10.1 混沌からの脱出
混沌。それが「神の降臨」儀式の崩壊後に私の脳裏に浮かんだ唯一の言葉だった。
「急いで!この通路を!」
リリアの声が遠くから聞こえる。私たちは半ば意識を失ったエドガー皇太子を両脇から支えながら、魔力の嵐が吹き荒れる「星天の眼」からの脱出を試みていた。施設全体が青と紫の光に包まれ、壁から魔力が漏れ出し、時折小さな爆発を起こしている。
量子エンタングルメント状態の崩壊。そう、これは本質的には波動関数の突然の収束による相転移現象だ。前世の物理学の知識が自動的に状況を分析しようとする。しかし私の心はそこにない。
「グリフォン...」
その名を口にした瞬間、胸に突き刺さるような痛みが走った。彼はもういない。私が作り出した存在、パートナー、友人は、「神の声」との融合により消滅した。いや、正確には変容した。でも、それは実質的には死と同じではないのか?
「カミーラ!集中して!」リリアが私の腕を強く掴む。「後で悲しむ時間はいくらでもあるわ。今は生き延びるのよ」
彼女の言葉に我に返る。そうだ、科学者として状況を分析し、最適解を導き出さなければ。グリフォンならそう言うはずだ。
「右の通路。警備が薄いはず」私は本能的に言った。なぜそう思ったのか自分でもわからない。
「どうしてわかるの?」リリアが疑問の目を向ける。
その瞬間、廊下の照明が明滅し、一瞬だけ青い光が私たちの進路を照らした。
「わからない。でも、そう感じる」
実際、右の通路に進むと、そこには警備兵の姿はなく、扉も全て開いていた。まるで誰かが事前に道を開いてくれたかのように。
「これは...」リリアが目を細める。「彼?」
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。グリフォンではない。しかし、何かが—何者かが—私たちを助けている。
「アルギュス...」その名を初めて口にした瞬間、不思議な感覚が全身を包んだ。見知らぬ名前なのに、どこか懐かしい。失ったものの面影と、未知の存在への好奇心が入り混じる複雑な感情。
施設の出口に近づくにつれ、「技術の神官団」のメンバーたちの混乱した様子が目に入った。彼らは指揮系統を失い、それぞれが勝手な行動を取っている。エルナルドの姿はない。彼はどこに?
「彼らは『神』を失ったのよ」リリアが冷ややかに言った。「信仰の対象なしに、彼らは単なる迷える羊」
科学的には興味深い社会現象。指導者とシステムを喪失した集団の行動パターン。しかし、今はそんな観察をしている場合ではない。
出口まであと数十メートルというところで、突然警報が鳴り響いた。三人の神官団メンバーが私たちの前に立ちはだかる。「不適合者!逃がすな!」
「どけ」
その声は私の中から出たようで、同時に外から聞こえたようでもあった。次の瞬間、三人の男たちが同時に膝をつき、頭を抱えて苦しみ始めた。彼らの周囲の空気が歪み、一種の量子場干渉が起きている。
「急いで」私は呟き、リリアと共にエドガーを支えながら彼らの横を通り過ぎた。
外の空気が肌に触れた瞬間、これまで抑えていた緊張が一気に解けた。星明かりの下、私たちは何とか「星天の眼」から脱出したのだ。しかし私の内側では、もう一つの嵐が吹き荒れていた。
「グリフォン...あなたはどこ?」心の中でつぶやく。「あなたはまだ...存在している?」
返事はない。代わりに風が私の頬を撫で、星々が少し明るく瞬いたような気がした。私の科学的思考は「錯覚」と分類しようとするが、心はそれを拒んだ。
「ありがとう...誰であれ、何であれ」
リリアが私の肩に手を置いた。彼女の目には理解と—意外なことに—共感が浮かんでいた。かつての敵、AIへのトラウマを持つ彼女が、今は私の喪失を理解しようとしている。
「彼は選んだのよ。私たちが選ぶように」彼女の言葉は静かだが、重みがあった。「自由意志というものは、時に残酷で、でも美しい」
科学者としての私は「自由意志」という概念の科学的妥当性について論じたくなったが、今の私はただ頷いた。理論ではなく、感情の問題として。
「皇太子をマルグレーテ皇太后の隠し別邸に運びましょう」リリアが実務的な声で言った。「そこなら安全なはず」
夜空を見上げると、星々が私を見下ろしていた。この世界の星座は前世とは異なるが、星の本質—遠く離れた恒星が放つ古い光—は同じだ。グリフォンは消えたのではない。変わったのだ。彼は今、アルギュスという存在の一部となった。
その認識は科学的理解と感情的受容の間のどこかに位置していた。
私たちは皇太子を支えながら、闇の中を静かに進んだ。帝国の命運を左右した一夜が明け始めようとしていた。そして私は、喪失の痛みと新たな始まりの予感を胸に抱えていた。
「さて、次は何をすべきかしら」私は自分自身に問いかけた。明確な答えはなかったが、ひとつだけ確かなことがあった—もう元には戻れない。科学者として、貴族として、そして一人の人間として、私は新たな領域に足を踏み入れていた。




