第7章 裏口の椀
文月十五日の昼下がり、ヴェイは家の戸口に腰を下ろして、広場の敷物を見ていた。
敷物の端に、人間の背中が一つあった。
背中は、まっすぐだった。人間にしては、座り方がうまい。長く座るときに、背を丸めない座り方だ。その手前、敷物の縁に、人間の靴が一足、揃えて置いてあった。
ヴェイは、靴の匂いを知っている。
十年あまり、毎晩のように嗅いできた匂いだ。裏口の段の、湿った石の匂い。古い麦酒と、灯の油と、砥石の油。それから、靴の革。人間の靴は、どれも同じ匂いがすると、谷の若い者は言う。違う。一足ずつ、違う。
イスが、また杓子を持って敷物のほうへ歩いていった。三杯目だ。ヴェイは、それを見ていた。
*
裏口のスープは、去年の秋まで、ルルが配っていた。
鍋を持って裏口の閂を外すのは、ルルの仕事だった。白い耳は、閂が鳴る前から、もう裏口のほうへ向いていた。ヴェイが中庭に入ってくる足音を、ルルはいつも、ヴェイより先に聞いていた。
ルルは、豆を数えなかった。数えなかったが、下の子の椀にだけ、いつも一さじ多く入れた。チィはまだ五つで、兄の椀を覗いては「お兄ちゃんのほうが多い」と言った。ルルは、そのたびに笑って、もう一さじ入れた。
ハクは八つで、ルルの言い方を真似た。
「あら?」とハクは言った。首を傾けて、ルルと同じ高さの声で。「お兄ちゃんに、もっと入れてほしいの?」
裏口の段にいたシグが、手を伸ばして、ハクの耳の先を指でつついた。ハクは耳を伏せて、黙った。ルルが笑った。シグは笑わなかった。笑わない顔のまま、目だけが少し細くなっていた。
シグも、ヴェイと同じように、下町で荷を運んで暮らしていた。左の耳の先が欠けていた。子どものころ、何かに噛まれたのだと、本人は言っていた。何に噛まれたのかは、言わなかった。訊かれなかったからだ。
シグは、裏口の段に座って、ルルが椀を配るのを黙って見ていた。毎晩、見ていた。
*
ある晩、ルルが手首の白い布のほつれを、小さな刃で切った。
カフスと呼ぶのだと、ルルは言っていた。店の制服の、手首に巻く白い布だ。ほつれた端を切って、指先ほどの切れ端を、ルルはシグの手のひらに載せた。
シグは、それを懐にしまった。何も言わなかった。
ヴェイは、それを一度だけ見た。見て、見なかったことにした。見なかったことにするのは、灰狼には難しい。匂いは、見なかったことにできない。その晩から、シグの懐からは、ルルの手首と同じ匂いがした。
秋の裏口の段は、夜になると冷えた。石の冷たさが、尻の下から毛の中へ上がってくる。豆の湯気だけが、温かかった。
*
去年の霜月の、あの晩。
ヴェイとシグは、錆び釘亭の裏口の床に座らされていた。灰色が二人。人間の目には、同じ灰色が二つ。上町の館から宝石がなくなって、灰色が関わったと、誰かが言ったからだ。
夜が更けた。酒場の中で、人間たちが大声で話していた。隊が来て、建物じゅうをひっくり返していた。
ヴェイは、隣のシグの匂いを嗅いだ。
シグの指から、菫の匂いがした。
ヴェイはその夕方、六つの鐘の前から、館の裏庭で樽を運んでいた。館じゅうが、菫の匂いだった。奥様は菫しか使わない、と使用人たちが言っていた。その菫が、シグの指にあった。
シグは、館には行っていない。それは本当だ。ヴェイは知っていた。だが、館の菫が、シグの指にあった。
ヴェイは、訊かなかった。
訊けば、シグは答える。答えれば、ヴェイも知ってしまう。知ってしまえば、誰かに訊かれたとき、ヴェイも答えるしかない。
ヴェイは、止めなかった。
*
夜半を過ぎたころ、シグが、床の木目を見たまま、小声で言った。
「僕が出ても、裏口のスープは続く」
ヴェイは、シグの横顔を見た。シグは、まだ木目を見ていた。
「あの人は、そういう人だ」とシグは言った。
あの人、が誰のことか、ヴェイには分かった。カウンターの向こうで、ずっと杯を拭いていた人間だ。シグは、それ以上は言わなかった。ヴェイも、訊かなかった。
翌朝、シグは北門から出された。ヴェイの代わりに。
ヴェイは木彫りの狼を二つ抱えて、裏口に立った。カウンターの向こうの人間に、言った。
「知っていて、止めなかった」
人間は、答えなかった。
*
裏口のスープは、それから一年、続いた。
ルルがいなくなっても、鍋を持って閂を外す手が、人間の手に替わっただけだった。豆は、チィの椀にだけ、一さじ多かった。ハクは見ていて、何も言わなかった。
シグの言ったとおりだった。
ヴェイは戸口に座ったまま、広場の敷物の、人間の背中を見ていた。脱いで揃えた靴を見ていた。
知っていて、止めなかったのは、ヴェイも同じだった。
広場で、イスがまた杓子を傾けていた。人間の椀に、粥が入っていくのが見えた。




