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第11話:コミュ障、法務部にてギャルに轢かれる


議事録の手直しが終わった。

終わった、はずだ。

少なくとも、姫野さんから「まあ、これなら一旦いいだろ」という言葉はいただいた。


一旦。

いいだろ。

この二つの単語には、社会人特有の含みがある。


完全勝利ではない。

だが、即死でもない。


つまり、生存。

私は生き残った。

議事録という名の密林から、ボロボロになりながらも帰還したのだ。


「よし」


隣で姫野さんが頷いた。


「じゃ、法務部行くぞ」


「ほーむ」


自分でも、びっくりするくらい自然に出た。


ほーむ。

HOME。

VSP帰宅部。


次の瞬間、姫野さんの目が細くなった。


「ホームじゃねぇよ。早く帰りたいっていう魂胆が口からはみ出てんぞ」


「…………ち、チガイマスヨ?」


私の両目は高速で泳いでいた。

右。左。右。左。

もし目玉に車輪がついていたら、今ごろ摩擦熱で煙が出ている。


「ふっ、お、お前……目が忙しすぎんだろ……」


「これは……その……視力の運動で……」


「あ、もうムリ」


「え?」


「ぶははははははっ!」


本日三度目の大爆笑だった。


「め、目がピンボールみたいに……!ていうか、法務でホームって……お前……!」


「ち、違います……!口が勝手に……!」


「体は正直だなぁ、遠藤!」


「くっ、体が言うことをきかない……!」


ひどい。

喉だけでなく、口まで敵側に回った。

私の発声器官、内乱が多すぎる。


ひとしきり笑ったあと、姫野さんは目元を拭いながら資料を持った。


「まぁ心配すんなよ。法務部は怖い所じゃあねぇ」


「怖くない……?」


「むしろ頼もしい味方だ」


「味方……」


「今回の動画素材、配信内で使う分には許可取れてる。ただ、告知用ショートに転用する場合の扱いがちょっと曖昧なんだよ。そこを確認する」


「あ、そこなんですね」


「配信で使っていいからって、何にでも使っていいとは限らねぇ。そういうのを見てくれるのが法務・権利管理部だ」


法務。

権利管理。

著作権。

楽曲権利。

二次創作ガイドライン。


単語の圧が強い。

強すぎる。

その全部が黒いスーツを着て、完全武装でこちらを見下ろしている。


「遠藤」


「ひゃい」


「顔が法廷に立ってる」


「表情から裁判が漏れた……!」


「だからビビんなくていいって言ってんだろ」


姫野さんは呆れたように笑った。


「法務は、現場を止めるためだけの部署じゃない。安全に走れるように道を整える部署だ」


「道……ですか」


「地雷がある場所に旗立てたり、ここは通っていいって地図を作ったりする。そういう感じだな」


「地雷マップ……」


それは、少し分かりやすかった。

危ない場所を知らずに踏むのではなく。

先に知って、避ける。


誰かを責めるためではなく、誰かが怪我をしないために。

そう考えると、法務部という場所が少しだけ、人を裁く場所ではなくなった。

まだ怖い。

でも、ほんの少しだけ。


「……今から会う人って、どんな人なんですか?」


私が聞くと、姫野さんは少し考えた。

そして、あまりにもあっさり言った。


「一言でいえばギャルだな」


「…………e?」


私は止まった。

完全に止まった。


――ギャル。


え、ギャル?

ギャルって、あのGAL?


明るくて。

常にテンアゲで。

ネイルがキラキラしていて。

世界に対して基本的に陽の属性を持っている、あのギャル?


「……姫野さん」


「あ?」


「私たちって、今どこに向かってるんでしたっけ」


「法務部だけど?」


「法務部」


「おう」


「で、ギャルですか」


「おう」


「……」


脳が理解を拒んだ。


いや、待て――

私たちは今、どこに向かっているんだっけ。


あっそうだ、ホームだ。


そうだよね、法務部なわけないよ(笑)。

じゃなきゃギャルなんて言葉が出てくるわけない。


ふー、今日もいい汗かいたぁ。

帰ったらシャワーを浴びて、蓮見さんプレゼンツのハムスター動画を見て、布団に潜ろう。

今日も一日、よく頑張りました。


――チャンチャン。


「遠藤」


「はい」


「現実逃避が顔に出てる」


「まだ何も言ってないのに……!」


「顔が『帰宅後の予定』立ててた」


「そんなに具体的に!?」


怖い。

姫野さんの読心精度が高すぎる。


「キューちゃんは怖くねぇよ」


「キューちゃん……?」


「法務・権利管理部の人。アタシも蓮見もスズちゃんも、よく世話になってる」


「清白さんも……」


「まあな。権利絡む時は、だいたいキューちゃんに聞くと早い」


「すごい人なんですね……」


「すごいぞ。ギャルだけど頭いい」


「聞き間違いじゃなかった……」


「学生の頃は弁護士目指して国立大の法学部行ってたらしいしな」


「えっ」


国立大学。

法学部。

弁護士志望。

単語が急に強くなった。


しかも方向性が法務っぽい。


「でも、途中でツマンネーってなって、エンタメ業界に来たんだと」


ツマンネーで弁護士への道を蹴るってマ?

――ギャルってすげぇ。


「本人は軽いけど、仕事はガチだ。法律のことも権利のことも、めちゃくちゃ分かりやすく教えてくれる」




そんな話をしているうちに、法務・権利管理部のあるエリアに着いた。


入口には、落ち着いたプレートがある。

法務・権利管理部。

文字はやはり強い。


ただ、そこにある空気は、私の想像していた裁判所ではなかった。

普通のオフィス。

机があり、モニターがあり、書類棚があり、観葉植物がある。


「おーい、キューちゃんいるか?」


姫野さんが声をかけた。

すると奥の席から、明るい声が飛んできた。


「ういー!ミカンじゃん!」


私は固まった。

法務部から、今の声が?

法律を扱う部署から?

『ういー!』が?


声の主が、椅子をくるっと回して立ち上がった。


明るめの髪。

きれいなネイル。

軽いメイク。

アクセサリー。

表情は明るく、笑顔が強い。


陽。圧倒的、陽。


まるで、法務部に太陽が配置されている。

しかも、めちゃくちゃ距離が近そうな太陽。

私のような日陰の苔が直視したら、普通に蒸発するタイプ。


「で、なになに? 新人ちゃん?」


その人がこちらを見る。

私は反射的に視線を床へ落とした。

床、こんにちは。

今日も安定感があって助かります。


「あーそうそう。タレントマネジメント部の新人。遠藤アオ」


姫野さんが紹介してくれる。


「遠藤、コイツが法務・権利管理部のキューちゃん」


「よろー。キューちゃんでーす」


「あ、あの……」


私は何とか顔を上げた。

光量が強い。

まぶしい。

比喩ではなく、まぶしい気がする。


いや、照明は変わっていない。

この人自身の陽キャ濃度が高すぎるだけだ。


「タ、タレントマネジメント部の……遠藤アオです……よ、よろしくお願いいたします……」


私はいま、未知の文化圏に立っている。


「名刺、渡しとくねー」


「……あ、これはどうもご丁寧に」


差し出された名刺を受け取る。

私は両手でそれを持ち、表記を見た。


九ナルミ:VSP法務・権利管理部所属


九。

漢字の9。

苗字に……九?

何て読むのだろう。

く?

きゅう?


いや、姫野さんは「キューちゃん」と呼んでいた。

つまり、”きゅう”さん。

そうか、”きゅう”さん。

なるほど。


私は慎重に名刺を胸元で持ち直し、深く頭を下げた。


「よ、よろしくお願いいたします……”きゅう”さん……」


その瞬間。

空気が止まった。

姫野さんの動きも止まった。

九さんの目が、ぱちっと大きく開いた。


――ヤッッッッッッヴァイ。


まっずぅい。

やった。

確実に何かをやらかした。


読み方か。

距離感か。

音量か。

それとも、ギャルとの接触作法か。


「あ、あの、何かすみま――」


「え」


九さんが小さく声を漏らした。

それから、表情が一気に明るくなる。


「え、待って」


「は、はい……?」


「初対面でキューちゃん呼び?」


「えっ」


「しかも、”きゅう”さん? なにそれ、距離感バグっててかわいすぎん?」


「ち、違っ……! あの、姫野さんがキューちゃんって呼んでいたので、てっきり……」


「かわいー!」


「ひゃっ」


太陽が急接近してきた。

私が回避行動を取ろうとしていた時には、すでに”きゅう”さんにぎゅっと抱きつかれていた。


――おそろしく速い抱擁。

私だったら見逃しちゃうね。


「アオちゃんだっけ? よろー!」


「…………」


終わった。

法務部で、ギャルに抱きつかれた。

初対面で。

香水の良い匂い。

柔らかい腕。


近い。

近すぎる。

私のようなギャル耐性ゼロの人間には、過剰摂取。

これは陽キャの過剰摂取。


「……ぷしゅー」


声が出ない。

魂が口から出そうになる。

視界が白い。

あれ。

私、いま蒸発している?


「おいキューちゃん、離せ!」


姫野さんの声が遠くから聞こえる。


「遠藤が昇天しかけてる!」


「え、マジ? ごめんごめん、かわいくてつい」


「ついで新人を成仏させんな!」


姫野さんが私の肩を掴み、九さんから引き離した。

私はふらふらと姫野さんの方へ戻る。

現世へ帰還。

ただし、魂の三割くらいは未だに法務部の天井付近を漂っている。


「戻ってこい、遠藤。ここは法務だ。死ぬ場所じゃねぇ」


「は、はい……ここは法務部……自宅は敵じゃない……ギャルは太陽……近い……暑い……」


「ダメだ。完全にバグったわ」


九さんは手を合わせて、にこにこしていた。


「ごめんねー。初対面であだ名呼びされるの、ちょっと嬉しくてさ」


「えっ、あ、あだ名……?」


「うん。うち、皆にキューちゃんって呼ばれてるから」


「でも……名刺に、九って……」


「……あー」


九さんは自分の名刺を見て、笑った。


「これね。九って書いて、”いちじく”って読むんよ」


「……イチジク?」


「そそ。一字で九だからいちじくね」


――九と書いて”いちじく”。


読めるかそんなの。

読めないにもほどがある。


日本語がまた敵になった。

しかも今度の敵は、法務部所属のギャルの苗字として現れた。

強敵すぎる。


「す、すみません、読み間違えて……」


「いや、全然いいよー。むしろキュー呼び嬉しかったし」


姫野さんが腕を組んで、私をじっと見る。


「しかし、まさかお前が初対面であだ名呼びするとはな」


「ち、違います……本当に勘違いで……」


「分かってる。分かってるけど、おもしれぇ」


「面白がらないでください……!」


「いや、これは面白いだろ。遠藤が初対面の法務ギャルをあだ名で呼んで、抱きつかれて昇天しかける。だいぶ情報量多いぞ」


いやそれは本当にそう。

情報量があまりに多すぎる。

握手では肉球認定され。

法務部ではギャルに抱きつかれ。


次は何だ。

経理部で領収書に祈りを捧げるのか。

人事部で椅子と面談するのか。


怖い。

会社、怖い。

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