第三話 森で迷う者 1
あれからも何度も町に行ったが、結局、屋台のパンも飴菓子も煮込みも食べることはなかった。
そのうち町へ行くたびに、知らない顔が増えた。
見知った顔がいなくなることも増えた。
以前見かけた子どもは背が伸び、荷車を引くようになっていた。
よく広場で笑っていた男は、しばらく姿を見せなくなった。
屋台の女の髪には白いものが混じり始め、同じような顔をした若い女が手伝うようになった。
だが、彼はそれらを特に気に留めることはなかった。
いつもの道を通り、いつものように森へ帰る。
ただ雑貨屋は店主の娘が店を切り盛りするようになった。
父親は奥の椅子に座り、客の相手をすることが少なくなった。
エルフは相変わらず品物を指で示し、代金を払って、包みを受け取った。
森の暮らしも変わらなかった。
薪を割り、火を熾し、食材を集め、食事を作る。
食べ終えれば皿を洗い、鍋をすすぎ、翌日のために豆を水に浸す。
朝には薄い粥を食べる日もあれば、焼きたてのパンに蜂蜜を塗る日もある。
夕食には豆や茸、森で採った野草の煮込みを作り、川で捕れた魚を香草と一緒に焼く。
たまに肉が入ることもある。
町で見かけた「食べてみたい」と思った料理を参考に、色々と工夫を重ね、作る料理の種類を少しずつ増やして行った。
美味しくできると、これで十分だと満足した。
ある年の初夏。
かつてないほどの大雨が降った。
朝は晴れていたのに、昼を過ぎると急に空が暗くなり、風が木々の梢を大きく揺らした。
遠くで雷が鳴り、間もなく大粒の雨が葉を叩き始めた。
エルフは、家よりもっと深い森の奥で薬草を摘んでいた手を止めた。
雨宿りをするなら、この近くにある岩棚の下がいい。
そこなら風も避けられるし、地面がぬかるんでも足場は崩れない。
彼は籠を抱え直し、家へ戻る道を外れ足早に岩棚へと向かった。
その途中ふと、自然のものとは違うなにかの匂いを感じて足を止めた。
獣の匂いではない。濡れた革と、汗と、鉄の匂い。
奥深い森の中では、ほとんど嗅ぐことのないものだった。
耳を澄ます。
雨音の向こうに、何かが擦れる音がした。
それから軽く咳こむ声。人間のようだ。
エルフは眉を寄せた。
この辺りに人間が来ることは、ほとんどない。
森の入口からは遠く、街道からも外れている。
稀に狩人が獣を追って入り込むことはあるが、こんな奥まで来る者は滅多にいなかった。
聞かなかったことにしよう、とエルフは思った。
森には時折こういう人間が入り込む。獣道を街道と思い込む者。川沿いを歩けば町へ出られると信じて上流へ上流へと進んでしまう者。日暮れまでには隣村へ着くはずだったのに、気づけば見知らぬ木々に囲まれ、帰り道どころか自分がどちらから来たのかさえわからなくなっている者。
エルフは森に入ってくる人間をあまり好まなかった。
そういう者はたいてい騒がしい。自分がどこにいるのかもわからないくせに、声だけはよく通る。助けを求める声はもちろん仲間を呼ぶ声も、獣を追い払おうとする怒鳴り声も、木々の間をいつまでも反響している。
静かに暮らしたい者にとっては、迷惑な話だった。
そもそも、どこにいるのかもわからない。
声のした方角にはゆるい斜面や倒木があり、向こう側まで遠回りしなければならなかった。
籠にはせっかく採った薬草や茸がどっさり入っている。人にかかずらっていたらそれらを傷めるかもしれないし、帰りが遅くなれば夕食の支度にも差し支える。
エルフは籠を持ち直し、歩き始めた。
何かがどさりと落ちる音がしたので斜面の下の方へ目をこらすと、木々の間に人影が見えた。
そこには一人の男がいた。
倒れた木の根元に背を預け、片膝を立てて座っている。
先ほどの音は、男が木の幹を背にしたままくずおれた衝撃音のようだった。
男が顔を上げ、立ち上がろうとした。
目が合いそうになり、エルフはすぐに視線を逸らした。
「……人だったか………」
男の声は掠れていたが明らかにホッとしたような声色だった。
エルフは答えなかった。
男はまた何か言おうとしたが、咳き込んだ。体を丸めて押さえた手に力を込める。痛みのためか、雨に濡れた寒さのせいか、肩が震えていた。
エルフはその場に立っていた。
怪我をしている。
それは見ればわかった。
だが自分が何かをする必要はない。人間が道を間違えたのなら、自分で戻るべきだ。ここまで来たのは男の都合であって彼には関係がない。
そう考えて、歩き出した。が、すぐに足が止まった。
まったく、どうしてこうなるのだろう。
人間が森に迷い込むのは、その人間の勝手だ。エルフが助けなければならない理由などない。森で暮らす者なら、誰だって知っている。むやみに他人の問題に首を突っ込めば、後になって厄介なことになる。礼を言われるだけならまだしも、助けた相手に住処を知られたり、親切を当たり前のように求められたりすることだってある。
それでも姿を見てしまった以上、知らないふりをすることは難しかった。
ため息をつきながらぐるりと回り込み、男へと近づく。
年の頃は三十に届くかどうか。日に焼けた顔に、短く伸びた髭。濡れた髪が額に張りつき、服は泥に汚れていた。
片方の手で脇腹を押さえている。指の間から、雨に薄まった血が流れていた。
あたりを見渡すと、斜面に滑った跡と、その先に太い木があった。
木は派手に折れており、突き出た枝には血がついていて、転がり落ちた拍子にこれで脇腹を切り裂いたのだろうと思った。




