第四話 二人目の迷い人 1
その年は雪の多い年だった。
森の木々は白い綿帽子をかぶり、葉を落とした低木も苔むした岩も見慣れた獣道も、すっかり輪郭を失っていた。
空は鉛色に沈み、木々のあいだには薄暗さが満ちていた。風が吹くたびに枝に積もった雪が音もなく落ちて、新しく白い跡を重ねていく。
その日も雪は昼を過ぎた頃から降り続いていた。
エルフは朝のうちに薪を運び込み、炉のそばに積み上げてあった乾燥きのこの束を整理していた。冬は食材が乏しくなる季節だが、彼にとっては保存しておいたものを少しずつ使いながら、暖かい料理を作る楽しみのある季節でもあった。
豆を水に浸し、鍋に根菜と干し肉を入れて火にかける。
あとはときどき蓋を開けて煮え具合を確かめればいい。
窓の外は、もうほとんど夜だった。
森の入口からここまではそう遠くはない。
だが、そこから少し外れたこの窪地は木々の枝と地形に隠されて、人間が薪や木の実を探しに入る場所からは家の屋根さえ見えなかった。
こんな日に森の奥へ入る者など普通はいない。
だから戸を叩く音がした時、エルフはしばらくそれが本当に戸を叩く音なのかを疑った。風で枝が壁に当たったのかもしれないし、雪の重みで屋根のどこかが鳴ったのかもしれない。
しかし、もう一度、今度は少し弱々しい音がした。
エルフは鍋の火を確かめてから立ち上がった。念のため窓際に置いていた斧を手に取る。戸を開けると、雪の匂いと冷たい空気が流れ込んできた。
そこに立っていたのは壮年の男だった。
年は五十をいくらか過ぎたくらいだろうか。厚手の外套には雪が張りつき、肩や袖はぐっしょりと濡れて色が濃くなっている。頬は寒さで赤くなり、額に張りついた髪からは雫が落ちていた。背には弓を負い、腰には兎を二羽提げていた。
男は戸の向こうにいるエルフを見ると、驚いたように目を見開いた。
「……エルフが住んでいたのか」
「だったらどうした」
男は困ったように笑った。
息をするたびに白い吐息が口元に立ちのぼる。
「すまない、こんな時間に。道を見失ってしまって……」
「どこから来た」
「サンバルアだ。この森で鹿を見かけたという話を聞いて朝から入っていたんだが、足跡を追っているうちに思っていたより奥へ来てしまった。気づいたときには日が暮れていて。戻ろうとしたんだが、この雪でな」
隣町から来たらしい男は背後を振り返った。そこには木々と雪しかない。
どちらから来たのか、もう本人にもわからないのだろう。
「ここはどの辺りなんだ?」
「ヴィアンまで一時間。サンバルアへ戻るなら、もっとかかる」
「そうか…今から出れば今日中には戻れそうだが…この雪じゃあな」
それを聞いて、エルフは黙った。
男の外套は溶けた雪がしたたるほど濡れている。頬は赤いが唇の色はよくなかった。兎を二羽も仕留めているのだから狩りの腕はあるのだろうが、それと夜の雪山を無事に歩けることは別の話だった。
ここで帰せばどうなるか。
遭難されても困る。翌朝、森のどこかで凍えた人間が見つかるようなことになれば、それも面倒だった。そもそも目の前で凍えて今にも倒れそうな者を、改めて雪の中へ追い出す気にはなれない。
エルフは小さく息を吐いた。
「入れ」
「え?」
「聞こえなかったのか。今夜は泊まっていけ。夜が明けてから帰ればいい」
男は一瞬、何かを言いかけたまま口を閉じた。それから深く頭を下げた。
「助かる。本当にありがとう」
「礼はいい。戸を閉めろ。雪が入る」
男が慌てて戸を閉める。エルフは外套を脱ぐように言い、濡れたものを掛けておくよう壁のフックを指さした。靴についた雪を落とさせ、暖炉のそばに椅子をひとつ出す。腰を下ろした途端、男は張り詰めていたものが切れたように長い息を吐いた。
「……生き返る心地だ」
エルフは濡れて赤く腫れた手を温めるように言い、湯を沸かす。男は何か言おうとしていたが、そのたびにエルフが無言で炉の方へ行って鍋をかきまぜたり暖炉の薪を足したりと動き回るので、やがて諦めたようだった。
木製のマグに湯を入れて渡すと、男は両手で包むようにして受け取った。冷えきった指先がじんわりと温まっていく。
「これから夕食にするが、食べるか」
「そこまで世話になるわけには……」
「食べないならそう言え。余計な気遣いはいらない」
その素っ気ない言葉に、男は目を丸くして苦笑した。
「正直なとこ、腹ぁ減ってたんだ。ありがたい」
「そうか」
エルフは鍋の蓋を開けた。
根菜と豆の煮込みはもう十分に火が通り、干し肉の旨みが溶け出した汁からふわりと美味しそうな香りが立った。男の視線が鍋に向いたのを見て、エルフは器をふたつ取り出す。
男は戸口に置いていた兎を見た。
「なあ、俺のせいであんたの分の夕食が少なくなっちまうだろう?俺は料理人なんだが、泊めてもらうかわりに、これで何か作らせてもらえないか」
「料理人?」
「ああ。サンバルアで料理屋をやっている。普段は店に立っているんだが、久しぶりに鹿肉の料理でも出せたらと思ってな。まあ結局、兎しかとれなかったんだが。もちろん、嫌ならやめる」
エルフは男を見た。
料理人。
その言葉に、わずかな興味が湧いた。人間が何を食べ、どう暮らしているのかを、彼は長年遠くから眺めていた。町の店先で売られている焼き菓子や、旅人が持ち歩く干し肉、祭りの日に人々が囲む大鍋など、食べ物についてなら人間の暮らしにも興味がある。
けれど、料理を生業にする人間とこうして向かい合うのは初めてだった。
「……好きにしろ。ただし道具は勝手に探すな。必要なものを言え」
「わかった。ありがとう」
男は立ち上がろうとして、ふらついた。
「座っていろ。先に温まれ」
「いや、でも」
「その状態で刃物を持たれたる方が危ない」
「はは、確かに」
エルフは笑わなかったが、男が椅子に座り直すのを見届けてから台所へ戻った。




