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【短編】トントントン、と音がして  作者: 弐刀堕楽


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2/5

2.姿を見せない女

「えーっと……。ごめんくださーい……」


 ドアを開けて、小声でおそるおそる挨拶をしながら家の中をのぞく。

 すると、中は意外とキレイに片づいていた。外観から受ける廃屋の印象とはちがい、適度に掃除されているようである。

 それに空気もひんやりとしていた。たぶんクーラーが効いているのだろう。汗が引いていく感覚がとても心地よかった。


 玄関の土間に立って前を向くと、奥の部屋に向かって、まっすぐに廊下が伸びていた。

 奥の部屋のドアは半開きで、そこから明かりが漏れている。どうやら家主はその部屋にいるらしい。その証拠に、部屋の中からは「トン、トン、トン」という小さな音が廊下にひびいていた。

 この音……。これはたぶん、包丁がまな板に当たる音だ。ということは、あの部屋はキッチンか? もしかすると家主は、オレをもてなす準備をしているのかもしれない。


 玄関で靴を脱ぎ、家に上がる。そのとき、土間の端っこにもう一足、べつの靴が置いてあるのが目についた。

 女性用の白いローファーだ。あれは家主のものか? ってことは、この家に住んでいるのは女の人? ほかに靴は見当たらないから、女性のひとり暮らしかもしれない。


 でも、そうだとすると……。

 フツー夜中に知らない男を家に招いたりするだろうか?


 なんだか余計に混乱してきたが、これ以上深く考えるのはやめにした。あとは本人に直接聞けばいいだけだ。このまま廊下を進めば、ほしい答えはすぐに手に入るのだから。


 ということで、オレはうす暗い廊下に向けて、足を前に一歩踏み出した。

 壁に手をつき、辺りを見回す。


 そこから家の間取りをざっくりと観察する。

 まっすぐ伸びる廊下の右手には、二階へとつづく階段が。それと、トイレとお風呂場につながっていそうなドアも確認できた。

 そして廊下の左手には、リビングが見えた。廊下とリビングのあいだには引き戸があったが、開けっ放しになっていたので、リビングの中は丸見えだった。といっても中には、特筆すべきようなものはなにもない。目につくのはテレビと、その前に置かれたローテーブル。二人がけのソファに、それから……。

 また引き戸だ。リビングと奥の部屋のキッチンをつなぐ引き戸。ドアは閉じていたが、曇りガラスから明かりが差しこんでいたので、それがキッチンとつながっているのは一目瞭然だった。


 一階はざっと見たところ、こんな感じ。

 全体がなんとなく把握できたところで、オレは廊下を進んだ。一歩進むごとに、年季の入った床材がギイギイと鳴く。歴史あるお寺の鶯張《うぐいすば》りならまだ風情があるが、この状況だと不気味でしかなかった。

 それと廊下では、不快な床鳴りのほかにもうひとつ、気になるものがあった。それは、ニオイだ。

 オレの鼻腔をくすぐる甘い香り。この香り……どこかで嗅いだことがあるけど思い出せない。女性用の香水かな? それともキッチンで、なにか季節の果物でも切っているのかもしれない。

 ってことは、冷たいフルーツでおもてなしか? 正直友だちと飲み食いしたあとなので、お腹は空いていないけど……。でもフルーツの盛り合わせなら大歓迎だ。デザートは別腹。つまむ余裕は十分にある。


 ……と一方的な期待をふくらませつつ、オレはキッチンのドアの前にたどり着いた。

 明かりの漏れているドアの前に立つ。すると、部屋の中で聞こえていた包丁の音がピタリと止まった。そのあとで足音がつづいたので、オレは家主が包丁を持ってこっちに来るのかと思い、一瞬焦ってしまった。

 しかし、そんなことはなく……。逆に足音は遠ざかっていき、つづいて引き戸を開ける音が聞こえた。


 ということは――

 まさかこの人……リビングに移動する気なのか?


 急いでキッチンのドアを開けて、中をのぞきこむ。

 だがオレとは入れちがいで、キッチンとリビングをつなぐ引き戸が「トン」と音を立てて閉じるのが見えた。それからリビングでパチッと音がして、蛍光灯の明かりが点いた。

 こうなると、ますますわけがわからない。オレは大いに混乱した。どうして家主は隠れてしまったんだろう?

 玄関のカギを開けて、オレを誘うようなマネをして……。でも肝心の顔はいっさい見せない。だけど追い出すようなこともしない。いったいこの人は、なにが目的なんだ……?


 オレは困惑しつつも、本能的にキッチンの中で目を走らせた。

 とくに違和感のない空間。一般家庭向けのキッチンがそこにあった。壁に沿って配置された調理場と周囲に並ぶ家電たち。冷蔵庫、電子レンジ、オーブントースターなどなど……。それと部屋の中央には、食事を取るための四人がけのダイニングテーブルが設置してあった。

 そして、そのテーブルの上には――驚いたな。なんだこりゃ?――作りたてと思しき料理が置かれていた。白い皿に乗った大きなオムレツ。わきには、切ったトマトとキュウリ、ちぎったレタスが添えてあった。

 で、なんでオレがその料理に驚いたのかというと……。じつは、そのオムレツの上には、バカでかいハートマークが描かれていたのだ。ケチャップで形作られた、愛情たっぷりって感じの真っ赤なハートマーク。しかも左右には、小さなハートまで添えてある始末だった。

 ……おいおい、マジかよ? これって、たぶんオレのために用意してくれた料理だよね? つまり、この家主の女性は……オレに好意があるってことなのか?


 急に背筋がゾッとする。

 普通女性に好意を向けられたら、男は少なからず喜んでしまうものだ。しかし相手が得体のしれないヤツだと話は変わってくる。

 もしやオレは、近所に住むストーカーの家に、まんまと誘導されてしまったのではないか?

 なら、さっさと逃げたほうがいいと、オレの本能が警告していた。だがその一方で、オレの目は、冷蔵庫に貼ってあった『あるもの』に釘づけになっていた。


 それは一枚の古い写真だった。

 中年の男と若い女性。写真の中でカップルと思しきふたりが、どこかの観光地の鳥居を背景に並んで立っていた。


 写真に写っている中年の男は、ほんとうに凡庸というか、パッとしない顔の人物だった。よくある日本人の顔。仮に指名手配されたら、全国各地で目撃情報が相次ぐタイプの弥生顔って感じで……。

 でもよくよく見ると、かれの顔は、なんとなくオレに似ている印象だった。まあ自分はここまで老けてないし、ヒゲも生やしてないけど……。でも若い頃だったら、もっとオレに似ていたと思う。


 対して、もう一方の女性の顔は……。

 はっきり言ってチョー美人だった。ヒゲ面の中年フツメンとは不釣り合いの二十代の美女。端正な顔立ちとスラリとした身体。

 黒髪のロングヘアがミステリアスな雰囲気を醸し出している。でも、どことなく幸の薄い感じもある、そういう女性がそこに写っていた。


 写真から受ける印象だと、ふたりは交際中の男女というより、夫婦なんだと思う。ふたりの距離感とか落ち着き払った表情にそれがにじみ出ていた。

 ってことは、玄関のカギを開けたあの人物は……人妻!? なぜ人妻が、自宅に知らない男を招き入れたんだろう?

 そういえば、玄関には夫の靴がなかった。つまり夫はいま、この家にいない。さらに、この写真。これはけっこう古いものだ。状態から見ると、十年くらいは経っていそうな感じがした。


 以上の情報を踏まえて、今回の件を考えると――

 三十代の人妻が、夫の出張中に、夜ひとりでさびしくなってしまい……近所の若い男を誘惑した……とか……?


 頭の中に湧き上がる淫靡(いんび)な妄想に、オレはゴクリとツバを飲みこんだ。

 さっきまで頭の片隅にあった恐怖心は、とっくに吹き飛んで、べつの感情へと置き換わっていた。

 だが結論を急ぐのはまずい。落ち着けよ、オレ。まだそうと決まったわけじゃない。

 ってか、そもそもこんな美人が、オレみたいなパッとしない男を不倫相手に選ぶだろうか? それに顔を見せないのも変な話だ。もしオレみたいな非モテを誘いたかったら、あの美貌を見せつけるだけでイチコロなのに……。


 首をかしげながら、もう一度テーブルのほうを見やる。

 するとオムレツの乗った皿の横に、長方形の形で折られた紙が置いてあるのが目についた。あれはもしや……手紙かな?

 三つ折りの紙を手にとって開くと、それは予想どおり一枚の手紙だった。紙の上には、走り書きしたような崩れた文字がびっしりと並んでいる。

 手紙のくわしい内容については、正直いまはもう覚えてはいない。でも、とにかく『あなたがとつぜんいなくなって、どれだけさびしい想いをしてきたか』という文章がつらつらと書き綴(つづ)ってあった。

 そして、最後の一文は――『あなたの大好きなオムレツを作っておきました。よろしければ召し上がってください』。手紙はそこで終わっていた。


 手紙を読み終えると、オレは顔を上げた。

 なるほど……なんとなく事情が把握できた気がする。


 おそらく彼女の夫は亡くなったか、もしくは行方不明になった。それで気がおかしくなってしまい、家の前を通る夫似の男(つまりオレのことだ)を見て、消えた夫がもどってきたと勘違いをしたわけだ。

 そう考えると、彼女の精神状態が普通でないことは明白だった。つまり、ここはイカれた女性が住む家ってことで……。

 普通ならここで引き返すべきだったんだろう。家の外に出るべきだった。だけど、当時オレは酔っ払っていて正常な判断ができなかったし、なにより、この美しい女性をひと目見たいという願望に心が支配されてしまっていた。


 もしかしたら、オレならこの女性をもとにもどせるかもしれない。きちんと事情を説明して、誤解を解いて……。それで正気にもどった彼女と、あらためていい関係が築けたりするのかも……。

 そのような淡い期待を胸に、オレはテーブルの上に手紙を置いた。オムレツには手をつけなかった。キレイに盛り付けてもらって、もったいなかったけど……。でもお腹は空いていなかったし、なによりもまず、彼女と話したいという気持ちが頭にあったからだ。


 オレはテーブルの前から、リビングに向かうドアの前に移動すると、ドアの取手に手をかけた。

 彼女を驚かせないように、そっと引き戸をスライドさせる。


 すると――またオレとは入れちがいになる形で――今度は、リビングから廊下へと向かう引き戸が「トン」と閉じてしまった。

 それからオレの耳に「トン、トン、トン」という、まったく新しいべつの音が聞こえてきた。


 それがなんなのかは、すぐにわかった。これは階段を上る音だ。

 彼女は二階に上がろうとしているんだ。


 ひと目でいい! どうにかして、その顔を拝んでみたい!

 心の奥から湧き上がる、強烈な願望に突き動かされて、オレはリビングをすばやく横切った。

 廊下に面した引き戸を、いきおいよく開ける。


 すると、斜めにせり上がる階段の中央に、それはいた。

 オレは息を飲んだ。

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