4.訳ありの夫婦
「さあ入れ。理由を知りたいだろ?」
ただし靴下は脱いでから上がること、と老人はつけ加えた。
たしかに、さきほどの廃屋で、オレの靴下はホコリと土にまみれている。オレは靴下を脱ぐと、自身の靴の履き口にそれを突っこんで、裸足でかれの家に上がらせてもらった。
老人の部屋は、単身者向けのごく一般的な1Kって感じの造りだった。部屋の中は極端にものが少なく、目立つのはキッチンに置かれた小さな冷蔵庫と電子レンジ。それと、奥の部屋にエアコンが一台。それ以外に家電は見当たらなかった。
キッチンを通った先に、メインの居室がある。畳張りの部屋の中央には、小さな丸テーブルと座布団がふたつ。天井の近くで、旧時代の遺物と思しきエアコンがブーンと低くうなっている。
だけど、それ以外はなにもなし。窓にはカーテンすらついていない。代わりに広げた段ボールが何枚も貼りつけてあるだけだった。
いったい、この老人は何者なんだろう?
ほんとうに、こんな殺風景な部屋で生活しているのだろうか?
いろいろと尋ねたいことはあったが、ここはひとまずグッとこらえた。けっこう頑固そうな人に見えたので、機嫌を損ねて追い出されたら困る。オレはあの家で起きたことの答えを一刻も早く知りたかったのだ。
座布団の上であぐらをかいていると、老人がキッチンからなにかを持ってきた。
「それで? お前さんは、あそこでなにを見たんだ?」
かれはそう言いながら、両手に持っていたグラスの片方を、オレに差し出した。氷の入ったグラスに茶色い液体がなみなみと注がれている。
ちょうどノドがカラカラだったので、オレは礼もそこそこにグラスの中身に口をつけた。冷たい麦茶だった。そいつをいっきに飲み干す。自分でも気づかなかったけど、オレの身体は、まるでサウナに入ったあとのように乾ききっていた。
これでようやく落ち着きを取りもどしたオレは、あの家で見たことをかれに話し始めた。
順を追って、端的に。玄関で聞いたノックの音や、階段の上に立っていた美しい女性の話をした。でも途中、発情しすぎて正気を失ってしまったことについては、なんだか恥ずかしかったので説明から省くことにしたけど。
オレがひととおり話し終えると、丸テーブルの向かいに座っていた老人は、腕を組んで「なるほど」と小さくうなずいた。
「もう気づいていると思うが、お前さんが見たという女。あれは人間なんかじゃない。幽霊か、あるいは妖怪の類なのか。わしにもわからん。知りたくもない。そもそもわしは、ああいった、いかがわしい存在をいっさい信じておらんのでな。だが……」
と老人が下を向き、ため息をつく。
かれが言葉をつづけた。
「――関わっちまった。いま思えば、あんな男に家を貸すんじゃなかったよ」
「あんな男……?」
「ああ……」
そううなるように返事をすると、老人は手もとのグラスをじっと見つめた。
それから遠い目をして、慎重に記憶の糸をたぐり寄せるようなペースで、かれはゆっくりと語り始めた。
「八年前のことだ。わしが所有する借家のひとつ――あのボロっちい家を、前園って名前の夫婦が借りに来てな。パッとしない旦那とキレイな奥さん。旦那のほうは忘れたが、奥さんは下の名前をレイコといった。髪が長くて線の細い女性でね。とくに横顔が美しい人だったのをよく覚えとるよ。
旦那は医者だった。精神科医で、奥さんは元患者。まあ、ない話じゃない。そういう恋もあるのだろうと思った。ふたりは夢のマイホームのために資金を貯めるとかで、家賃の安いあの家を選んだ。真面目そうな夫婦だし、空き家が埋まるのはありがたい。わしは快くふたりに家を貸した」
老人がそこで言葉を切る。
かれは苦虫を噛みつぶしたような顔で、オレのほうを向いた。
「だがな。実際のところ、その話はウソだった。のちに知ったことだが、旦那はまともな医者じゃなかった。ヤツは勤め先の病院で不祥事を起こしたんだ。それで住んでた町から逃げるように、こっちに引っ越してきただけだったのさ」
「不祥事って……。なにをやったんです?」
「患者に手を出したんだよ。気に入った女性に強い薬を処方して自分に依存させる。そうやって相手を篭絡する。たぶんレイコさんも同じ手口で、たらしこまれたんだろうな。もっとも不祥事のあとでも離れなかった点を見ると、彼女は本気で旦那のことを愛していたんだろうがね。いや、だからこそ……」
と老人が、片手でテーブルをドンとたたいた。
「だからこそ、わしはヤツのことが許せない! あんなに献身的な人を嫁にもらっておきながら……。あいつはあの家に、レイコさんを置き去りにしやがったんだ!」
「置き去り、ですか?」
「そうだ」
とかれはうなずいた。
「じつはレイコさん、妊娠できない身体だったそうでな。借家に越してきたあとで、ふたりはその事実を知った。そしたらあの男……。あろうことか、よその女と子ども作って姿を消しちまったのよ。駆け落ちしたのさ」
「ああ……なんてことを……」
「とんでもないクソ野郎だよ、あいつは。だがそれでも、レイコさんは旦那を愛していた。旦那が仕事をクビになっても見捨てなかった人だ。律儀にもあの家で夫の帰りを待ちつづけた。待って、待って、待ちつづけ……。それからしばらくして、彼女は奇行に走るようになった」
「奇行……?」
奇行って、まさか……。なんだか、うっすらと話が見えてきた気がする。
老人はズバリといった感じで、オレの顔を指さした。
「家に男を連れこむようになったのさ。お前さんのような……旦那と顔がそっくりな男を、彼女は家に迎え入れた。消えた夫がもどってきたと、そう思いこんでな。
誘われた男たちは、そりゃもう大喜びだった。美人に声をかけられて有頂天になる。だけど長続きはしない。なんたってレイコさん、完全に気が触れちまってたからな。みんな彼女の頭がどうにもならないと知ると、すぐに逃げ出してしまった。
でも美人な奥さんだ。ウワサはいっきに広まり始めた。この家には、ふしだらな女が住んでるって。それで、あっという間に卑劣な輩が集まってきた。そいつらは集団で家に上がりこむと、奥さんを……レイコさんを慰み者にした。全身が傷だらけになるほど乱暴して……。それはもう彼女のことをひどくあつかったそうだ」
オレはなにも言えなかった。そんな不幸な目にあった女性の霊に、少しでも下心を抱いた自分がただただ情けなかった。
老人がさらに話を続けた。
「奥さんは狂ってたので、なにもわからなかった。いや、なにもわからないままなら、そのほうがマシだったのかもしれない。
だが残酷なことに、彼女はときどき正気にもどることがあってな。近所の人の話だと、たまに会話の通じる日があったんだと。それで、ふと正気にもどったときに、理解しちまったんだろうな。自分の身に起きたことを……。それで――」
とかれは、片手を自分の首に当てて、
「彼女は首を吊った。二階の寝室で。旦那が失踪してから半年も経たないうちに、レイコさんはあの世に逝っちまったのさ」
救いようのない話だった。オレはなんの返事もできず、グラスの中で溶ける氷を見つめるしかなかった。
だが老人は、オレの様子をなにか言いたいことがあると勘違いしたらしい。かれはグラスのお茶をグッとあおってから、
「ああ。お前さんの言いたいことはわかるよ。なぜそうなる前に止めなかったんだ? 大家のくせに……。って、そう思ってるんだろ?」
「いえ……べつにそんなことは……」
「言い訳みたいになっちまうがな。わしがこのことを知ったのは、彼女が亡くなったあとだった。警察から連絡が来て、そこで初めて……。だが、あとの祭りだった。
いや、仮にもっと早く気づいていたとしても、結果は変わらなかっただろう。わしはただの大家でしかない。借り手のプライベートには、めったに干渉しないこと。それが大家の常識ってもんだ。それに警察だって民事不介入なんだぞ? それなのに……いったい、この老いぼれになにができたというのか……」
老人はもうオレのほうを見ていなかった。
後半はまるでうわ言のようで……ただ自分に言い聞かせるために語っていただけだった。実際シワだらけのかれの顔には、後悔の念がにじみ出ていた。
それから、かれは黙りこくってしまった。
だが話はまだ終わっていない。
肝心の幽霊について……あれがいつから出現して、なぜあんな風に音を立てるようになったのか。謎はまだ残っていた。
オレは老人の沈黙にしばし付き合うと、頃合いを見計らって、話のつづきをうながした。
「それから、どうなったんですか?」




