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第12章 包帯

十五日の夜、歌が終わったあとで、ヴェイは広場の縁に立って、長老が城壁に当てた手を見ていた。


それから、敷物の端の人間の横顔を見た。


私も、ひと夏、積んだことがあります。


人間はそう言った。長老は、知っている、と答えた。谷の年寄りは、皆、知っている。ヴェイも知っている。


十一年前の皐月と水無月のことを、ヴェイは思い出していた。


*


十一年前、ヴェイは十九だった。


組合の厩で、荷を運んでいた。荷車の荷を下ろし、厩の藁を替え、言われれば井戸の水を汲んだ。首の下の白い毛の房は、そのころからあった。灰狼の中では、それで覚えてもらえた。人間には、覚えてもらえなかった。人間は、灰色の首の下など見ない。


皐月の終わりの、ある朝。


まだ暗いうちに、ヴェイは組合の中庭で、隊商の荷車に荷を積んだ。上町の商家が、北の村の羊毛を買いに出す荷だという。重い小箱が一つあって、それだけは隊商の頭が自分で積んだ。


組合の斥候が、荷車の脇に立っていた。人間の男だ。ヴェイは名を知らなかった。顔も、よくは見ていない。匂いで覚えた。革と、砥石の油の匂い。


斥候は、荷を積むヴェイの手元を見ていた。荷の縄の掛け方を見ていたのだろう。ヴェイの腕には、そのとき、まだ何も巻いていなかった。


朝六つの鐘で、隊商は北門を出ていった。斥候は、その先を歩いていった。


*


その朝、ヴェイは別の荷車の縁で、右の前腕を擦りむいた。


血が出た。舐めておけば治る程度の傷だった。だがその日は、月に一度、組合に施療の修道女が来る日だった。厩の誰かが、行ってこいと言った。


ヴェイは、施療の列に並んだ。


白い手袋の修道女が、傷を洗って、布を巻いた。最後に結び目を一つ作って、端を内側へ折りこんだ。


「名は」と修道女は訊いた。


「ヴェイ」


修道女は、それを覚えたようだった。人間なのに、亜人の名を訊いて、覚える人だった。


昼の鐘の少し前のことだ。それから昼すぎまで、ヴェイは厩で荷を運んでいた。


*


その晩、隊商の頭と斥候が、北街道から戻ってきた。


荷は、なかった。護衛の三人も、いなかった。


厩の前を、斥候が通った。ヴェイは藁を替えていた。斥候は足を止めずに、ヴェイの右腕を一度だけ見た。巻かれた布を見た。結び目を見た。それから、酒場のほうへ歩いていった。


ヴェイは、それだけ覚えている。


*


水無月に入って、隊の男たちが谷へ下りてきた。


あの日、腕に包帯を巻いていた灰色を、裁きの席へ。


谷の長老は、それを聞いて、ヴェイを呼んだ。谷の者は、偽りを言えない。あの日、腕に布を巻いていた灰狼は誰か、と訊かれれば、答えるしかない。腕に布を巻いていたのは、ヴェイだけだった。


*


参事会館の一階に、裁き方の間がある。細長い部屋で、高い窓が一つあった。雨のあとで、窓の光は白く、薄かった。


正面の高い席に、裁き役が座っていた。白髪の混じりはじめた男で、乾いた紙のような手をしていた。


脇の低い机に、書記がいた。若い女だった。部屋の誰かが口を開くたびに、目がそちらへ動いた。よく動く目だった。


訴える側の長椅子に、隊商の頭。汗の匂いと、黒猫の尾の賭場の煙草の匂いがした。その隣に、斥候。砥石の油の匂いがした。


ヴェイは、呼ばれた側の長椅子に座らされた。緊張して、尻尾を自分の足の下に敷いていた。


戸口の近くの椅子に、蜥蜴人の年寄りが座っていた。組合の掃除番のザザだ。


「その足は」とザザが言った。ヴェイの足元を見て。「踏んでいる」


ヴェイは、自分の尻尾を踏んでいることに気づいた。足を上げた。誰も笑わなかった。


*


隊商の頭が、申し立てた。


北街道の三つ目の一里塚の先で、昼に、荷が消えた。灰色が荷を担いで、北へ逃げた。


裁き役が、斥候のほうを向いた。


「見たか」


斥候は、立ち上がった。


「灰色が荷を担いで、北へ走りました」と斥候は言った。声は低く、よく通った。「右の腕に、白い布を巻いた灰色でした」


ヴェイは、自分の右腕を見た。布は、もうない。傷は治っていた。


書記の若い女が、筆を止めた。止めて、斥候の顔を見ていた。斥候は、ヴェイのほうを一度も見なかった。


*


戸口の近くの椅子から、白い手袋の修道女が立ち上がった。


「見たことだけを申します」と修道女は言った。「その日の朝、組合の施療で、灰狼の若い方の右の前腕に、布を巻きました。名はヴェイと伺いました。昼の鐘の少し前です。布は、わたくしの結び方で巻きました」


アガタ、と修道女は名乗った。


裁き役が、ザザに訊いた。


「その灰色は、その日、どこにいたか」


「その足は」とザザは言った。「昼すぎまで、厩で荷を運んでいた」


裁き役は、しばらく窓の白い光を見ていた。それから、言った。


「人の申すことだけで、亜人の種は定めない。偽りを言えぬ者が、見たことで定める」


古い判例の文言だった。ヴェイは知らなかった。あとで、谷の年寄りに教わった。


昼の鐘の少し前に、組合で布を巻かれた腕は、昼に北街道の三つ目の一里塚の先にはいられない。


*


裁きは、その日のうちに出た。


隊商の頭は、南の門から出された。


斥候は、城壁の普請に、半年。


灰色は、谷へ帰された。


ヴェイは裁き方の間を出るとき、一度だけ振り返った。斥候は、まだ長椅子のそばに立っていた。こちらを見ていなかった。高い窓の光を見ていた。


灰色、とだけ言えばよかったはずだ。


ヴェイは、何年もあとになって、それに気づいた。灰色が荷を担いで逃げた。それだけなら、谷が誰かを選んで北へ出して、それで済んだ。人間には、灰色の見分けがつかない。誰が出されても、人間は困らない。


斥候は、腕の布を言った。布は、人間の目にも見える。誰が巻いたかを、偽りを言えない人が知っている。言ったから、ヴェイの居場所が確かめられた。確かめられたから、隊商の頭の言ったことが偽りになった。


あの晩、厩の前で、斥候はヴェイの腕を一度だけ見た。


なぜ、そう言ったのかは、知らない。訊いていない。


*


その年の冬、組合の錆び釘亭に、新しい酒場番が来た。


ヴェイは、裏口の段で、その人間の匂いを嗅いだ。すぐに分かった。砥石の油の匂いが、まだ少しした。代わりに、城壁の石の粉の匂いが、指の爪の間に残っていた。


酒場番は、裏口に鍋を持って出てきた。谷の子らに、豆のスープをよそった。ヴェイには、目もくれなかった。


ヴェイも、何も言わなかった。


*


広場で、灯の支度の声がしていた。


ナルが、壺の油を皿に注いでいた。ハクが、芯を一本ずつ立てていた。チィが、立った芯を指でつついて、ハクに怒られていた。


ヴェイは、右の前腕を、手で一度だけ撫でた。


毛の下に、薄い傷の跡が、まだ一本残っている。十一年たっても、指でなぞれば分かった。


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