第3章 外れの墓の分
十日の夕方、夕立が通り過ぎたあとで、エーリカが二階から下りてきた。
階段の音で分かる。左の足が先で、右があとから軽く追いつく。組合長は右の膝を痛めている。急ぐと、右が遅れる。今夜の音は、急いでいなかった。
夕方五つの鐘が鳴ったばかりで、店にはまだ客がいない。冒険者は日が沈んでから腹を空かせて帰ってくる。この刻の店は、俺と、拭いたばかりの卓と、窓から入ってくる雨上がりの石畳の匂いだけだ。
夕立のあとは店の中が蒸すので、裏口の戸を半分開けてあった。戸の向こうの中庭では、厩の軒から雫が落ちていた。一つ、間をおいて、また一つ。井戸のそばの水たまりに落ちるたびに、小さな輪ができて、すぐ消えた。
「白湯をいただけますか」とエーリカは言った。
「どうぞ」
彼女はカウンターの端に座った。右の脚を少し前に出して、膝を伸ばす座り方だ。
袖に、灰色の埃がついていた。古い紙の箱を開けたときにつく埃だ。乾いた木の皮と、黴の匂いが、ほんの少しした。
エーリカの目が、黒板の下の棚へ動いた。
そこに、ヴェイの置いていった札が立てかけてある。三つの刻みの、薄い木の札だ。字はない。字のない札を、エーリカはしばらく見ていた。見て、何も言わなかった。
彼女の目は、狩人の目だと聞いたことがある。足跡や、手の跡や、筆の跡を見て覚える。爪の跡も、たぶん覚える。
俺は、白湯を沸かす鍋を火に掛けた。湯が沸くまでのあいだ、二人とも黙っていた。黙っていても、気まずくはなかった。組合長は、黙るのが下手ではない。
*
「書記局の古い箱を、少し読み返していました」とエーリカは言った。
訊いてはいない。彼女のほうから言った。組合長は誓約の主で、嘘をつける。つけるが、下手だ。だから、つかなくて済むことは先に言ってしまう。俺はそう見ている。
何の記録か、とは言わなかった。俺も訊かなかった。
白湯を出す。エーリカは両手で杯を包んで、湯気を顎に当てた。夕立のあとは、少し冷える。
「組合長」と俺は言った。「十五日に、店を一日閉めてもよろしいですか」
エーリカは杯から顔を上げた。
「谷の祭りですね」
「ええ」
「呼ばれたのですか」
「呼ばれました」
エーリカは少しのあいだ、俺の顔を見た。見て、何かを量ったのかどうかは分からない。彼女は、見たものを顔に出さない。
「どうぞ」と彼女は言った。「一日くらい、この店が閉まっていても、組合は潰れません。たぶん」
「たぶん、ですか」
「ダリオさんが、表の扉を叩き続けるかもしれません」
「叩かせておきます」
*
エーリカは懐から帳面を出した。閉店の許しの書付を書くつもりらしい。筆を取って、日付を書きかけた。
「口で十分です」と俺は言った。
「記録は残しておいたほうがいいので」
「誰が読むんです」
「誰も読まないかもしれません。でも、読まれなかった記録が、あとで役に立つこともあります」
エーリカはそう言って、一行書いた。『文月十五日 錆び釘亭 休み 組合長許す』。字は細くて、真っすぐだった。終わりは跳ねなかった。
書き終えると、彼女は帳面を閉じた。それから、懐の別の所に手を入れた。
銅貨が一枚、カウンターの上に置かれた。
「下りるなら、これを」とエーリカは言った。「外れの墓の分に」
俺は銅貨を見た。どこにでもある銅貨だった。縁も欠けていない。
「承知しました」と俺は言った。
それだけだった。エーリカは、何の分かを言わなかった。俺も、訊かなかった。
*
エーリカは白湯を飲み終えて、杯をカウンターに戻した。
「谷の祭りには」と彼女は言った。「子どものころ、一度だけ行きかけたことがあります」
「行きかけた」
「坂の上まで。手習い所の帰りに、灯が見えたので。坂の上で、怖くなって帰りました。下りていいのかどうか、分からなかったので」
「下りてもよかったのでは」
「呼ばれていませんでしたから」
エーリカは立ち上がった。右の膝をかばって、カウンターに一度手をついた。
「よい祭りを」と彼女は言った。
階段を上がっていく音を、俺は聞いていた。左が先で、右があとから。途中で一度だけ止まって、また上がっていった。
*
俺は銅貨を手に取った。
銅貨箱の銅貨とは、別にしておいたほうがいい。混ぜれば、どれがどれだか分からなくなる。銅貨に名前はない。
棚の奥から小さな革の袋を出して、一枚だけ入れた。袋の口を縛って、前掛けのかくしにしまった。
裏口の戸の向こうが、少しずつ暗くなっていった。夕立のあとの空は、低いところから晴れていく。中庭の水たまりに、一番星が映っていた。
軒の雫は、まだ落ちていた。さっきより、間が長くなっていた。
六つの鐘が鳴った。表の通りで、誰かが戸を開ける音がした。最初の客だ。足音が二つ。片方は大きくて、扉の前で一度止まる。ダリオだ。止まるのは、髭を気にして、窓に映る自分を見るからだ。
俺は前掛けを締め直した。かくしの中で、革の袋が一枚分だけ重かった。




