第16話:VSP、大炎上する
その日の夜。
SNSの勢いは、一度だけ鈍った。
VSP公式側の公開作業は停止。
確認用URLも無効化された。
元素材、仮編集、サムネ案、投稿文案は、修正前の状態で保存されている。
背景素材については、利用規約と購入履歴を照合中。
動画に残っていた【周年案件_A社確認用】という表示にも、個人情報や収録場所につながる内容は含まれていなかった。
少なくとも、現時点で確認できる範囲では。
投稿数も増えてはいたが、まだ広報側で追えていた。
「遠藤。今日はもう上がれ」
姫野さんの言葉に、画面から顔を上げる。
「え……でも、まだ……」
「今残ってんのは、先方と法務の返事待ちだ。お前が画面に張りついても、返事が早くなるわけじゃねぇ」
「でも、投稿が……」
「広報に引き継いだ。お前が分けた一覧も共有済み」
姫野さんが、私の画面を指す。
直接投稿を見た反応。
スクリーンショット経由の反応。
疑問。
不安。
断定。
今日見つけた違いは、すべて残してある。
「これ以上は、朝の状況を見てからだ」
「……大丈夫、でしょうか」
聞いたあとで、何を聞いているのか自分でも分からなくなった。
炎上が。
タレントさんが。
事務所が。
全部が。
姫野さんは、すぐには答えなかった。
「……大丈夫だとは言えねぇな」
低い声だった。
「ただ、今やれることはやった。これ以上の判断は、事実が増えてからだ」
九さんが利用規約の画面から顔を上げる。
「そだね。寝不足で反応見ても、効率悪いし。今日は帰って寝た方がマシ」
「言い方」
姫野さんが眉を寄せる。
「いや、ガチで。今のアオちゃんに必要なの、追加の不安じゃなくて睡眠なんよ」
九さんはすぐに画面へ戻った。
軽い言い方だった。
けれど、指は止まっていない。
「明日、朝イチで連絡する」
姫野さんが言う。
「何かあった時のために、スマホの音は切るなよ」
「は、はい」
帰り支度をしている間にも、何度もSNSを見た。
新しい投稿は増えていた。
けれど、数はまだ追える。
広報も動いている。
素材の確認も進んでいる。
本人には、勝手に投稿しないよう伝わっている。
このまま大きくならずに止まるかもしれない。
そう考えるだけの材料はあった。
それでも、駅へ向かう間に三回。
電車の中で五回。
自宅へ着いてからも、SNSを開いた。
投稿数は増えていたが、急激ではない。
関連する言葉も、トレンドには入っていなかった。
最後に確認した時刻は、日付が変わる少し前だった。
『VSP、早めに消したなら何か対応するのかな』
『本人の言葉を聞くまでは待つ』
『素材の件はまだ分からなくない?』
強い言葉もある。
それでも、まだ確かめようとしている人もいた。
私はスマートフォンを伏せた。
一抹の不安は消えなかった。
けれど、明日になれば確認が進む。
修正すべきものを修正して、必要な説明を出す。
きっと、そこまで大きなことにはならない。
そう思いながら、目を閉じた。
ブーッ、ブーッ、ブーッ……――
―― 午前五時十二分。
スマートフォンの着信音で目が覚めた。
部屋は暗い。
カーテンの隙間だけが、わずかに白んでいる。
手探りでスマートフォンを掴む。
画面に表示されていた名前を見た瞬間、眠気が消えた。
【着信:姫野ミカン】
姫野さんが、この時間に電話をかけてくる。
それだけで、体が先に固まった。
「うひゃっ……!えっ、なっ、何事……!?」
『遠藤。起きたか』
「い、今……」
『悪い。通話は切るな。そのままSNSを開け』
声が低い。
いつもの雑さはある。
けれど、笑いはなかった。
私は通話画面を小さくし、SNSを開いた。
検索する必要はなかった。
画面の上部。
最も目立つ場所に、その言葉はあった。
――【トレンド一位:VSP炎上】――
息が止まった。
一位の横に表示された投稿数は、二位以下と桁が違っていた。
それだけではない。
関連する言葉まで、ランキングの上段を埋めている。
【ちゃんとついてきて】
【周年告知】
【A社確認用】
【素材規約】
昨夜まで別々だった言葉が、一つの画面に集まっていた。
「……え」
声が出た。
それ以上は続かなかった。
『見えたか』
「は、はい……でも、これ……」
指を滑らせる。
投稿が流れていく。
一つ読んでいる間に、新しい投稿が上へ積み重なった。
『VSP、タレントに集金圧かけさせてたってこと?』
『本人確認前の動画を企業案件で誤爆』
『素材の規約違反に内部情報まで映り込みって、管理どうなってんの』
『タレント本人の言葉を運営が改変したらしい』
『最近のVSP、数字優先しすぎじゃない?』
昨日は疑問だった。
本当なのか。
本人が確認したのか。
何が起きたのか。
今は違う。
運営が改変した。
規約に違反した。
内部情報を漏らした。
すべてが、もう確定したことのように書かれている。
「昨日と……違う……」
『何がだ』
「みんな……もう、聞いてなくて」
『何をだ?』
「分からない、です……でも、昨日は、もっと……」
言葉が続かなかった。
何が変わったのか。
どこから変わったのか。
投稿が多すぎて、一つの形にできない。
『遠藤』
姫野さんの声が、耳元へ戻ってくる。
『昨日の一覧、残ってるな』
「は、はい」
『それ持って、事務所に来られるか』
「い、今から……?」
『無理なら言え』
心臓が速い。
手も震えている。
「えっ、えっと……い、い……」
声が詰まった。
それでも、息を吸い直す。
「行けます……!」
『分かった。急げ。ただし、走って転ぶなよ』
「はい……!」
通話が切れた。
布団を跳ね上げる。
着替え。
鞄。
社員証。
充電器。
昨日作った一覧。
確認したはずなのに、玄関で鞄をもう一度開いた。
一覧は入っている。
社員証もある。
鍵を閉める。
本当に閉まったか確認する。
一度。
二度。
三度目に手を伸ばしかけて、止めた。
今は、戻っている時間がない。
駅へ向かう間も、スマートフォンから目を離せなかった。
投稿は増え続けている。
電車へ乗った時には、トレンド一位の表示は変わっていなかった。
それどころか、関連する言葉がさらに増えていた。
昨日、自分が分けた投稿の形はもう残っていない。
疑問と不安。
直接見た人と、スクリーンショットから知った人。
それらが混ざり、強い言葉の中へ沈んでいる。
画面を更新する。
また新しい投稿。
『もう本人が何を言っても運営に言わされてるようにしか見えない』
指が止まった。
本人が何を言っても。
昨日まで求められていたのは、本人の言葉だったはずなのに。
今は、その言葉まで疑われ始めている。
何が、どこで変わったのか。
考えようとしても、情報が多すぎた。
一つ拾えば、その下に十の投稿が増える。
頭の中へ入る前に、次の言葉が押し寄せてくる。
私はスマートフォンを握ったまま、事務所へ向かった。
自動ドアが開く。
いつものフロアだった。
机も。
モニターも。
観葉植物も。
何も変わっていない。
――ただ、聞こえる音が違った。
キーボードを叩く音。
短い指示。
鳴り続ける電話。
誰かが走る足音。
人はいるのに、雑談がない。
姫野さんは、複数のチャットを開いたまま電話をしていた。
上着を羽織る余裕もなかったのか、シャツの袖を肘までまくっている。
蓮見さんは大きなモニターの前に座り、昨夜の投稿と今朝の拡散経路を並べていた。
目の下に、薄い影がある。
九さんは広報と法務の文面を確認していた。
「“規約違反について謝罪”はまだダメ。違反したか確定してない」
「確認用投稿が一時公開された事実と、混乱を招いたこと。今出せるのはそこまで」
「先方名は出さない。共同発表にするなら、合意取ってから」
言葉は軽い。
判断は速い。
清白さんは、少し離れた場所でタレント本人と通話していた。
笑ってはいない。
けれど、声は崩していなかった。
「アオちゃん、来たね」
通話を終えた清白さんが、こちらを見る。
「ひゃ……はい」
返事が喉の奥で潰れた。
誰も笑わなかった。
姫野さんが電話を切り、こちらへ来る。
「遠藤。座れ」
「はい……」
「SNSは見たな」
小さく頷く。
椅子へ座っても、足の震えが止まらない。
「……私が、昨日……もっと早く、ちゃんと――」
「違う」
姫野さんが遮った。
強い声だった。
けれど、怒鳴ってはいない。
「最初に言っとく。今のこれは、お前一人の伝え方でどうにかなった話じゃねぇ」
姫野さんが、大きなモニターを指す。
画面には、夜の間に起きたことが時刻順に並んでいた。
・ 午前零時四十分。
削除された告知のスクリーンショットが、急速に拡散され始める。
・ 午前一時過ぎ。
背景素材の利用条件を疑う投稿が伸びる。
・ 午前二時前。
【A社確認用】の表示を、内部情報の流出だとする指摘が広がった。
・ そして、午前二時十三分。
大規模なまとめアカウントが、別々だった三つの話を一つに並べていた。
『VSP周年企画、タレントへの圧力・素材規約違反・内部情報流出へ発展か』
そこから、拡散速度が跳ね上がっている。
「この投稿を境に、別々だった話が一個の事件として扱われ始めた」
姫野さんが言った。
画面の線は、その投稿から何本にも枝分かれしていた。
まとめ動画。
批判投稿。
過去の別件を持ち出す投稿。
タレント本人への直接的な言葉。
「お前が止まった一文だけで燃えてるわけじゃない」
「でも……」
「昨日、お前が気づいたから仮案を止めた。投稿の反応も分けて残した。今、初動を分ける材料になってる」
姫野さんは、言葉を区切った。
「今必要なのは、できなかったこと探しじゃねぇ。昨日残したものを使うことだ」
蓮見さんが、昨夜の一覧をモニターへ表示する。
「遠藤さんが作成した分類は、時刻を含めて保存されています」
直接閲覧。
スクリーンショット経由。
疑問。
不安。
断定。
昨日の投稿が、画面に並んでいる。
その隣へ、今朝の投稿が表示された。
罵倒。
疑惑。
批判。
決めつけ。
ほとんどが強い言葉だった。
「昨夜と今朝で、反応の形が変わっています」
蓮見さんが言う。
「ですが、どこで変化したのかは整理できていません」
九さんが資料から顔を上げた。
「公式文を作るにしても、全員が同じ理由で怒ってる前提だと普通に事故る」
「素材の説明が欲しい人。本人の言葉が欲しい人。運営の管理を問題にしてる人」
指を折る。
「今は全部が一緒に見えてる」
姫野さんが、私の前へ昨夜の一覧を置いた。
「遠藤」
「は、はい」
「昨日、お前は怒ってるように見える投稿から、その前にあった不安を拾った」
画面を見る。
文字が多い。
多すぎる。
昨夜とは比べものにならない。
「今朝も同じようにできるかは、分からねぇ」
姫野さんは言った。
期待を押しつける声ではなかった。
「答えを出せとも言わねぇ」
「じゃあ……何を……」
「変わった場所を探せ」
姫野さんの指が、昨夜と今朝の一覧の境目を叩いた。
「昨夜の反応と、今朝の反応が別物になった境目だ。何が入って、何が消えたのかを拾え」
喉が狭くなる。
「わ、私に……できるでしょうか」
「分からん」
即答だった。
「だから試す」
清白さんが、隣へ来る。
「昨日の分類を作ったのはアオちゃんだから、最初に見てもらうのが一番早い」
清白さんは、昨夜の一覧をこちらへ寄せた。
「他の人にも並行して見てもらう。でも、アオちゃんが引っかかったところは残して」
九さんが、私の一覧に新しい列を作る。
【変化した地点】
「声明を書くのは、こっちの仕事」
九さんが言う。
「アオちゃんは、変だと思ったところに印つけて。理由まで全部説明できなくていいから」
「……変だと、思ったところ」
「そう。断定しない。盛らない。見えたものだけ」
昨日と同じ言葉だった。
分からないものは、分からないままにする。
勝手に埋めない。
確認できるものだけ。
――画面を見直す。
何千もの投稿。
強い言葉。
怒り。
疑い。
どこから手をつければいいのかも分からない。
その中に、通勤中に見た一文があった。
『もう本人が何を言っても、運営に言わされてるようにしか見えない』
投稿者の履歴を開く。
昨夜の投稿が残っていた。
『本人の言葉を聞くまでは待つ』
同じ人だった。
指が止まる。
昨夜は、本人の言葉を待っていた。
しかし、現在はは本人が話しても信じないと言っている。
この間に、何かが変わっている。
投稿時刻を確認する。
午前二時二十七分。
まとめアカウントの投稿が拡散され始めた直後だった。
私は、その投稿へ印をつけた。
次。
『本人に謝らせるのだけはやめてほしい』
この人は、タレントさんではなく運営へ怒っている。
別の印をつける。
答えはまだ見えない。
どう収束させればいいのかも分からない。
ただ、昨夜と今朝が同じではないことだけは、画面に残っている。
目の前へ置かれたのは、謝罪文でも声明案でもなかった。
昨夜から今朝まで続く、言葉の流れだった。
「遠藤」
姫野さんの声が聞こえる。
「どこで変わったか、拾え」
「……はい」
震える指で、次の投稿を開いた。




