第三話 森で迷う者 2
男はエルフを見ると、ひどく安堵した顔をした。
「ああ、よかった。人がいた」
「人じゃない」
そう言ってから、エルフは少し後悔した。
男が目をわずかに見開いたからだ。
「……エルフか」
「見ればわかるだろう」
「いや、森で暮らしているエルフに会うのは初めてでな」
「そう」
エルフはため息をついた。
このまま置いていけば、男は動けないまま夜を迎えるだろう。
怪我の程度はわからないが、少なくともこの大雨の中、ひとりで町まで戻れるようには見えなかった。
もし死んでしまったら、血の匂いで獣が寄ってくるかもしれない。家の近くまで獣が下りてくるようになれば面倒なことになる。だから仕方なく手を貸すのだ。
エルフは籠を置いてしゃがむと、男の腕を自分の肩へ回した。
「歩けるか」
「ああ」
男は歯を食いしばって立ち上がった。体重がかかると膝が折れかける。
思わず出かかった舌打ちを飲み込み、男の腕を肩に掛け直した。
重かった。
右手で体を支え、左手で籠を持つと、家へ向かって歩き始める。
家に着くまで二人は何も話さなかった。
扉を開けて男を椅子へ座らせる。外套を脱いで戸の脇にかけると、男の濡れた上服と外套も脱がせて傷口を丁寧に洗い、薬草を潰して布に包むと包帯をぐるりと巻いた。手当てが終わる頃には、男は疲れ切って目を閉じていた。
「……悪いな…おかげで助かったよ」
男が言った。
エルフは薬草の残りを片づけ、男を寝台へ座らせる。
「まだ助かったかわからない。傷から毒が入ると熱がでる。今夜は大人しく寝ていろ」
「でも、ここは……」
男は言葉を探すように口を閉じ、周囲を見回した。
質素な部屋だった。壁には乾燥した薬草が吊るされ、棚には瓶と壺が並んでいる。
室内はほんのりと明るく、外では雨が屋根を強く叩き続けていた。
「あなたの家なのか」
エルフは黙って頷くと、火を起こして水を張った鍋をかけた。
男を連れてきたせいで予定していた薬草の仕分けはできなくなった。
濡れた服を乾かす場所も必要だし、寝台を明け渡してしまったので、今夜は長椅子で眠らなければならない。
考えただけでとても面倒だった。
鍋に豆を入れ、刻んだ根菜を加えた。干し肉と茸も細かく刻み、鍋に加えて塩をふた匙。炭を減らして火を弱める。最後に乳を加え、煮立たせないよう木べらでゆっくり混ぜると、白かった汁が淡い茶色へと変わっていった。そのまま豆が柔らかくなるまで煮込む。
鍋から、ゆっくりと香りが立ち始めた。
豆が煮崩れて汁に溶け込み、全体にとろみがついていく。最後に塩をひとつまみと挽いた胡椒を少々。乾燥させておいた香草も指先で砕いて散らした。
男はその間、余計なことを尋ねなかった。
それがかえって、落ち着かなかった。
人間は大抵沈黙を嫌う。気まずくなると何かを話そうとするし、親切にされれば礼を言い、礼を言えば会話が始まる。ところがこの男は礼らしきことは口にしたものの、それ以上は何も言わず、ただ立ち働くエルフと炉の火をじっと見ていた。
パンは昨日焼いたものがまだ残っている。表面は少し硬くなっていたが、汁に浸せば問題ない。
パンを切り、木製の椀を2つ出したところで、エルフは手を止めた。
なぜ、2つ出したのだろう。
男がいるからに決まっている。食事を与えると約束したわけではないが、何も食べさせずに怪我人をただ寝かせるのも気が引けた。それに今夜は少し多めに作ってしまった。2日ほどかければ一人で食べきれない量ではないが、残すよりは今のうちに食べてしまったほうがいい。そういうことにした。
椀に煮込みをよそい、寝台へと声を掛ける。
「食べるか」
そう聞くと、男は少し驚いた顔をした。
「いいのか」
「食べられないなら、別に」
「いや、食べられる。ありがたい」
エルフは椀にパンを添えて、寝台のそばの台へ置いた。
湯気と一緒に茸と肉のよい匂いが香る。男は匙を手に取り、汁をひと口すすった。
熱かったらしく少し息を吹きかけてから、今度はゆっくりと口に運ぶ。
エルフは自分の椀を見つめた。
仕方なく出してやったのだから味のことなど気にしていない。食べられるものを作っただけだ。そう思っていたのに、男が匙を止めたので、つい顔を上げてしまった。
「……うまいな」
男は、しみじみと言った。
「茸の味がよく出ている。こんなに温かいものを食べたのは久しぶりだ」
エルフは、何と答えればいいのかわからなかった。
料理を褒められること自体は、初めてではない。幼い頃、兄に焼き菓子を作った時や、この森で迷った子どもに木の実を煮たものを与えたときも、おいしいと言われたことはある。
けれど、それをどう受け取ればいいのかは、いまだによくわからなかった。
「……冷めるぞ」
結局、それだけ言った。
男は笑った。大きな声ではなかった。気を遣うような笑い方でもない。ただ、目の前の食事がうれしいという顔だった。
エルフは視線を皿に戻した。
茸は柔らかく、肉の旨みが汁に溶けている。パンを浸すと、粗い麦の生地が汁を吸い、噛むたびにバターと胡椒の香りが鼻へ抜けた。いつもと変わらずおいしかった。
だけど、いつもとは何か味が違うような気もした。
食事を終えた男はまもなく眠ってしまった。疲れ切っていたのだろう。規則正しい寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。
エルフは使い終わった食器を洗った。
水を含んだ布で椀をこすり、別の乾いた布で拭いてから棚に戻して、明日の朝に使う水を汲んでおく。いつもどおりの仕事を終えてから寝台に目をやった。
男は大きな身体を丸め、片方の腕を顔のそばに置いて眠っている。健やかな寝息に熱は出ていないようだと思う。
外套も服も椅子の背にかけて乾かしている。泥だらけの靴は入口に揃えて置かれていた。
明日になればこの男はいなくなる。
そう考えると、ようやくいつもの暮らしに戻れる気がした。
長椅子にクッションをいくつか置き、頭をのせて毛布にくるまると目を閉じた。
明日は茸の残りを使ってパイを焼こう。
そう決めてから、しばらくしてふと思った。
あの男は、朝食を食べてから出ていくのだろうか。




