第2章 南からの手紙
八日の夜は、蒸した。
九つの鐘が鳴るころには、表の扉を開け放しても、風はほとんど入ってこなかった。石畳が昼の熱を溜めこんでいて、夜になってから少しずつ吐き出している。客は皆、襟をゆるめていた。麦酒の売れ行きがいい。蒸留酒は売れない。夏の酒場は、そういうものだ。
表の通りのどこかで、笛が鳴っていた。下の谷の祭りの稽古だろう。同じ節を、同じところで何度もつかえている。つかえるたびに、少し戻ってやり直す。
ダリオが、カウンターの真ん中に陣取っていた。
「マスター」とダリオは言った。「見てくれ。手紙だ」
声が大きかった。俺に見せるより、店じゅうに聞かせたい声だった。
*
ダリオは懐から、折りたたんだ紙を出した。勢いよく広げて、俺の前に突き出した。
紙は逆さまだった。
隣の席のリナが、無言で紙を受け取って、くるりと回して、ダリオの手に戻した。
「……字は読めるぜ」とダリオは言った。
「知ってる」とリナは言った。「速く広げすぎたんでしょ」
ダリオは咳払いをして、今度は正しい向きで読み上げた。南の川港ネーベルの、川舟の組からの手紙だった。秋の荷の護衛を頼みたい。川を下る舟に、腕の立つ者を一人。ついては、灰色山脈の古砦から戻った一行の剣士殿に。
「名指しだぜ」とダリオは言った。髭の右の短いほうを、指でつまんでいた。左の先は、まだ少し焦げたままだ。
「前金は」とリナが言った。
「まだ書いてねえ」
「なら、名指しでも安いかもしれないでしょ」
「名指しは高いんだよ。普通は」
「普通は、ね」
二人のやりとりを聞きながら、俺は杯を拭いた。名指しで呼ばれるのは、悪くない気分のようだった。誰にとっても、そうだろう。
*
カウンターの端に、見ない顔が一人いた。
身なりのいい男だ。袖の縫い目が細かい。南門の外で商いをしている交易商で、ネーベルとこの街を行き来しているという。今夜は荷の勘定を済ませて、一杯だけ飲みに寄ったらしい。
「ネーベルか」と交易商は言った。ダリオの手紙の話が聞こえたのだろう。「あそこの川港は、いまは賑やかですよ。舟が増えた。荷も増えた」
「だろ」とダリオは言った。自分の手柄のような顔をした。
「そういえば」と交易商は言った。杯を回しながら、ついでのように。「先月、ネーベルの川港で、こちらの元の組合長らしい男を見ましたよ。追放された人でしょう。若い娘を一人連れて、代書屋の看板の下にいました」
店の中が、少しだけ静かになった。
それから、元に戻った。
「へえ」とダリオは言った。それだけだった。リナは手紙の前金の欄を、まだ見ていた。誰も、その先を訊かなかった。
南門から出された者のことを、この街の人間はあまり話さない。出ていった者は、もうこの街の勘定に入っていない。
俺は交易商の杯に、麦酒を注ぎ足した。
*
話は道のことに移った。
「南の川筋はいい」と交易商は言った。「舟は速いし、賊は少ない。北街道より、ずっとましです」
「北はな」と、奥の卓の客が言った。荷車引きの男で、もう三杯目だ。「北街道は物騒だ。十年ばかり前には、護衛が三人も殺されたろう。荷も金も、きれいに消えた」
「そんなこともあったな」と、もう一人が言った。
「あったさ。あれから、北の仕事は割に合わねえって、みんな言うようになった」
ダリオは、北から戻ってきたばかりの顔で、何か言いかけた。それから、麦酒を一口飲んで、やめた。北の話を店でするのは、まだ少し早いと思ったのかもしれない。
俺は、杯を拭いた。
拭き終えた杯を棚に戻して、次の杯を取った。それも拭いた。
奥の卓の話は、すぐに別のことに移った。暑さの話と、麦の値の話と、上町のどこかの屋敷の娘の縁談の話。誰も、北街道のことを二度は言わなかった。
*
十の鐘が鳴ってしばらくして、裏口の閂の向こうで、小さな咳が二つした。
鍋を持って出ると、ハクとチィが中庭に立っていた。夏なので、上着はかぶっていない。二人とも、毛並みが少し汗で湿っていた。
「こんばんは」とハクが言った。低い声だった。それから、背筋を伸ばして、もう一つ言った。
「今朝は、灯の油を、まことにありがとうございました」
どこで覚えたのか分からない言い方だった。たぶん、長老の誰かの真似だ。
「どういたしまして」と俺は言った。
チィが兄の袖を引いた。
「お兄ちゃん、まことにって、なに」
「本当に、ってこと」
「じゃあ、本当にって言えばいいのに」
ハクは答えなかった。答えると、兄の顔が保てない。
今夜の鍋は、豆と、細かく切った赤蕪だった。二つの椀によそう。チィの椀に、豆を一さじ多く入れた。ハクは見ていた。見て、何も言わなかった。
二人は裏口の段に並んで座って、椀を抱えた。表の通りの笛が、また同じところでつかえていた。
「あの笛、つかえるね」とチィが言った。
「祭りまでには、直るよ」とハクが言った。
二人は椀を返して、谷へ帰っていった。中庭の井戸のそばで、チィが一度だけ振り返った。手を振ったのかどうかは、暗くて分からなかった。
閂を戻すと、表の扉から、蒸した夜の空気が流れこんできた。笛は、もう聞こえなかった。
俺は空の椀を二つ洗って、棚に伏せた。




