ep.5 白霧の森
――冷たい。
最初に感じたのは、湿った土の感触だった。
「っ……」
ゼンはゆっくり目を開ける。
白い霧。
辺り一面が乳白色に霞んでいた。
木々は天を覆うほど巨大で、幹には青白い苔がびっしりと張り付いている。
見たことのない植物だった。
葉は半透明で、微かに光っている。
「……ここ、どこだよ」
身体を起こす。
頭が痛い。
空間に吸い込まれた感覚だけは覚えていた。
「ゼン」
声がして振り返る。
カノンがいた。
少し離れた場所ではジルフィとジーフが周囲を警戒している。
「無事か」
「なんとか……」
ゼンは立ち上がった。
地面には薄紫色の草が生えている。
踏むと微かに発光した。
「うわっ」
「発光草だな」
ジーフが気軽に言う。
「夜道で便利なんだぞ」
「普通に生えてんの!?」
ゼンは周囲を見渡した。
霧の森。
巨大な木々。
遠くで鳴く鳥の声。
だがその鳥の鳴き声も妙だった。
金属音みたいに響く。
「……日本じゃないよな、絶対」
「当然だ」
ジルフィが短く答える。
「ここはドリームランドだ」
ゼンは言葉を失った。
異世界。
ほんとに来たのか。
空を見上げる。
枝葉に隠れて見えづらいが、空の色が少し違う。
青というより群青色に近かった。
「マジかよ……」
現実感がなかった。
夢みたいだった。
だが空気の匂いも、湿度も、足裏の感触も妙にリアルだ。
「……ロキは?」
ゼンが辺りを見回す。
黒猫の姿がない。
さっきまで肩にいたはずなのに。
ジーフも周囲を見渡した。
「あれ、ほんとだ」
「消えたな」
ジルフィはあまり気にした様子もなく言った。
「え、心配じゃないのか?」
「ロキだからな」
「いや意味分かんねぇって」
ジルフィは少し考えるように目を細めた。
「……説明が難しい」
「難しい?」
「ドリームランドに生まれた者は、皆ロキの存在を認識している」
「え?」
「昔からいる。当たり前のようにいる。だが……何者なのか説明しろと言われると誰にも出来ない」
「なんだそれ」
ジーフも腕を組む。
「なんていうか、“そういうもの”なんだよなぁ」
「村にいても違和感ないし、いつの間にか消えてる時もあるし」
「子供と遊んでたりもする」
「でも気づいたら神様みたいなこと言ってるし」
「訳分かんねぇ……」
ゼンは頭を抱えた。
カノンが少しだけ笑う。
「ロキは昔話にもよく出てくるよ」
「有名なのか?」
「うん。でも結末が全部違うの」
「は?」
「村によって言うことが違う。英雄だったり、災厄だったり、ただの旅猫だったり」
ゼンは遠い目をした。
「なんだその都市伝説」
その時。
頭上から羽音が響いた。
ブゥゥゥン……
「っ!?」
ゼンが身構える。
だが現れたのは敵ではなかった。
蝶だった。
ただし。
大きさが犬くらいある。
「でっか!?」
虹色の羽を揺らしながら、ゆっくり森を横切っていく。
羽から光の粒が零れていた。
ゼンは呆然と見上げる。
「……すげぇ」
「霊燐蝶だな」
ジーフが言う。
「森のマナを食べて生きてる」
「マナ?」
「魔力みたいなもん」
ジーフは地面を指差した。
「この世界は、空気にも水にもマナがあるんだよ」
「だから植物も生き物も、現世とは違う」
ゼンは改めて森を見た。
よく見ると、木々の幹を小さな光が流れている。
血管みたいだった。
耳を澄ますと、水音が聞こえる。
だが川は見えない。
森そのものが呼吸しているみたいだった。
「……異世界だ」
ようやく実感が湧いてきた。
ジルフィが背を向ける。
「近くの村へ向かう」
「村?」
「ここは霧深い森だ。夜になると危険生物も出る」
「危険って……」
「お前では勝てん」
「はい」
即答だった。
ジーフが笑う。
「素直でよろしい」
カノンも立ち上がる。
「歩ける?」
「まぁなんとか」
本当は疲れていた。
だが止まっている方が不安だった。
ジルフィは森の奥を見る。
白い霧の向こう。
「ここから東に小さな集落がある」
「安全なのか?」
「比較的な」
「比較的って怖いな……」
ゼンはぼやきながら歩き出した。
森は静かだった。
だが不思議と恐怖はない。
むしろ。
知らない世界への高揚感が勝っていた。
木々の隙間を、小さな発光生物が飛んでいく。
遠くでは巨大な鹿みたいな生き物がこちらを見ていた。
角に花が咲いている。
「すげぇな……」
ゼンは思わず呟く。
するとカノンが少し嬉しそうに笑った。
「ドリームランド、嫌いじゃないでしょ?」
ゼンは少し考えてから答えた。
「……まだ分かんねぇ」
でも。
悪くないと思った。




