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第5章 敷物

昼すぎ一つの鐘が、上の街から窪地の底まで降りてきた。


鐘の音は、谷では長く残る。上町の大聖堂で鳴った音が、下町の屋根を越え、石段を転がり落ちて、窪地の底で石垣に跳ね返る。跳ね返った音が、また向かいの石垣に当たる。一打だけの鐘なら、それでも一つの音として、ゆっくり薄れていく。


広場の北寄りに、大きな敷物が一枚敷いてあった。


羊毛の古い敷物だ。もとは赤と茶の縞だったのだろうが、日と人の膝で、どちらの色も薄くなっている。その上に、低い木の台が一列に並んでいた。長椅子の代わりらしい。台の上に、谷の年寄りたちが座っていた。


灰狼の年寄り、蜥蜴人の年寄り、土竜人の年寄り。それぞれの種の長老だ。真ん中にいる灰狼の老女は、左の目が白く濁っていた。残った右の目で、広場じゅうを見ていた。


敷物の手前に、履物が並んでいた。


谷の者も、敷物の上には裸足で上がる。いや、もともと裸足の者が多いから、脱ぐ履物を持っている者は少ない。それでも何足かの古い草履と、土竜人の厚い布の足袋が、敷物の縁に揃えて置いてあった。


*


ハクが、俺の上着の裾を引いた。


「あそこ」とハクは言った。


台の列の端に、一人分の隙間があった。年寄りたちは詰めて座っていて、そこだけが空いている。空いた所には、小さな座布団が一枚置いてあった。


「あそこ、人間が座ったことないんだよ」とハクは言った。声を落としていた。大事なことを言うときの声だった。


広場の若い者たちが、こちらを見ていた。灰狼の若いのが二人、肘で互いをつついた。蜥蜴人の娘が、口を開けて、閉じた。誰も何も言わなかった。


俺は敷物の手前で立ち止まった。


数える。敷物の上に、年寄りが九人。その後ろに、手伝いの者が四人。広場に、ざっと百と少し。出口は、石段と、東の路地と、西の路地。南は壁。


数え終えた。


俺は靴紐をほどいた。


右を脱いで、左を脱いだ。二つ揃えて、敷物の縁の、草履の並びの端に置いた。足の裏に、敷物の羊毛が触れた。思っていたより、乾いていて温かかった。


敷物の縁に、蜥蜴人の子が一人、しゃがみこんでいた。俺の足を、じっと見ていた。


「いち、に、さん、し」と子は数えた。俺の右足の指だ。「……ご」


子は、自分の足の指を見た。蜥蜴人の指は、手も足も四本だ。四つずつ数えて、八で一まとまりにする。それから、もう一度俺の足を見た。


「一本、多い」と子は言った。


「人間は、五本です」と俺は言った。


「ずっと?」


「生まれてから、ずっと」


子は納得しなかった顔で、俺の左足の指も数えた。五本だった。子は、それで少し満足したらしい。両方とも多いなら、間違いではない、という顔をして、走っていった。


*


敷物の端に、ザザがいた。


朝のうちに、店より先に谷へ下りていたらしい。古い座布団の上に、日向のほうへ尻尾を伸ばして座っていた。ザザは祭りの日だけ谷へ下りる。ほかの日は、組合の厩のいちばん奥で寝る。


ザザは、俺の足を見ていた。正確には、俺の足と、揃えて置いた靴を、交互に見ていた。


「その靴は、脱げるのか」とザザは言った。


「脱げますよ」と俺は言った。「寝るときは、脱ぎます」


ザザは少し考えた。蜥蜴人の考える顔は、瞬きが遅くなる。


「知らなかった」とザザは言った。


十年、ザザは俺の靴を見てきた。店で、厩で、裏口で。俺が寝るところは、見たことがない。だから知らなかった。それだけのことだ。それだけのことを、ザザは正確に言った。


近くにいた蜥蜴人の子が、くすくす笑った。ザザは笑った子の足を見て、名を呼んだ。子は笑うのをやめて、ザザの尻尾にしがみついた。


*


俺は空いた席に座った。座布団は薄かった。


灰狼の長老が、白く濁っていないほうの目で、俺を見た。


それから、俺の名を呼んだ。


俺の名前だった。この十年、この街で誰も口にしなかった名だ。店では、みんなマスターと呼ぶ。組合の帳面にも、俺の行には線が一本引かれたはずだ。名前を呼ばれることは、もうないと思っていた。


長老は、それを当たり前のように言った。いつもの客の名を呼ぶように。


隣の蜥蜴人の長老が、同じ名で俺を呼んだ。喉の奥で少し擦れる、蜥蜴人の発音だった。その向こうの土竜人の長老も、同じ名を言った。土竜人は目が弱い。俺のほうを見ずに、俺の足のほうへ顔を向けて言った。


谷では、とっくにこの名が通っていたらしい。いつから、誰が、とは思わなかった。思っても、訊かなければ分からない。


「はい」と俺は答えた。


それしか言えなかった。言うことがなかった。


*


土竜人の長老が、敷物の上を手のひらで撫でた。


「北の羊の毛だ」と土竜人の長老は言った。俺に言ったのか、自分に言ったのかは分からない。「谷の羊ではない。谷に羊はいない」


「北の村の」


「北の羊だ」と土竜人の長老はもう一度言った。それ以上は言わなかった。


敷物の上の日陰が、少しずつ東へずれていった。俺の座っている端は、もうすぐ日向になる。年寄りたちは、誰も席を動かなかった。日が来れば、日に当たる。それでいいらしい。


広場のどこかで、鍋の蓋が鳴った。ナルの声がした。低い声で、短く、何かを言いつけていた。


子どもたちが、一斉に鍋のほうへ走っていった。


俺の靴は、敷物の縁で、草履と足袋のあいだに並んでいた。そうして並ぶと、人間の靴は、ずいぶん大きく見えた。


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