3.上の階からトントントン
すると、斜めにせり上がる階段の中央に、それはいた。
オレは息を飲んだ。
美しい……。オレの貧しい語彙では言い表せないほどの美貌を備えた女性が、そこでオレのことを見つめていた。
切れ長の目に、透きとおるような白い肌。ふわっとした黒髪ロングが首もとにからみついて、妖艶な魅力を放っている。そして首から下は、裸に薄手のネグリジェが一枚だけ。口もとには微笑を浮かべていた。
オレはその人から目が離せなかった。地元にいたときも、東京に来てからも、こんな美人を間近で見たことはなかったし、テレビで見たどんな売れっ子女優よりも、彼女のほうがよっぽど魅力的に思えたのだ。
オレが呆然と立ち尽くしていると、彼女は横を向いて、ふたたび階段を上り始めた。
ああ……。彼女の横顔はとくにキレイだった。完璧な形のEライン。くちびるはつややかで、ぽってりとした厚みがあって……。それに身体の前で張り出す、あの豊満な胸のふくらみも――って、そんなことよりも! 早く話しかけないと!
「あ、あのっ! すみません! 勝手におじゃまして……。よかったら、オレと少しお話でもしませんか?」
オレは階段に歩み寄りながら彼女に話しかけた。階段の手すりに手をついて上をのぞきこむ。
すると彼女は、すでに階段の踊り場の上にいて、そこから姿を消すところだった。オレの目は、踊り場の曲がり角に消えていく彼女の片足をかろうじてとらえた。
それから階段を上る音につづいて、二階の床を歩く足音。どこかの部屋のドアが開いて、なにか重たい木材がギシッときしむ音が鳴ると、辺りはふたたび静寂を取りもどした。
そう、家の中はほんとうに静かだった。
ただその一方で、オレの耳の中はかなり騒がしいことになっていた。心臓がバカみたいにドクドクと高鳴っている。
あの重たい木材がきしむ音……。あれはまちがいなく、ベッドに座る音だ。あの女性は寝室のベッドに腰かけて、オレが二階に上がってくるのを待っている。あの薄着姿で、オレのことを誘っているのだ。
この時点で、オレの理性は半分吹っ飛びかけていた。おたがいのことをよく知らず、しかも相手の精神はまともじゃないのに、こんな形で一線を越えるのはまちがっているという気持ちと、いますぐにでも二階に上がってやることやっちまえという浅ましい欲望が、オレの中でせめぎ合っていた。
だが、つぎに上からひびいてきた音で、オレの理性は完全に崩壊した。
二階から、そっとやさしく、オレに呼びかけるように「トン、トン、トン」。小さな音が降りてきた。
それを聞いて、オレの脳裏に浮かんだのは――ベッドの端に腰かけたあの女性が、しなやかな指先で、布団を軽くたたいている光景だった。「さあ、早くとなりにおいで」とオレに催促している光景……。
それを思い浮かべた瞬間、オレの頭の中で、なにかがはじけた。人として体裁を保つための最後のタガが外れたような感じだった。
もうどうでもいい、どうなってもいい。相手の精神状態がどうとか、誤解を解かなきゃマズイだとか、そういった綺麗事はもううんざりだ。
いますぐ彼女のもとへ行きたい……行かなければ……。
オレのすべてを彼女へ捧げたい……捧げなければ……。
勝手に家に入ったことを彼女に謝りたい……謝らなければ……。
彼女に懺悔しなければ……。
思考がグチャグチャになって、身体が勝手に動き出す。
正直このときのことをいま思い返すと、自分の意志で手足を動かしていた感覚はなかった。
まるで、なにかに吸い寄せられるような感じだ。妙な高揚感と現実離れした陶酔感に包まれながら、オレは踊り場の闇に向かって、目の前の階段を一歩、また一歩と上り始めた。
――と、そのときだった。
突如、オレの左腕に締めつけるような痛みが走った。
左の前腕部に、なにかがからみついている。
……いや、ちがう。からみついているんじゃない。
これはヒトの手だ。
だれかが、オレの腕をつかんで、離さないのだ。
そのことに気づいた瞬間、オレはゾッとして総毛立った。
背筋が凍りつくように寒い。いや、背筋だけじゃない。頭のてっぺんからつま先まで、全身が異様に凍えている。
それなのに、オレの身体じゅうを、真夏の熱気がおおっていた。
とたんに皮膚から汗が吹き出す。
……いいや、そうじゃない。汗は吹き出ていた。
汗は、最初からずっと――この家に入ったときからずっと――吹き出ていたんだ!
なにが起こった?
オレの腕をつかんでいるモノ……。
これは、いったいなんだ?
オレは、おそるおそる後ろをふり返った。
オレの目に飛びこんできたモノ――それは、ひとりの老人だった。
歳は六十代後半くらい。頭のはげ上がった背の低い老爺が、オレの腕をつかんで、するどい目つきでオレのことをにらみつけていた。
老人はオレの顔を見るなり、ひと言。
「ここで、なにをしている?」
オレは乾ききった口から、どうにか声をしぼり出して答えた。
「い、いえ! 自分はなにも……」
「来い!」
老人はそう一喝すると、オレを階段の上から引きずり下ろした。
そのいきおいで、玄関の外へと放り出される。
オレがバランスを崩して、庭先で地面にひざをついていると、追いかけてきた老人はオレの胸ぐらをつかんで、オレの顔に怒声を浴びせ始めた。
オレは完全にパニック状態だった。老人がなにを言っているのか、まったく頭に入ってこない。頭の中でグルグルと、さまざまな思考が巡っている。
――そうだ。おそらくこの力強い老人は、引退した元ヤクザかなにかで、あの美しい女は、この男の妻。
そんでもってこいつらは、オレにハニートラップをしかけてきた。たぶん不法侵入で警察に通報するとかなんとか言って、オレを脅してくるにちがいない。オレやオレの家族から金をむしり取るつもりなんだ。
あるいは、これからオレを闇医者のところへ連れていって、オレの内臓を……
バチン!――小気味いい音とともに、左頬に激痛が走る。
老人がオレをビンタした音だった。
ここでようやく、オレは我に返った。
すると老人の怒声が、意味を持った言葉として、オレの耳に飛びこんできた。
老人はしきりに「木の板はどこだ?」と騒いでいる。
「木の板? いったい、なんのことです?」
オレがそう答えると、老人はオレの胸ぐらをグイッと引き寄せて、
「とぼけるな! 木の板だ! 玄関に留めてあったヤツ! あれをどこへやった!」
「し、知りませんよ!」
とオレは必死に首を横にふって答えた。
「そんな……木の板なんて、最初からありませんでしたし……。そもそもこの家、人が住んでます! 髪の長い女性が! それに電気だって……」
それを聞くと、胸ぐらをつかんでいた老人の手がゆるんだ。
かれはオレのシャツから手を離して、
「電気なんぞとっくに止まっとるわ。まったく……」
あきれたようにそうつぶやくと、廃屋の玄関に向かって歩き始めた。
玄関の土間でかがみこみ、オレの靴を拾い上げている。
オレはその様子を見て、ハッと息を飲んだ。
老人の奥に見えた光景――それが、最初に目にしたものとまったく異なっていることに気がついたのだ。
あらためて見ると、その家の中は完全にホコリまみれだった。また、さきほどまで点いていたはずの電気だって見る影もない。キッチンもリビングも、室内のすべてが暗闇に飲まれていた。
そしてなによりも、廊下の床板……。月明かりに照らされた廊下には、オレの足跡しか残っていなかった。オレの足跡だけが点々と、奥の部屋までつづいている。ほんとうにそれだけだった。
オレは驚きのあまり、その場から立ち上がれなかった。
それじゃあ、オレがさっきまで見ていた光景は……?
あの女性も……単なる幻だったのか……。
それとも……。
愕然として口を開けっ放しにしていると――ピシャリ!
老人が、オレの視界をさえぎるようにして、いきおいよく玄関の引き戸を閉めた。
「ほら履け。ついてこい」
かれはそういって、オレの靴を地面に投げ捨てると、後ろを見ずに歩き出した。
オレはあわてて靴を履くと、自転車を引いて、老人のあとを追った。
五分ほど歩いただろうか。
無言で先導していた老人が「ここだ」と言って立ち止まった。かれの指さす先には、一棟の古臭い木造アパートが立っていた。
どうやらここの101号室がかれの部屋のようだ。老人が部屋の前で立ち止まって、カギを開ける。
「さあ入れ。理由を知りたいだろ?」




