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ep.3 山の社

 森は静かだった。


 雨音だけが木々を叩いている。


 先を歩く銀狼の背中を見失わないように、ゼンとカノンはぬかるんだ山道を進んでいた。


 住宅街から少し入っただけなのに、別世界みたいだった。


 空気が違う。


 妙に冷たくて、澄んでいる。


 耳鳴りみたいな感覚がずっと続いていた。


「……なぁ」


 ゼンが小声で言う。


「まだ着かないのか?」


 狼は振り返りもせず答えた。


「もう少しだ」


「その“もう少し”が長いんだけど……」


「文句が多いな」


「いや普通言うだろ」


 ゼンは息を吐く。


 足が重い。


 普段ほとんど運動していない高校生には山道はキツかった。


 カノンの方を見る。


 彼女もかなり疲れているらしい。


 傷のせいで顔色も悪い。


「大丈夫か?」


「……うん」


 だが声に力がない。


 ゼンは少し迷ってから言った。


「肩、貸すか?」


 カノンが目を瞬かせた。


「え?」


「いや、その……フラついてるし」


「……」


 少し沈黙。


 それからカノンは小さく笑った。


「優しいね」


「普通だろ」


「普通の人は、知らない人を命懸けで助けない」


「……」


 ゼンは言葉に詰まる。


 そんな立派な理由じゃない。


 本当は怖かった。


 逃げたかった。


 でも。


 あそこで見捨てたら、昔の自分まで消えてしまう気がしただけだ。


 ロキが肩の上でニヤニヤしている。


「青春だねぇ」


「お前黙ってろ」


「照れてる?」


「うるせぇ」


 カノンが少しだけ笑う。


 その笑顔を見て、ゼンは妙に安心した。


 ちゃんと笑えるんだ、と。


 最初に会った時のカノンは、ずっと追い詰められた顔をしていたから。


 しばらく歩くと、森が開けた。


「……え?」


 ゼンは立ち止まる。


 山奥。


 そこに、小さな集落があった。


 木造の家。


 石灯籠。


 吊るされた提灯。


 そして。


 あちこちに“狼”がいる。


 二足歩行で歩いている奴もいれば、普通の狼みたいに寝転がっている奴もいた。


 だが全員、知性のある目をしていた。


「なんだここ……」


「陽炎の里だ」


 先導していた銀狼が答える。


「我ら山神の一族が暮らす地」


 ゼンは口を開けたまま固まる。


 夢みたいだった。


 現実感がない。


 すると。


「おおー!」


 突然、小柄な狼が駆け寄ってきた。


 二足歩行。


 灰色の毛並み。


 まだ若いらしく、どこか犬っぽい。


「客か!?」


「騒ぐな、ジーフ」


「でも人間じゃん!」


「見れば分かる」


「それもそう!」


 ジーフと呼ばれた狼はゼンの周りをぐるぐる回る。


 尻尾がうるさいくらい揺れていた。


「うわ、すげぇ! 本当に普通の人間だ!」


「普通じゃ悪いか」


「いや? なんか弱そうだなって!」


「初対面で失礼すぎるだろ!」


 ジーフはケラケラ笑った。


 その時。


 里の奥から、ゆっくり誰かが歩いてくる。


 空気が変わった。


 狼たちが道を開ける。


 現れたのは、一人の女性だった。


 長い銀髪。


 鋭い金色の瞳。


 黒い和装。


 腰には細身の刀。


 美人だ。


 だが同時に、かなり怖い。


「おかえり、ジーフ」


「ジルフィ様!」


 ジーフが背筋を伸ばす。


 女性――ジルフィは、まずカノンを見た。


 次にゼン。


 最後にロキ。


 そこで少し眉をひそめた。


「……厄介なのを連れてきたな」


「失礼だねぇ」


「事実だ」


 ロキが笑う。


 ジルフィはため息を吐き、それからカノンに近づいた。


「傷を見せろ」


「……はい」


 カノンが外套を少しずらす。


 裂傷を見た瞬間、ジルフィの目が細まった。


「魔族の呪い傷か」


 ゼンが顔をしかめる。


「呪い?」


「普通の治療では治らん」


 ジルフィは静かに言う。


「放置すれば、いずれ命を落とす」


 ゼンの顔色が変わった。


「お、おい……!」


「慌てるな」


 ジルフィは里の奥を顎で示す。


「まずは休め。話はその後だ」


 その声音は冷たい。


 だが不思議と安心感があった。


 ゼンはそこでようやく、全身の力が抜けた。


 極限まで緊張していたらしい。


「……疲れた」


「顔色悪いよ?」


 ロキが言う。


「誰のせいだと思ってんだ」


「君の運命?」


「殴るぞ」


 ジーフが笑う。


「面白い奴だな、お前!」


「そりゃどうも……」


 ゼンはぼんやり空を見上げた。


 雨はいつの間にか止んでいた。


 山の空気は静かで。


 遠くで焚き火の匂いがした。


 さっきまで命を狙われていたのに、急に現実感が薄れていく。


 だが。


 ここから戻れない。


 そんな予感だけは、はっきりあった。

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