5.香水の匂い
「それから、どうなったんですか?」
「ああ」
と老人が我に返った。
「それからはな……。しばらく、いそがしかったよ。旦那とは連絡がつかないし、遺体の引き取り手も見つからなかった。レイコさんは天涯孤独の身だったそうでな。遺品の処理やらなんやらも大変で……。あの家も輩に荒らされていたから、改装工事もしなきゃならなかったしな。
たしかに彼女は不幸な目に遭ったかもしれない。だがこっちも事故物件を抱えて、てんてこ舞いだった。もっともそのおかげで、わしはしばらく事件のことを忘れることができた。目の前の仕事に没頭したんだ。
それで、工事が終わって――何ヶ月ぐらい経ってたかな? くわしくは忘れたが……。とにかく、つぎの入居者が見つからないうちに、今度はべつの騒動が起きちまった」
「つまり……あの幽霊のことですね?」
老人がうなずいた。
「そうだ。深夜あの家の前を通ると、玄関の戸をたたく音が聞こえるってウワサが広まり始めてな。わしも最初は気にしてなかった。事故物件につきものの、くだらないウワサ話。そう思って無視していたんだが……。ところが困ったことに、あの家で……二体目が出ちまったのさ」
「二体目? なんですそれ?」
オレの言葉に、老人がひときわ大きなため息をついた。
「遺体だよ。レイコさんが自殺した二階の寝室。そこで男の変死体が……首吊り死体が見つかったんだ。
しかもその男の顔が、彼女の旦那にそっくりときてる。そうなるともう大騒ぎだ。『ここは最新の心霊スポットだ!』って、その手の連中がわんさか押し寄せてきて……。終いにはヤツら、窓ガラスを割って家に不法侵入しやがった。
わしはもうウンザリするやら、気味が悪いやらで、ついにあの家を封鎖することに決めた。臭いものに蓋ってやつさ。家じゅうの窓や玄関に、木の板を何枚も打ちつけて、だれも中に入れないようにしたんだ」
なるほど――とオレは納得した。
老人がオレに怒声を浴びせていたときに言っていた『木の板』って、このことだったのか……。
ひとり腑に落ちた様子のオレを尻目に、老人が先をつづけた。
「すると木の板を張ってからは、不思議と戸をたたく怪奇現象も治まった。以来わしは、あの家を何年も放置して、見て見ぬふりをしてきた。頭の隅でいつも不安を抱えながら、目をつむってきた。
だが先月の台風が来てからは、そうもいかなくなってな。あの家の屋根が崩れてきていると、近所から苦情があったんだよ。それで、とうとう重い腰を上げた。少しもったいない気もしたが、業者に頼んで家を解体することに決めたのさ。
しかし一方で、なんとなくイヤな予感もしていた。またあの家でトラブルが起きるんじゃないかってな。それで一応、工事が無事に終わるのを見届けようと、わしは近所に所有するこのアパートの空き部屋――つまり、この部屋を仮の住まいとして、ここで見張っていたというわけだ。そしたら、案の定だよ」
と老人がひざを打った。
「今日、お前さんを見つけた。夜の見回りに行ったら、家の前に自転車が停まっている。ピーンと来たね。もしやこれは、って……。お前さん、命拾いしたな。わしがいなかったら今頃、もうこの世にはおらんかったかもしれんぞ?」
老人の言うとおりだった。あのとき、かれがオレの腕をつかんでくれなかったら……オレはいったい……。
正直その先を知りたくはなかったが、一方で聞かずにはいられなかった。一度関わってしまった以上、答えを知っておくべきじゃないかと思ったのだ。
オレはしばらく躊躇したあと、しぶしぶと重たい口を開いて、かれにこう質問した。
「オレ……あのまま二階に上がっていたら、どうなっていたんでしょうか?」
「さあなぁ……」
と老人が頭をかいて答えた。
「だが、おそらく……。二階で見つかった変死体と同じような末路をたどっていただろう。警察の話だと、男の首吊り死体は、それはもうひどい状態だったそうだよ。
男の死体は……。一見すると顔は普通だが、服をめくると首から下が傷だらけでな。だれかの爪でかき毟られたような傷と、思いっきり噛まれたような歯型が身体じゅうに刻みこまれていたらしい。
もし、あれがレイコさんの霊のしわざだとすれば……。彼女は、自分を捨てた旦那のことを相当に憎んでいたにちがいない。自分が極悪非道な連中にヤラれたのと同じことを、旦那にも味あわせてやりたかったんだろうよ」
そう言って、老人は悲しそうな目で天井を仰いだ。
それから、かれはとつぜん、なにかを思い出したように、こうつけ加えた。
「ああ。それと、死体が見つかった現場では、すごくいい匂いが漂っていたらしい」
「匂い……ですか?」
「甘ったるいキンモクセイの香りがしたって。女物の香水の香りだそうだ。生前レイコさんがつけていたものかもしれんな。わからんが……。まあ、わしが知っているのは、これだけだ」
そうか……。オレがあの家で感じたニオイ。あれってキンモクセイだったのか。どうりで嗅いだ覚えがあるわけだ。
老人は話が終わると、オレの顔をしっかりと見ながらこう言った。
「あと一ヶ月で、あの家の解体工事が始まる。近所の住職にお祓いも頼んだ。以前のわしなら、そんなものにはビタ一文も支払わなかっただろうがね。だが今回は、できることはなんでもするつもりだ。すべてが終わったら、わしのほうから連絡する。だからお前さんも、それまであの建物には近づくなよ? わかったな?」
その夜、オレは老人の勧めで、かれの部屋に一泊した。しかし状況が状況なだけに、結局一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
翌朝、オレは自宅のアパートにもどると、急いで荷物をまとめて、芸人仲間の家に転がりこんだ。
ファンのストーカー女に追われていると適当な理由をでっち上げて――そうでも言わないと、当時のオレの仲間たちはあの家に突撃しかねなかったのだ――友だちの家を点々としながらやり過ごし、老人からの連絡を待った。
二ヶ月後、老人から「すべて終わった」と電話で連絡をもらった。自宅にもどる途中で、例の建物のあった場所を通ると、そこはすでに更地となっていた。
オレは信心深いほうではなかったが、なんとなくその場で手を合わせて、「どうかレイコさんの魂に安らぎがありますように」と祈りを捧げた。
老人は、レイコさんが夫のことを相当恨んでいたと考えていたようだけど……。オレには、どうもそれだけじゃないように思えた。
彼女は、同時に愛してもいたんだ。事実、二階で見つかった変死体の顔には、傷がついていなかった。おそらく彼女は、好きだった男の顔――実際はそっくりさんだったけど――を傷つけたくなかったんだと思う。
それと香水の件もそうだ。なぜ彼女は幽霊になってからも、香水の匂いを辺りに漂わせていたのだろうか? いったいなんのために、そんなことを?
これはオレの勝手な推測だが……。たぶん必死に保とうとしていたんだと思う。生前の美しい姿を。その頃の香りを身にまといながら……。夫の記憶する以前の自分を少しでも保ちながら、彼女は愛する人の帰りを待ちつづけた。
あの家で、たったひとりで……。幽霊となった自分をはっきりと認識できぬまま待ちつづけて……。やがて愛と憎しみが増幅し、彼女は悪霊となった。
首を吊った影響でノドがつぶれ、声も出せない。その代わりに音を使い、夫に似た顔の男を、家に誘導して引きずりこむタイプの地縛霊が生まれてしまった。
それがこの「トントントン事件」の真相ではないかと、オレにはそんな風に思えるのだ。
死後も待たせつづけた夫。つくづく罪深い男だと思う。
老人の言う通り、こいつはとんでもないクソ野郎であることにまちがいない。きっと葬式も墓参りも、冥福を祈ることすらもしていないはずだ。
だって、ほんとうに悪いと思って、どこかのタイミングで彼女に手を合わせていたのなら――彼女は、人を取り殺すような悪霊にはなってなかったかもしれない。きちんと成仏できていたかもしれないのに……。
「できればその男には、レイコさん以上の最悪の結末が訪れますように……」とオレは、彼女への祈りとともに、畜生の夫への天罰を心から願うと、廃屋のあった更地をあとにした。
あれから十五年――
オレはお笑い芸人の道をとっくにあきらめて、故郷にもどった。いまは地元の小さな食品工場で働いている。
あの日、かわいそうなレイコさんに対して、ふしだらな想いを抱いた罰なのか、オレはいまだ独身のままだ。友だちは多いが、結婚はできていない(単にオレがモテないだけなんじゃないかって? ハハッ、ご名答!)。
あいかわらず酒を飲むのは好きだ。でも深夜に飲み歩くのはやめた。音が怖いからだ。あの一件以来、夜道を歩くときは、余計な音が聞こえてもいっさい興味を持たないようにしている。
だから、これを読んでくれたみんなも十分に気をつけてほしい。
深夜にひびく奇妙な物音……。
夜道だけじゃないぜ。
暗い廊下の隅っこや、クローゼットの奥なんかで、なにかがとつぜん「トン、トン、トン」なんて音を立てたら……。
決して、そこをのぞきこむな。音の正体も追うな。
それはあなたをつけ狙う、悪霊のしわざかもしれないのだから。




