止まりかけていた現場を動かした。
「……やっと分かった気がする」
隣にいた九が、資料から顔を上げる。
「なにが?」
「遠藤の、ヤバいところ」
「今さら?」
「うるせぇよ」
姫野は一度だけ、少し離れた席を見る。
アオは、二つ目のチョコを食べるかどうかで悩んでいた。
包装を少し開けては閉じ、また開け、また閉じている。
一瞬前まで炎上の中心を見抜いていた人間が、今はチョコ一つで脳内会議を開いていた。
「……落差がひでぇ」
だが、もう単なる挙動不審な新人には見えない。
現場に必要なものを拾い、それを通る言葉にできる。
清白が運営に置いた理由は、たぶんそこだ。
全部を最初から見抜いていたかどうかなど、もうどうでもいい。
少なくとも、置いた場所は間違っていなかった。
姫野は再び画面へ向き直る。
今は、アオの才能について会議をしている場合ではない。
その才能が拾った糸を、現場につなぐのが自分の仕事だった。
――蓮見は、アオから目を離さなかった。
オーディションの頃から見てきた。
入社してからも、何度も観察してきた。
そのはずだったのに――
「……まだ、見誤っていました」
蓮見が小さく言った。
姫野が顔を上げる。
「あん?」
「遠藤さんのことです」
蓮見はアオを見たまま続ける。
「私は、遠藤さんが怖いから周囲を見ていることも、そのおかげで小さなズレに気づけることも、理解していたつもりでした」
「つもりだった?」
「はい」
さっきのアオは、ただ見ていただけではない。
画面の向こうにある感情へ手を伸ばしていた。
怖がりながら。
自分を削りながら。
それでも、誰かの声が別のものに変わっていることを放置しなかった。
遠藤アオは、恐怖に勝ったわけではない。
怖いまま、火の中心へ手を伸ばしたのだ。
蓮見は、そのアオの強さを理解していたつもりだった。
――しかし。
それでもなお、彼女の力を見誤っていた。
自分がずっと見てきたはずの人に、まだ知らない顔がある。
それを知らなかったという事実が、心底悔しかった。
「……まだ全然、足りていませんでした」
声は淡々としていた。
けれど、その奥には、隠しきれない熱があった。
九が横から蓮見の顔を覗き込む。
「カンナちゃん、なんか湿ってんね」
「湿っていません」
即答だった。
「いや、今の湿度八十パーくらいあったよ」
「適正湿度です」
「何の?」
「飼育環境です」
「いや湿度高すぎだろ。カエルでも飼ってんの?」
蓮見は答えなかった。
代わりに、二つ目のチョコを前に固まっているアオへ、静かに視線を戻した。
姫野のこめかみがわずかに跳ねる。
「……お前、遠藤に変なことすんなよ」
「……ご心配なく」
「その言葉が一番信用できねぇんだよ」
九が小さく笑った。
――だが、ダラダラと喋っている余裕はない。
炎上はまだ終わっていない。
アオが拾ったものを、本当に誰かへ届けるための仕事が残っている。
「初期声明、軸は決まったね」
モニターには、修正中の文面が映っている。
九は文面の一部を指でなぞる。
「ここ、“本人の意向確認”だけだと危ない。“本人の意図と表現上の見え方に差異が生じた可能性”に寄せる」
姫野が頷く。
「本人に確認してなかったって見え方を避ける」
「そう。それだと本人にも現場にも刺さる。実態はもっと複雑だし」
蓮見が別の画面を開く。
「動画修正方針です。“無理はしなくていい”を冒頭に戻します。“ちゃんとついてきて”は使用しない方向が安全です」
「本人が使いたいって言ったら?」
姫野が聞く。
「その場合でも、前後文脈を必ず残します。単独字幕化は避けます」
九が頷く。
「いいね。強い言葉は前後が命。前後切ったら別人になる」
姫野は広報チャンネルに指示を打ち込む。
「広報、初期声明は法務チェック後に出す。制作、修正版ショートは本人確認後。グッズ、背景素材の契約範囲を優先で返せ。営業、先方への責任追及に見える文面は出すな」
指示を打ちながらも、姫野の頭にはまだアオの声が残っていた。
『タレントさんの声と、ファンが信じてきた距離です』
あれは、新人から出る言葉ではなかった。
少なくとも、ただの新人研修の延長で出る言葉ではない。
あの一瞬、アオは現場の誰よりも火の中心を明確に捉えていた。
――その時、少し離れた席から小さな声がした。
「……あの、二つ目のチョコ、食べても大丈夫でしょうか……」
アオだった。
三人が同時に振り返る。
アオはチョコを両手で持ち、こちらを見ている。
大炎上の核心を一瞬で掴んだ人物とは思えないほど、目が不安そうだった。
蓮見の表情が、ほんのわずかに変わった。
「……少し疲れました」
「おい」
姫野が警戒する。
蓮見は静かに立ち上がった。
「癒されてきます」
「おい、何する気だ」
「補給確認です」
「絶対違ぇだろ」
「遠藤さんの糖分摂取状況を見ます」
「目がケモナーのそれなんだよ、お前」
姫野が止めるより早く、蓮見はアオの元へ向かった。
九は笑いを噛み殺している。
「止めなくていいん?」
「止めるに決まってんだろ」
姫野は席を立つ。
だが、時すでに遅かった。
蓮見はアオの横にしゃがみ、チョコの包装を開けるのを手伝っていた。
それだけなら、まだよかった。
「よく頑張りました」
蓮見はそう言って、アオの頭をそっと撫でた。
アオの肩が跳ねた。
「ひゃ……」
鳴いた。
まだ正常範囲。
姫野は一瞬そう判断しかけた。
だが次の瞬間、蓮見が両手でアオの頬を軽く包み込んだ。
「先ほどの遠藤さんは、とても立派でした」
「ひょ……」
「でも今は休んでください」
「……み゛っ」
アオの口から、魂の四割が出かかっていた。
姫野のこめかみが跳ねる。
「……何やってんだお前ェっ‼‼」
魂の叫びが、フロアに響く。
姫野は全力で駆け出した。
蓮見はアオの頬を包んだまま、振り返る。
「アニマルセラピーです」
「お前ついに言ったな?言い切りやがったな?」
「相互作用なので問題ありません」
「問題しかねぇよ!いま遠藤をどう扱うかの話してただろうが!」
アオは目をぐるぐるさせている。
「た、助け……いや、助かって……いや、どっち……?」
「遠藤、戻れ!魂をしまえ!」
「ひゃい……!」
九はその様子を見ながら、ついに笑った。
「いや、何この地獄絵図」
笑いながらも、手は止めない。
声明文の修正。
確認項目の整理。
外部共有資料のリスク分類。
火はまだ消えていない。
それでも、九は少しだけ救われた気がした。
こんな状況でも、誰かが笑える。
それは危機感がないということではない。
折れずに仕事を続けるための余白だ。
九はペンを回しながら、改めてアオを見る。
姫野に救出され、蓮見から距離を取られ、チョコを握ったまま小さくなっている。
さっきまでの、あの声が嘘みたいだった。
だが、嘘ではない。
広報は、言葉を外へ届ける。
法務は、越えてはいけない線を引く。
制作は、声や表情を映像へ落とし込む。
マネジメントは、タレント本人の状態と意向を見る。
それぞれに役割がある。
けれど、アオが拾ったものは、そのどれか一つには収まらなかった。
ファンが何に傷つき、何を失うことを怖がっているのか。
タレント本人の言葉が、どこで別の意味に変わったのか。
複数の部署の隙間に落ちたものを拾い、全員が扱える形で差し出した。
九が知っている職種のどれにも、綺麗には分類できない。
「……新種じゃん。おもろ」
小さく呟く。
ただし、新種一人で炎上を鎮められるわけではない。
アオが拾った違和感を、蓮見が映像上の問題へ落とす。
姫野が判断し、現場を動かす。
九が責任の線を引き、燃えにくい言葉へ整える。
清白がタレント本人につなぐ。
アオの力は、単独で完成するものではない。
チームの中に置かれて初めて、仕事になる。
そこまで考えて、九は少しだけ口元を上げた。
清白の配置が正しかったのは認める。
正直、ちょっと癪だけど。
「……アオちゃん、マジで変な子」
九は画面へ視線を戻す。
変で、危うくて、本人は自分の価値をほとんど分かっていない。
けれど、今のVSPには必要だった。
「でも、悪くないじゃん?」
その笑みは軽い。
だが、目はすでに声明文の次の一文を追っていた。
姫野の説教はまだ続いている。
蓮見は反省しているようで、たぶん半分ほどしか反省していない。
アオはチョコを食べながら、アタフタしている。
九は修正文面を保存し、広報チャンネルへ送った。
『初期声明案、修正版です。強い単語は避けています。本人に責任を負わせない方針で整理済み。確認お願いします』
送信。
九は小さく息を吐く。
ここからが、本当の火消しだ。
けれど、鎮火へつながる線はもう見えている。
あとは、その線を全員で途切れさせないこと。
それが、パイセン一同の仕事だった。




