第8章 施療
昼すぎ三つの鐘のころ、俺は谷の東の外れの天幕まで歩いた。
靴は履いていた。敷物を下りるとき、揃えて置いた靴にもう一度足を入れて、紐を締めた。広場の土の上を、人間の靴で歩く者は、俺一人だった。
天幕は、白い布を竹の骨に張っただけのものだった。入口の布が巻き上げてあって、中で湯が沸いていた。薬草を煮る匂いがした。苦い匂いと、少しだけ甘い匂い。
天幕の前に、谷の者が並んでいた。腕を布で吊った土竜人、咳をしている灰狼の年寄り、尻尾の先を噛まれた蜥蜴人の子。並んでいる者は、皆、静かだった。
列の最後に、灰狼の年寄りが一人いた。咳をするたびに、首をすくめて、隣の土竜人に詫びるように頭を下げた。土竜人は目が弱いので、詫びられていることに気づいていない。気づいていないまま、年寄りの背中を、掌で軽く叩いてやっていた。
叩かれるたびに、年寄りの咳は少しだけ止まった。止まると、また頭を下げた。土竜人は、また背中を叩いた。列は、少しも進まなかった。進まないことを、誰も気にしていなかった。
天幕の中に、白い手袋が見えた。
*
アガタだった。灯火教会の修道女で、月に一度、組合へ施療に来る。祭りの日には、谷にも来るらしい。俺は知らなかった。知る理由がなかった。
アガタは、土竜人の腕の布を解いていた。手袋のまま、指先で傷の縁をなぞる。それから顔を上げて、天幕の入口に立つ俺を見た。
見て、少しだけ目を細めた。
「下りてこられたのですね」とアガタは言った。
「呼ばれましたので」と俺は言った。
アガタは、それ以上は何も言わなかった。土竜人の腕に目を戻して、新しい布を巻きはじめた。修道女は、訊かないことにかけては、亜人より上手だ。
布を巻く手つきは速かった。最後に結び目を一つ作る。結び目の端を、内側へ折りこむ。アガタの結び方だ。ほどけにくくて、肌に当たらない。
*
「マスター!」
天幕の奥から、大きな声がした。
背の高い修道女が、薬箱を抱えて立ち上がった。頭が天幕の天井に当たって、竹の骨がぎしりと鳴った。
ブリギッテだ。アガタの教え子で、組合にも籍を置いている。北の古砦へ行った一行の一人で、戻ってきてから、ときどき店に顔を出す。よくしゃべる。
「マスターも、祭りに来られたんですね。わたし、知りませんでした。言ってくだされば、わたし、先生と一緒に上の坂でお待ちしたのに。あ、でも、坂の上で待っていたら、施療の支度が遅れたかもしれません。待たなくてよかったのかもしれません」
「お手伝いですか」と俺は言った。
「はい。毎年、先生がお一人で来ていらしたので、今年はわたしもと思って」
ブリギッテの足元に、チィが座っていた。右の足の指に、布を巻いてもらっている途中だった。
「踊りの稽古で、石にぶつけたそうです」とブリギッテは言った。「痛かった?」
「痛くない」とチィは言った。
亜人の子は嘘がつけない。痛くないのだろう。ブリギッテはそれでも、布をもう一巻きした。
*
「マスターは、どこか痛いところはありませんか」
ブリギッテが、真顔で俺を見ていた。
「膝が、少し」と俺は言った。嘘ではない。立ち仕事の年寄りは、たいてい膝が痛い。
「どちらの膝ですか。右ですか、左ですか。いつからですか。朝と夜と、どちらが痛みますか。階段は、上りと下りと、どちらが」
ブリギッテは薬箱を開けて、もう膏薬の壺を出していた。
「ブリギッテ」とアガタが言った。土竜人の腕から目を離さずに。
「はい、先生」
「その方の膝は、お店を十年続けた膝です。膏薬では治りません」
ブリギッテは膏薬の壺を持ったまま、少し考えた。
「では、何で治るんでしょう」
「休むことです」とアガタは言った。「今日のように」
ブリギッテは、なるほど、という顔をして、壺を薬箱に戻した。チィが、布を巻かれた足の指を動かして、ブリギッテの膝を蹴った。
*
天幕の布越しに、日の色が変わっていった。
白い布の向こうで、日が少し傾いたのだろう。天幕の中が、黄色っぽくなった。薬草の湯が煮詰まって、匂いが濃くなった。アガタが水を足した。
並んでいた谷の者が、一人ずつ減っていった。
天幕の外に、蜥蜴人の女たちが三人並んでいた。施療の列ではない。誰かを待っている顔だった。三人とも、日向のほうへ尻尾を伸ばしている。いちばん小柄な一人が、天幕の中を覗いて、俺を見つけて、それから、広場の西のほうを指さした。
「兄さんが、あっちの日なたにいます」と、その蜥蜴人の女は言った。「お客人を、呼んでこいって」
兄さん、が誰のことかは、すぐに分かった。蜥蜴人で、谷に兄さんと呼ばれる年寄りといえば、今日の広場には一人しかいない。
「ザザさんが」と俺は言った。
「呼んでこいとは、言ってないかもしれません」と、別の一人が言った。「呼ばれたら来るだろう、と言っただけです」
「同じことよ」と、いちばん小柄な女が言った。
アガタが、結び目を一つ作り終えた。顔は上げなかった。
俺は天幕を出た。チィが、包帯の足でついてきた。




