ep.4 境界守の里
山の空気は、不思議なくらい静かだった。
里へ案内されたゼンとカノンは、大きな囲炉裏のある木造の建物に通されていた。
火の爆ぜる音。
薬草の匂い。
外では狼たちの遠吠えが聞こえる。
さっきまで化け物に追われていたとは思えないほど穏やかな空間だった。
「ほら、水」
ジーフが木のコップを差し出す。
「あ、どうも……」
ゼンは受け取り、一気に飲み干した。
冷たい。
やっと少し落ち着いてきた。
カノンは部屋の隅で治療を受けている。
年老いた狼の女性が薬草を巻いていた。
「……傷、深いな」
「ごめんなさい」
「謝るな。生きて戻っただけ上出来だ」
そのやり取りを聞きながら、ゼンはぼんやり火を見つめた。
現実感がない。
学校帰りだったはずなのに。
気づけば喋る狼の里にいる。
「整理が追いつかねぇ……」
ロキが囲炉裏の前で丸くなる。
「追いつく必要ある?」
「あるだろ普通!」
「まぁそのうち慣れるよ」
「慣れたくねぇよ」
ジーフが笑う。
「でも、ロキ様と普通に喋ってる時点で適応早いぞ?」
「様付けなのかよコイツ」
「一応、かなりヤバい存在だし」
「へぇ」
「軽いなぁ」
その時。
襖が開いた。
ジルフィだった。
ゼンたちは自然と姿勢を正す。
彼女は囲炉裏の向かいに静かに座った。
「……少し話をする」
金色の瞳がゼンを見る。
「お前は、自分が何に巻き込まれたか理解しているか?」
「全然」
即答だった。
ジーフが吹き出す。
だがジルフィは真顔のままだ。
「なら順番に説明する」
囲炉裏の火が揺れる。
「まず、この世界には“境界”がある」
「境界?」
「世界と世界を隔てる壁だ」
ゼンは眉をひそめた。
「世界って……異世界とか?」
「そうだ」
あまりにも自然に言われて、逆に反応できなかった。
ジルフィは続ける。
「お前たちがいた場所――現世。人族は“三次元世界”とも呼ぶ」
「三次元……」
「本来、魔法の存在しない世界だ」
「……でもさっき普通に魔法あったよな?」
「あれは“向こう側”の力だ」
ジルフィが言う。
「別世界――ドリームランド」
カノンが静かに目を伏せる。
「私の故郷」
ゼンは彼女を見る。
「……本当に異世界人なんだな」
「うん」
カノンは小さく頷いた。
「私は、ルーディン王国から逃げてきた」
「追われてた理由は?」
そこでカノンは少し黙った。
代わりにジルフィが口を開く。
「王族絡みだろう」
「……」
カノンは否定しなかった。
ジルフィは続ける。
「本来、世界同士は交わらない。だが稀に“歪み”が生まれる」
「歪み?」
「時空の裂け目だ」
ゼンは思い出す。
空が割れた光景。
「あれか……」
「近年、その歪みが増えている」
ジルフィの表情が険しくなる。
「何かが世界を揺らしている」
ロキが尻尾を揺らした。
「混沌の匂いがするねぇ」
「お前は知っているのか」
「さぁ?」
ロキは笑うだけだった。
ジルフィはため息を吐く。
「この里は、その歪みを監視する役目を担っている」
「監視?」
「境界守だ」
囲炉裏の火が揺れる。
「異界の災いが現世へ流れ込まぬよう、我ら山神が見張っている」
ゼンは静かに聞いていた。
スケールがデカすぎて現実感はない。
だが。
ジルフィたちの表情を見る限り、冗談ではない。
「じゃあ……ここは安全なのか?」
「基本的にはな」
ジーフが胸を張る。
「この里には古い結界があるんだ。普通の魔族程度じゃ入れない!」
「へぇ……」
少し安心しかけた、その時だった。
ロキの耳がピクリと動いた。
笑みが消える。
「……あ」
ジルフィも立ち上がる。
金色の瞳が森の奥を見る。
「全員、下がれ」
空気が変わった。
ゼンの背筋が凍る。
理由は分からない。
だが本能が理解した。
“ヤバい”。
森の奥。
暗闇の中で。
何か青いものが光った。
ゆっくり。
ゆっくりと。
それは姿を現す。
巨大な狼。
黒い霧を纏っている。
異様に長い脚。
青白い瞳。
そして。
見ているだけで頭痛がする。
「……なんだ、あれ」
誰も答えない。
ジーフですら震えていた。
ロキだけが静かに呟く。
「ティンダロスの猟犬」
ゼンは息を呑む。
猟犬。
そいつは里を見るでもなく。
真っ直ぐ“ゼン”を見ていた。
「……ぇ」
青い瞳。
感情がない。
獣というより機械みたいだった。
次の瞬間。
空間が軋んだ。
――ミシッ。
耳障りな音。
森の奥の空間に“亀裂”が走る。
「まずい!」
ジルフィが叫ぶ。
「離れろ!!」
だが遅かった。
バキン!!
空間が割れた。
黒い裂け目。
その奥には、星空みたいな闇が広がっている。
凄まじい吸引力。
「うわっ!?」
ゼンの身体が浮いた。
カノンが叫ぶ。
「ゼン!!」
「掴まれ!」
ジルフィが飛び込む。
だが。
猟犬が一歩前へ出た瞬間、時空が完全に崩壊した。
重力が消える。
視界が歪む。
ゼンは最後に、青い瞳を見た。
ティンダロスの猟犬。
それはまるで。
“ゼンを追ってきた”みたいだった。
「落ちるッ――!!」
世界が反転した。




