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【短編】トントントン、と音がして  作者: 弐刀堕楽


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4/5

4.訳ありの夫婦

「さあ入れ。理由(わけ)を知りたいだろ?」


 ただし靴下は脱いでから上がること、と老人はつけ加えた。

 たしかに、さきほどの廃屋で、オレの靴下はホコリと土にまみれている。オレは靴下を脱ぐと、自身の靴の履き口にそれを突っこんで、裸足でかれの家に上がらせてもらった。


 老人の部屋は、単身者向けのごく一般的な1Kって感じの造りだった。部屋の中は極端にものが少なく、目立つのはキッチンに置かれた小さな冷蔵庫と電子レンジ。それと、奥の部屋にエアコンが一台。それ以外に家電は見当たらなかった。

 キッチンを通った先に、メインの居室がある。畳張りの部屋の中央には、小さな丸テーブルと座布団がふたつ。天井の近くで、旧時代の遺物と思しきエアコンがブーンと低くうなっている。

 だけど、それ以外はなにもなし。窓にはカーテンすらついていない。代わりに広げた段ボールが何枚も貼りつけてあるだけだった。


 いったい、この老人は何者なんだろう?

 ほんとうに、こんな殺風景な部屋で生活しているのだろうか?


 いろいろと尋ねたいことはあったが、ここはひとまずグッとこらえた。けっこう頑固そうな人に見えたので、機嫌を損ねて追い出されたら困る。オレはあの家で起きたことの答えを一刻も早く知りたかったのだ。

 座布団の上であぐらをかいていると、老人がキッチンからなにかを持ってきた。


「それで? お前さんは、あそこでなにを見たんだ?」


 かれはそう言いながら、両手に持っていたグラスの片方を、オレに差し出した。氷の入ったグラスに茶色い液体がなみなみと注がれている。

 ちょうどノドがカラカラだったので、オレは礼もそこそこにグラスの中身に口をつけた。冷たい麦茶だった。そいつをいっきに飲み干す。自分でも気づかなかったけど、オレの身体は、まるでサウナに入ったあとのように乾ききっていた。

 これでようやく落ち着きを取りもどしたオレは、あの家で見たことをかれに話し始めた。

 順を追って、端的に。玄関で聞いたノックの音や、階段の上に立っていた美しい女性の話をした。でも途中、発情しすぎて正気を失ってしまったことについては、なんだか恥ずかしかったので説明から省くことにしたけど。


 オレがひととおり話し終えると、丸テーブルの向かいに座っていた老人は、腕を組んで「なるほど」と小さくうなずいた。


「もう気づいていると思うが、お前さんが見たという女。あれは人間なんかじゃない。幽霊か、あるいは妖怪の類なのか。わしにもわからん。知りたくもない。そもそもわしは、ああいった、いかがわしい存在をいっさい信じておらんのでな。だが……」


 と老人が下を向き、ため息をつく。

 かれが言葉をつづけた。


「――関わっちまった。いま思えば、あんな男に家を貸すんじゃなかったよ」

「あんな男……?」

「ああ……」


 そううなるように返事をすると、老人は手もとのグラスをじっと見つめた。

 それから遠い目をして、慎重に記憶の糸をたぐり寄せるようなペースで、かれはゆっくりと語り始めた。


「八年前のことだ。わしが所有する借家のひとつ――あのボロっちい家を、前園って名前の夫婦が借りに来てな。パッとしない旦那とキレイな奥さん。旦那のほうは忘れたが、奥さんは下の名前をレイコといった。髪が長くて線の細い女性でね。とくに横顔が美しい人だったのをよく覚えとるよ。

 旦那は医者だった。精神科医で、奥さんは元患者。まあ、ない話じゃない。そういう恋もあるのだろうと思った。ふたりは夢のマイホームのために資金を貯めるとかで、家賃の安いあの家を選んだ。真面目そうな夫婦だし、空き家が埋まるのはありがたい。わしは快くふたりに家を貸した」


 老人がそこで言葉を切る。

 かれは苦虫を噛みつぶしたような顔で、オレのほうを向いた。


「だがな。実際のところ、その話はウソだった。のちに知ったことだが、旦那はまともな医者じゃなかった。ヤツは勤め先の病院で不祥事を起こしたんだ。それで住んでた町から逃げるように、こっちに引っ越してきただけだったのさ」

「不祥事って……。なにをやったんです?」

「患者に手を出したんだよ。気に入った女性に強い薬を処方して自分に依存させる。そうやって相手を篭絡(ろうらく)する。たぶんレイコさんも同じ手口で、たらしこまれたんだろうな。もっとも不祥事のあとでも離れなかった点を見ると、彼女は本気で旦那のことを愛していたんだろうがね。いや、だからこそ……」


 と老人が、片手でテーブルをドンとたたいた。


「だからこそ、わしはヤツのことが許せない! あんなに献身的な人を嫁にもらっておきながら……。あいつはあの家に、レイコさんを置き去りにしやがったんだ!」

「置き去り、ですか?」

「そうだ」


 とかれはうなずいた。


「じつはレイコさん、妊娠できない身体だったそうでな。借家に越してきたあとで、ふたりはその事実を知った。そしたらあの男……。あろうことか、よその女と子ども作って姿を消しちまったのよ。駆け落ちしたのさ」

「ああ……なんてことを……」

「とんでもないクソ野郎だよ、あいつは。だがそれでも、レイコさんは旦那を愛していた。旦那が仕事をクビになっても見捨てなかった人だ。律儀にもあの家で夫の帰りを待ちつづけた。待って、待って、待ちつづけ……。それからしばらくして、彼女は奇行に走るようになった」

「奇行……?」


 奇行って、まさか……。なんだか、うっすらと話が見えてきた気がする。

 老人はズバリといった感じで、オレの顔を指さした。


「家に男を連れこむようになったのさ。お前さんのような……旦那と顔がそっくりな男を、彼女は家に迎え入れた。消えた夫がもどってきたと、そう思いこんでな。

 誘われた男たちは、そりゃもう大喜びだった。美人に声をかけられて有頂天になる。だけど長続きはしない。なんたってレイコさん、完全に気が触れちまってたからな。みんな彼女の頭がどうにもならないと知ると、すぐに逃げ出してしまった。

 でも美人な奥さんだ。ウワサはいっきに広まり始めた。この家には、ふしだらな女が住んでるって。それで、あっという間に卑劣な輩(やから)が集まってきた。そいつらは集団で家に上がりこむと、奥さんを……レイコさんを慰み者にした。全身が傷だらけになるほど乱暴して……。それはもう彼女のことをひどくあつかったそうだ」


 オレはなにも言えなかった。そんな不幸な目にあった女性の霊に、少しでも下心を抱いた自分がただただ情けなかった。

 老人がさらに話を続けた。


「奥さんは狂ってたので、なにもわからなかった。いや、なにもわからないままなら、そのほうがマシだったのかもしれない。

 だが残酷なことに、彼女はときどき正気にもどることがあってな。近所の人の話だと、たまに会話の通じる日があったんだと。それで、ふと正気にもどったときに、理解しちまったんだろうな。自分の身に起きたことを……。それで――」


 とかれは、片手を自分の首に当てて、


「彼女は首を吊った。二階の寝室で。旦那が失踪してから半年も経たないうちに、レイコさんはあの世に逝っちまったのさ」


 救いようのない話だった。オレはなんの返事もできず、グラスの中で溶ける氷を見つめるしかなかった。

 だが老人は、オレの様子をなにか言いたいことがあると勘違いしたらしい。かれはグラスのお茶をグッとあおってから、


「ああ。お前さんの言いたいことはわかるよ。なぜそうなる前に止めなかったんだ? 大家のくせに……。って、そう思ってるんだろ?」

「いえ……べつにそんなことは……」

「言い訳みたいになっちまうがな。わしがこのことを知ったのは、彼女が亡くなったあとだった。警察から連絡が来て、そこで初めて……。だが、あとの祭りだった。

 いや、仮にもっと早く気づいていたとしても、結果は変わらなかっただろう。わしはただの大家でしかない。借り手のプライベートには、めったに干渉しないこと。それが大家の常識ってもんだ。それに警察だって民事不介入なんだぞ? それなのに……いったい、この老いぼれになにができたというのか……」


 老人はもうオレのほうを見ていなかった。

 後半はまるでうわ言のようで……ただ自分に言い聞かせるために語っていただけだった。実際シワだらけのかれの顔には、後悔の念がにじみ出ていた。


 それから、かれは黙りこくってしまった。

 だが話はまだ終わっていない。


 肝心の幽霊について……あれがいつから出現して、なぜあんな風に音を立てるようになったのか。謎はまだ残っていた。

 オレは老人の沈黙にしばし付き合うと、頃合いを見計らって、話のつづきをうながした。


「それから、どうなったんですか?」

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