第1章 銅貨箱
本作はシリーズものです。第一作「夜啼きの涙」からお読みいただけますとよりいっそうお楽しみいただけます。
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文月八日の朝、開店の前に、俺は黒板の昨夜の字を拭いていた。
昨夜の黒板には、麦酒と蒸留酒と、煮込みの値が書いてあった。煮込みの欄には、誰かが指で丸を描いていた。ダリオだろう。売り切れたあとに、まだ食いたいと言いに来た跡だ。
濡れ布巾で丸を消す。字を消す。黒板が黒に戻る。朝の店は、昨夜の麦酒の匂いと、拭いた卓の湿った匂いがする。表の窓を開けると、朝の通りの音が入ってきた。裏の中庭からは、裏口の戸越しに、井戸の釣瓶の縄が鳴るのが聞こえた。ドゥンが水を汲んでいる。
裏口の閂が、外から軽く叩かれた。
叩き方で分かる。二つ叩いて、一つ間をおいて、もう一つ。通いのヴェイだ。夜番のない朝は、荷運びの仕事の前に、厩の藁を替えに来る。
閂を外すと、ヴェイが立っていた。首の下の白い毛の房が、朝の光で少し黄色く見えた。
「おはようございます」と俺は言った。
「おはよう、マスター」
ヴェイは、いつもなら厩のほうへ行く。今朝は行かなかった。裏口から酒場へ入ってきて、カウンターの前に立った。灰狼は、用のない場所に足を入れない。何か用がある。
*
ヴェイは懐から、手のひらほどの薄い木の札を出して、カウンターに置いた。
字はなかった。爪で刻んだような筋が、三つ並んでいるだけだ。一つは太くて深い。一つは細くて、四本ずつ並んでいる。一つは丸く、浅く、土をかいたような跡だった。
「谷の長老会の札だ」とヴェイは言った。「今年の祭りに、人間を一人呼ぶ。マスターだ」
俺は札を見た。それから、ヴェイを見た。
この街で十年、酒を出してきた。下の谷へ下りたことは、一度もない。人間は、用がなければ谷へ下りない。俺にも、用はなかった。
「長老会が決めた。僕が諮った」とヴェイは言った。
訊けば、ヴェイは答える。灰狼は偽りを言えない。訊かれたことには、答えるしかない。なぜ俺なのか。なぜ今年なのか。
俺は訊かなかった。
「十五日ですね」と俺は言った。
「十五日だ。満月の日」
「店を閉めるのに、組合長の許しが要ります。いただけたら、下ります」
ヴェイは一度うなずいた。それで用は済んだらしい。耳が少しだけ後ろに倒れて、また立った。
*
ヴェイの後ろから、小さな足音が二つ、裏口の段を上がってきた。
ハクとチィだ。ヴェイのところの二人で、上のハクは九つ、下のチィは六つになった。二人で一つの木の箱を抱えている。箱の蓋には、銅貨を入れる細い隙間が開いていた。
皐月の初め、二人がこの箱を持って北門の前に立っていたのを、俺は店の者から聞いている。冒険者の一行が北へ出た朝だ。ダリオが一枚入れたと、本人が自慢していた。
二人は箱を、カウンターの上に持ち上げようとした。カウンターは二人の背より高い。ヴェイが片手で箱を受け取って、上に置いた。箱は重い音を立てた。
「マスター」とハクが言った。低い声を作っていた。大人の用件のときの声だ。「灯の油を、この銅貨の分だけください」
「灯の油、ですか」
「祭りのお灯明の油。父さんが、マスターから買えって」
ヴェイは何も言わなかった。言ったのだろう。
*
俺は箱の蓋を開けて、銅貨をカウンターの上に出した。
数える。十ずつ、塔にしていく。斥候だったころから、数えるのは癖だ。部屋に入れば人数と出口を、卓に金が出れば枚数を数える。
チィが手伝おうとした。小さな指で一枚ずつ取って、塔の横に並べる。
「いち、に、さん……」
十二まで来て、チィは数えるのをやめた。
「たくさん」とチィは言った。
「たくさんですね」と俺は言った。
十の塔が十三と、ばらが一枚。
「百三十一枚です」
「長老が言った数」とハクが言った。胸を張っていた。「百三十一。去年より、一枚多い」
なぜ一枚多いのか、と俺は訊かなかった。ハクは答えたがっている顔をしていた。訊かなければ、言わない。谷の子は、そう育てられる。
ダリオの一枚も、この中のどれかだ。どれかは分からない。銅貨に名前はない。
*
灯の油は、店にもある。地下の酒蔵の脇に壺を置いて、店の灯に使っている。芯にする灯心草も、束で買ってある。
「皿一つ分の油と芯一本で、銅貨一枚にしましょう」と俺は言った。仕入れの値だ。儲けは乗せない。
「百三十一皿分」とハクが言った。
「百三十一皿分です」
俺は地下から空の壺を一つ上げて、油を量って入れた。ひしゃく一杯で皿が四つ。三十二杯と、もう少し。灯心草の束から芯を百三十一本数えて、紐で括った。
壺は、子どもには重い。チィが持ち上げようとして、一寸も上がらなかった。ハクが持ち上げようとして、二寸上がって、下ろした。
「十五日に、私が持って下ります」と俺は言った。「子どもには重いですから」
ハクは、少しだけ悔しそうな顔をした。それから、それが理にかなっていると分かって、うなずいた。大人ぶる子は、理屈には弱い。
ヴェイは、もう一度だけうなずいた。
三人は裏口から出ていった。空の箱を、今度はチィが一人で抱えていた。軽くなった箱は、チィの尻尾と同じ調子で揺れた。
カウンターの上に、札が一枚残っていた。三つの刻みが、朝の光で浅い影をつくっていた。
俺は札を、黒板の下の棚に立てかけた。見られて困るものではない。だが、誰かに見せるものでもない。
壺の口を布で縛った。百三十一皿分の油の匂いがした。店の灯と、同じ匂いだった。




