第4章 坂を下りる
文月十五日の昼の鐘が鳴り終わるころ、俺は生まれて初めて、下の谷へ下りる坂の上に立った。
背中には油の壺がある。縄で背負い子に括りつけて、肩に掛けてきた。百三十一皿分の油は、思っていたより重い。下町の石畳を歩いてくるあいだに、壺の中で油が鈍く揺れた。
坂は石段になっている。下町の端で道が切れて、そこから窪地の底へ、段が折れ曲がりながら下りていく。段の数を数えようとして、三十を過ぎたところでやめた。折れ曲がりの向こうが見えない。
谷の匂いが、下から上がってきた。
獣脂の灯の匂い。豆の煮える匂い。川魚を焼く煙。それから、羊の脂の匂い。この街ではあまり嗅がない匂いだ。
十年、この街で酒を出してきた。谷の者は毎晩、店の裏口に来る。荷を運び、厩を掃き、井戸を直す。谷の匂いなら、裏口でいくらでも嗅いできた。それでも、谷そのものの匂いは、裏口に届く匂いとは違った。
*
石段を一段下りるごとに、少し涼しくなる。そう思った。日陰になるからだ。
半分ほど下りたところで、それが間違いだと分かった。窪地の底は、風が通らない。石段の両側の石垣が、昼の日を溜めこんでいる。底へ近づくほど、暑くなった。
底の水路の水音が聞こえてきた。窪地の真ん中を、細い流れが一本通っている。流れの縁に、蜥蜴人の子が二人しゃがんで、水に尻尾を浸けていた。暑いのだろう。
最後の段を下りると、子どもたちが寄ってきた。
灰狼の子、蜥蜴人の子、土竜人の子。七人、八人。数えているうちに、まだ増えた。皆、裸足だった。灰狼の子の足の裏は、乾いた土の色をしていた。
子どもたちは、俺の顔より先に、俺の靴を見た。
人間の靴だ。革で、紐で締める。下町の石畳を歩くための靴だ。子どもたちは靴の周りにしゃがみこんで、匂いを嗅いだ。
「人間の靴だ」と、蜥蜴人の子が言った。
人ごみの中から、ハクが出てきた。祭りの日らしく、首に赤い紐を一本巻いていた。
「マスター」とハクは言った。それから、俺の足元を見た。「谷では、靴はいらないよ」
「そうですか」
俺は靴のまま、広場のほうへ歩いた。ハクは止めなかった。いらない、と言っただけで、脱げとは言っていない。
*
ハクの後ろから、チィが出てきた。チィは俺の顔を見上げて、それから周りの子どもたちを見た。
「なんで人間がいるの」とチィが言った。
「札の人だよ」とハクが言った。「長老が呼んだんだ」
チィは、それで納得した。札の人。長老が呼んだ。谷の子には、それで足りるらしい。それより、チィの鼻は、俺の背中の壺のほうへ向いていた。
「油の匂い」とチィが言った。
子どもたちが、一斉に壺の匂いを嗅ぎに寄ってきた。背伸びをする子、俺の上着の裾をつかんで登ろうとする子。俺は背負い子を下ろして、壺を両手で頭の上に持ち上げた。
そのまま、広場まで歩いた。子どもたちは、壺の下をぞろぞろついてきた。壺が揺れるたびに、下から歓声が上がった。
広場の端の日陰に、ナルがいた。ヴェイの妻だ。大きな鍋の前で、長い杓子を持っていた。俺と、頭の上の壺と、その下の子どもたちを見て、杓子を持ったまま少し笑った。
「そこに置いて」とナルは言った。低い声だった。
俺は壺を、日陰の台の上に下ろした。子どもたちは、壺の周りを三重に囲んだ。
*
広場は、窪地のいちばん底にあった。
周りを、谷の家々が段になって囲んでいる。土と石の家だ。戸口に布が下がっていて、布の色はどれも日に焼けて薄い。家と家のあいだの細い路地から、煙が何本も上がっていた。
広場の南側は、城壁だった。
灰色の石が、窪地の底から、空のほうへまっすぐ積み上がっている。この街の南の壁だ。下町からは、屋根の向こうに上の縁が見えるだけの壁だ。ここから見ると、窪地の背中が、そのまま壁になっている。石の継ぎ目に、夏草が生えていた。
部屋に入ると、人数と出口を数える。広場は部屋ではないが、癖は抜けない。
出口は、俺が下りてきた石段と、東と西に一本ずつの路地。南は壁だ。壁には出口がない。人は、数えるのをやめた。多すぎる。
壁の上に、黒いものが一つ止まっていた。
鴉人だった。羽を半分畳んで、壁の縁にしゃがんでいる。見ない顔だった。店に出入りする鴉人の伝令ではない。どこから来たのかは分からない。旅の埃が、羽の先に白くついていた。
鴉人は首を傾けて、下の広場を見ていた。子どもたちを見ていた。
「三、六、九」と鴉人は言った。声は低く、よく通った。「十二、十五……群れだ」
子どもたちは、誰も気にしなかった。壺の周りで、まだ油の匂いを嗅いでいた。
*
どこかの家の陰から、子どもたちの歌声が聞こえてきた。
稽古だ。祭りの夜に歌う歌らしい。声の高さが揃っていない。誰かが先走って、誰かが遅れる。
『名のない手が石を積んだ 三つの手が門を閉めた』
そこで歌は止まった。大人の声が何か言って、子どもたちがもう一度、最初からやり直した。
『名のない手が石を積んだ……』
俺は日陰の台の脇に立って、それを聞いていた。
靴の裏が、窪地の底の土の熱を吸っていた。裸足の子どもたちは、平気な顔で日向を駆けていった。




