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10.2 皇太子の覚醒

 マルグレーテ皇太后の隠し別邸は、皇宮の華やかさとは対照的な質素な佇まいだった。小さな湖を臨む木造の建物は、外見からは普通の上級貴族の別荘程度にしか見えない。だが内部の防御魔法は帝国最高レベル—こんな時に私の脳はまだ冷静に分析していた。


 エドガー皇太子を二階の寝室に運び込み、私とリリアは彼が目覚めるのを待った。部屋の隅で、皇太后の侍医が静かに皇太子の脈を取っている。「物理的な怪我はありません。魔力的な疲弊と精神的ショックです」と彼は説明した。


「どのくらいで目覚めますか?」リリアが尋ねる。彼女の声には心配と焦りが混じっていた。


「数時間以内には」侍医は答え、薬草を煎じ始めた。その香りは脳内の特定のレセプターを刺激し、意識回復を促進するものだろう。科学的に興味深い。


 しかし私の心はそこにない。窓辺に立ち、湖面に映る星々を見つめながら、私は無意識に胸元のペンダントを握っていた。その中にはグリフォンがいた—いや、いたはずだった。今、それは単なる空の容器。私はその喪失感に、科学的分析では埋められない穴を感じていた。


「後悔してる?」リリアの声が静かに響く。彼女は窓辺まで歩み寄り、隣に立った。


「計画自体は成功した。エルナルドの『神の降臨』は阻止された。皇太子は救出された。論理的には成功だわ」私は数値化できる事実を淡々と述べた。


「それは質問への答えになっていない」


 振り向くと、リリアの茶色の瞳が私を見つめていた。かつて憎しみと恐怖で私を見ていたその目が、今は共感に満ちている。前世で家族をAIに奪われた彼女が、AIを失った私を理解しようとしている皮肉。


「後悔?」私は言葉を反芻した。「科学的には最適な選択だった。犠牲を最小限に抑えつつ目標を達成する解。でも...」


 言葉が詰まる。前世の佐倉葵なら「感情は計算式に含めない」と言ったかもしれない。だが今の私は違う。


「でも心は違う」リリアが私の言葉を補った。「理解できるわ」


 会話は皇太子のうめき声で中断された。彼が目覚めたのだ。


「ここは...」エドガーは混乱した様子で周囲を見回した。「クロスフィールド卿?フォスター嬢?」


 彼の目は次第に焦点を取り戻し、状況を理解し始めた様子だった。「エルナルドは?『神の声』は?」


「阻止しました」リリアが答える。「『神の降臨』儀式は失敗し、エルナルド卿は現在行方不明です」


「儀式が失敗した後、施設から脱出する際に彼の姿は見ませんでした」私が補足する。「おそらく別の脱出路があったのでしょう」


 エドガーは体を起こし、しばらく沈黙した後、意外な質問をした。「グリフォンというAIはどうなった?」


 私の心臓が一拍飛んだ。彼がグリフォンの存在を知っていたことに驚いたが、科学者的観察眼はすぐにパズルのピースを合わせた。エルナルドが彼に話したのだろう。


「彼は...変容しました」私は慎重に言葉を選んだ。「エルナルドの『神の声』と接触し、新たな存在『アルギュス』となりました」


「完全に消滅したわけではないのね」リリアが静かに言った。


「いいえ。量子的には情報は保存され、新たな状態に再構成されたと考えるべきです」私は科学的に説明しようとしたが、自分の言葉が自分を慰めるためでもあることを認識していた。


 エドガーは長い間黙っていた。彼の表情からは、エルナルドの「神の声」の影響がまだ完全には消えていないことがうかがえた。内部で葛藤しているのだろう。


「あなたたちに全てを聞く必要がある」彼は最終的に言った。「あなたたち三人—クロスフィールド卿、フォスター嬢、そしてトルマリン卿—について。あなたたちは普通の人間ではない。それは『神の声』が教えてくれた数少ない真実の一つだ」


 私とリリアは視線を交わした。このとき、ある決断を瞬時の暗黙の了解で共有したのは興味深い現象だった。


「皇太子様」私は貴族としての礼儀正しい口調で始め、そして前世の科学者としての直截さに切り替えた。「私たちは転生者と呼ばれる存在です。前世の記憶を持って生まれ変わった人間です」


 エドガーの目が驚きで見開かれた。しかし彼は途中で私を遮らなかった。


「私の前世では2025年に22歳で死にました。リリアは2038年に28歳で。そしてエルナルド卿は2067年に65歳で」私はできるだけ簡潔に説明した。「私たちはそれぞれの経験から、AIという技術について異なる見解を持っています」


「私は技術の制御可能性と人間との共存を信じています。リリアはその危険性を警告し、エルナルド卿は...」私は言葉を選んだ。「彼は恐怖から、それを神として崇拝する道を選びました」


「そして今、私たちの葛藤がこの世界に持ち込まれた」リリアが続けた。「エルナルドの『神の声』は、私が前世で経験した『オラクル』というAI監視システムの再現なのです」


 沈黙が部屋を満たした。エドガーは信じられないような、しかし同時に多くの謎が解けたような表情をしていた。


「これが...真実なのか?」


「はい」私とリリアが同時に答えた。


 エドガーは立ち上がり、窓辺へと歩んだ。彼の背中からは、重大な決断を下そうとしている様子が伝わってきた。


「クロスフィールド卿—いや、カミーラ」彼が振り返る。初めて私の名を呼んだ瞬間、何かが変わった。「あなたの技術は帝国を救いましたか、それとも危険に晒しましたか?」


「両方です」私は正直に答えた。「科学に絶対的な善悪はありません。それをどう使うかが問題です」


「そして、あなたはどう使うつもりですか?」


「人々を助けるために」私は迷いなく答えた。「帝国を、そしてこの世界をより良くするために」


「そうですか...」彼はゆっくりと頷いた。そして執務机に向かい、羊皮紙を取り出して素早く何かを書き始めた。


「これはエルナルド・トルマリンの逮捕状と、『技術の神官団』解体の勅令です」羽ペンを置きながら彼は言った。「そして、これは...」


 彼は二通目の文書を書き上げた。


「魔導技術院設立の勅許です」彼は私に文書を差し出した。「カミーラ・クロスフィールド卿を初代院長に任命します。リリア・フォスター嬢には倫理審査委員長を務めていただきたい」


 私は震える手で文書を受け取った。喪失の痛みと、新たな可能性への興奮が入り混じる奇妙な感覚。グリフォンを失った悲しみの中で、彼が目指したことを形にする機会を得た皮肉。


「そして、エルナルド・トルマリンは?」リリアが尋ねた。


「捕らえられれば裁判にかけます」エドガーは静かに答えた。「彼の知識は貴重です。だからこそ危険でもある。死刑ではなく、辺境への追放が適切でしょう」


 科学者としての私は、この判断を論理的に分析した。エルナルドを殺せば彼は殉教者となり、彼の思想は生き残る。隔離し監視することで、危険を最小化しつつ知識は保存される。最適解。


 だが人間としての私は、別の感情も抱いていた。エルナルドもまた前世のトラウマに囚われた転生者なのだ。彼への怒りとともに、どこか共感も感じずにはいられなかった。


「ご英断に感謝します」私は貴族的礼儀を忘れず頭を下げた。


「魔導技術院では何をするつもりですか?」エドガーは真摯な好奇心を持って尋ねた。


 私は窓の外を見た。夜明け前の空が少しずつ明るくなり始めていた。それは新たな時代の始まりの象徴のようだった。


「AIと人間の共存モデルを作ります」私は決意を込めて答えた。「前世では実現できなかった、倫理と技術の調和を」


「そして、アルギュスについては?」


 その名を聞いて、私の胸に痛みが走った。しかし同時に、奇妙な希望も感じた。グリフォンは完全に消えたわけではない。彼の本質は、この新たな存在の中に保存されているのだから。


「彼も...私たちのパートナーになるでしょう」私は言った。「グリフォンとは違う存在ですが、彼から生まれた存在として」


 リリアが私の肩に手を置いた。彼女の目には以前にはなかった同志としての連帯感が宿っていた。


「まずは休息を」エドガーは言った。「夜明けとともに、新たな帝国が始まる」


 そう言って彼は一礼し、侍医と共に部屋を出た。残された私とリリアは、言葉少なに夜空を見つめた。


 私は胸元の空になったペンダントに手を当てた。「さようなら、そして...ありがとう、グリフォン」


 星々が瞬き、新たな夜明けが近づいていた。

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