第6章 最初の椀
粥の大鍋は、広場の日陰に据えてあった。
鍋は、人の腰ほどの高さがある。下で薪が燃えていて、上で麦と豆が煮えている。山羊の乳を入れたらしく、湯気が少し甘い匂いをしていた。ナルが長い杓子で底をかき、灰狼の女たちが二人、薪の具合を見ていた。
子どもたちが鍋の周りに集まって、椀を持って並んだ。並んで、待った。誰も杓子に手を出さない。
ナルが杓子を置いた。
灰狼の長老が、敷物の上から立ち上がった。白く濁った左の目を、日陰のほうに向けて、ゆっくり鍋の前まで歩いた。ナルが空の椀を一つ渡した。長老は自分で粥をよそった。
それから、敷物のほうへ戻ってきた。
長老は、その椀を、俺の前に置いた。
*
広場が、一度だけ静かになった。
子どもたちの声が止まり、薪の爆ぜる音だけが残った。灰狼の若いのが、耳をこちらへ向けた。蜥蜴人の娘が、持っていた椀を胸に抱え直した。
それから、また騒がしくなった。ナルが杓子を取って、子どもたちの椀に順に粥を入れはじめた。いつもの祭りの昼に、戻った。
ハクが、俺の横にしゃがんだ。
「最初の椀は」とハクは小声で言った。「谷が借りのある人に出すんだよ」
「そうですか」と俺は言った。
何の借りか、とは訊かなかった。
ハクは、訊かれるのを待つ顔をした。少し待って、それから、自分の椀をもらいに鍋のほうへ走っていった。
粥は熱かった。麦と、豆と、山羊の乳。塩は少ない。少ない塩で、ちょうどいい味に煮てあった。
*
粥のあとに、料理が出てきた。
蜥蜴人の女たちが、川魚を串に刺して焼いていた。土竜人の年寄りが、根菜を大きく切って煮たものを、鍋ごと運んできた。灰狼の家からは、平たく焼いたパン。麦の粉に、何かの木の実を砕いて混ぜてある。端が焦げていて、焦げたところがいちばんうまい、と灰狼の子が教えてくれた。
蜥蜴人の焼く川魚は、下町の水路の先の、南の川筋で獲れたものらしい。骨ごと焼いてある。蜥蜴人の子が、自分の皿の骨を一本ずつ数えていた。四本ずつ、二まとまり。八本で、一つの山にする。山が三つできたところで、母親に「食べなさい」と言われていた。
それから、羊の塩漬けと、白いやわらかいチーズが、皿に少しずつ盛られて回ってきた。
塩漬けを一切れ口に入れると、北の味がした。
羊の脂は、豚の脂より重くて、少し獣の匂いが残る。チーズは山羊の乳だ。牛の乳のチーズより、酸っぱい。北では、牛より羊と山羊を飼う。冒険者の一行が北の砦から戻ってきてから、その話は店でも何度か出た。
「北の村から、市に下りてきたものだ」と、隣の蜥蜴人の長老が言った。「年に一度、祭りの日だけ買う」
谷の者の銭で、年に一度だけ買う北の味だ。皿は小さかった。誰も二切れ目を取らなかった。
*
蜥蜴人の年寄りの一人が、粥の鍋のほうを見て言った。
「粥の麦が、去年と同じだけしかない。子は増えたのにな」
値段の話をするときの、普通の口調だった。
「施し米の袋の数は、何年も同じだ」と年寄りは続けた。「袋の数が同じなら、麦も同じだ。子の椀が増えれば、一つの椀が薄くなる」
向かいに座っていたドゥンが、根菜をかじりながら言った。
「北から倉に入る麦の荷も、毎年同じだ。俺が担ぐから知ってる」
それだけだった。年寄りは「そうか」と言い、ドゥンはまた根菜をかじった。誰も、その先を考えなかった。考える理由が、まだなかった。
俺は聞いていた。聞いて、粥をもう一さじ食べた。
広場の隅に、荷が積んであった。
塩の袋が十いくつ。鉄の釘の束が、麻縄で括ってある。袋にも束にも、三つの刻みの印が、炭で描いてあった。八日の朝、俺のカウンターに置かれた札と同じ印だ。
ドゥンが、俺の目の先を追った。
「北へ上がる荷だ」とドゥンは言った。
それ以上は言わなかった。俺も訊かなかった。
*
椀が空いた。
空いたと思ったとき、横から杓子が伸びてきて、粥がもう一杯入った。
蜥蜴人の若者だった。十九か二十くらい。背が高く、鱗の色が若い。黙って杓子を引いて、少し離れた所に立った。
「ありがとうございます」と俺は言った。
「イスです」と若者は言った。「ザザの、末の妹の息子です」
「イスさん」
「さんは、いりません」とイスは言った。丁寧な口調だった。「八つのころから、裏口に通いました。豆のスープを、いただいていました」
俺は、イスの足を見た。裏口に来ていた子らの足なら、だいたい覚えている。八つの子の足は、もうどこにもなかった。いまは、俺より大きい足だった。
二杯目を食べ終えると、イスがまた来て、三杯目を注いだ。
それから、少し考えてから言った。
「裏口では、一人二杯までの決まりでした」
「今日は、裏口ではありませんから」と俺は言った。
敷物の端で、ザザが顔を上げた。
「ここは広場だ」とザザは言った。
イスは叔父のほうを見て、それから俺を見て、真面目な顔でうなずいた。決まりの外にいることを、確かめたらしい。
三杯目の粥は、さっきより少しぬるかった。日陰が動いて、鍋の火が細くなったのだろう。それでも、うまかった。




