第三話 森で迷う人 3
朝になると、雨は上がっていた。
男は熱を出さなかった。傷はまだ痛むようだったが、昨日より顔色がよくなっている。
エルフは薬草を取り替え、乾いた服を渡した。
「森の入口まで送る」
そう言うと、男は少し驚いた顔をした。
「そこまでしてもらうわけには」
「道がわからないだろう」
「……そうだな」
男は口を閉じた。
朝食には昨夜の煮込みを温め直したものを出した。ひと晩置いた豆は汁を吸い、燻製肉の香りが全体に馴染んでいた。根菜は崩れすぎず、豆は匙で押せば簡単に潰れるほど柔らかくなっている。
男は昨日と同じように、ゆっくりと食べた。
「昨日も思ったけど、これ、本当にうまいな」
「そうか」
それだけ答えた。
男はまた笑ったようだったが、エルフは顔を上げなかった。
食事を終えると、ふたりは家を出た。
昨日の大雨が嘘のように晴れ、雨に濡れた森は朝の光を受けて明るくなっていた。枝先の水滴がきらきらと光り、苔の上には小さな虫が動いている。木の根をまたぐたびに男は脇腹を押さえたが、昨日のように倒れそうになることはなかった。
森と街道の境目まで会話はなかったが、別れ際に男は言った。
「世話になった。名前を聞いてもいいか」
エルフは答えなかった。
男は少し待ったあと、困ったように笑い、頭を下げた。
「そうか。無理にとは言わない。助けてくれてありがとう」
エルフは小さくうなずいた。
男は町の方へ向かって歩き始めた。
何度か振り返りそうになりながら、結局、一度も振り返らなかった。
その背中が木々の向こうへ消えるまで、エルフはそこに立っていた。
やがて男の姿が見えなくなり、エルフはひとりになった。
森は静かだった。
鳥が鳴き、葉の上の水滴が落ちる。風が枝を揺らし、遠くの沢から水の音が聞こえてくる。
何も変わっていない。
彼は家へ戻った。
寝台の布を取り替え、使った食器を洗い、昨日できなかった薬草を仕分けて壁に吊るした。
その日の夕食は、昨日の夜に決めていたとおり茸と根菜のパイを作った。
薄く伸ばした生地に炒めた茸と刻んだ根菜を詰め、縁を指で押さえて閉じる。
鉄板の上でじっくり焼くと、生地の表面はきれいなきつね色になり、包みの継ぎ目から野菜の甘い匂いが漏れた。
焼き上がったひとつを皿に移し、ナイフで割る。
中から湯気が立ち上った。
茸の汁を吸った生地は内側だけ柔らかく、焦げ目のついた外側には香ばしさが残っている。根菜はまだ少し歯応えがあり、噛むと甘みが広がった。
うまかった。
いつもどおりの、自分の食事だった。
彼はゆっくり食べた。
食べ終わるころになって、ふと昨夜のことを思い出した。
男が椀を両手で持っていたこと。
パンを汁に浸していたこと。
最後のひと口を食べたあと、少しだけ名残惜しそうに椀の底を見ていたこと。
そして、あの言葉。
――うまいな。
エルフは皿を見下ろした。
別に、特別な料理を作ったわけではない。豆も根菜もいつも使っているものだった。燻製肉を少し多めに入れたくらいで、味つけも普段と変わらない。
それでも、誰かが自分の作ったものを食べてあんなふうに言った。
そのことが思っていたよりも長く頭に残っていた。
彼は皿を片づけた。
男が使った椀は、棚の奥へしまった。




