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ひとりで生きるはずだった  作者: 柚木
第一章 森のエルフ
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第二話 人のいる場所 1

翌朝、エルフは塩壺の底に残った白い粒を指先で集めた。ほんのひとつまみ。

今夜の豆の味を整えるくらいの量しかない。油も少なくなっていた。

小麦粉の袋を開けてみると底に薄く広がるだけの量しかない。


エルフは窓の外を見た。

夜遅くに雨が降ったようで、森の木々にはまだ水滴が残っている。

枝の先から落ちる雫が、軒下の石をひとつずつ濡らしていた。

壺と袋を元の場所へ戻し、立ち上がる。 

扉の近くにかけてある外套を羽織り、籠を持って外に出た。


雨上がりの森は、土の匂いが深かった。

濡れた落ち葉が靴の下で柔らかく沈み、木の根に沿って細い水の流れができている。

鳥たちはいつもより早く鳴き始め、枝の間を渡る風が葉に残った水滴を揺らしていた。

彼は歩き慣れた道を進んだ。

街道へ出るまでには、獣道を踏み分けて行かなければならない。

出入りに困難な森の奥に住んでいるのは他に適当な場所がなかったからではなく、人目につかない場所の方が暮らしやすいからだった。

 

街道に出ると、荷馬車の音が聞こえた。

彼は道の脇へそっと退く。

馬の蹄がぬかるみを踏み、車輪が石を乗り越える。

荷台には木箱が積まれ、その隙間に座った男が退屈そうにあくびをしていた。

すれ違うとき、馬の手綱を持った男がこちらを見た。

エルフは顔を伏せた。

荷馬車が通り過ぎて行ったのを見送り、しばらくしてから歩き出す。


町の入口には古い石柱が二本立っていた。

片方の根元にはひびが入り、もう片方には、かつて誰かが刻んだヴィアンという町の名が記されている。

入口では先ほどの荷馬車の男たちが荷を下ろしていた。

若い男が木箱を抱えたまま足を滑らせ、隣にいた女がその腕をつかむ。

男が何かを言い、女は声を上げて笑った。

エルフは彼らの横を黙って通り過ぎた。


町はいつ来ても、少しずつ違っていた。

建物の壁に塗られた漆喰が剥がれていたり、知らない色の布が軒先に掛かっていたりする。  

以前あった店がなくなり、代わりに別の看板が掲げられていることもあった。

通りの石畳には新しい継ぎ目が増え、雨水の流れ方まで変わっていた。


人々の顔も、少しずつ変わっていく。

それでも、町の朝はいつも同じように始まる。

店の戸が開き、荷車が通り、子どもたちが大人の目を盗んで走り回る。

パン屋からは小麦の甘い香りが流れ、魚屋の前には銀色の鱗が光る。

水場では女たちが桶を洗い、広場では屋台の男が鍋に火を入れていた。

エルフは、なるべくそちらを見ないようにして歩いた。


パン屋の前を通ると、焼きたての生地の良い匂いがした。

嗅いだことのない甘い香り。

彼は足を止めかけた。

けれど、止めなかった。


今日買うものは決まっている。塩と油と豆に砂糖、それから小麦粉。

パンは家でも焼ける。

自分で焼けば、皮を厚くすることも香草を練り込むこともできる。色々試せば、きっと先ほどのような甘い香りのパンも作ることができるはずだ。

そう考えて通り過ぎた。


角を曲がると今度は、砂糖が煮詰まるときの少し苦みを含んだ甘い香りがした。

屋台の男が鉄鍋を揺すり、木の実を木べらで炒っている。鍋の中で木の実が触れ合うたび、乾いた小さな音がした。隣に置かれた板の上には溶けた砂糖が絡んだ木の実の塊が沢山並んでいる。


子供が母親にねだり、男が紙袋にその塊をいくつか入れて渡す。

子供は両手で受け取った。すぐに取り出し、ひとつ口に入れた途端に目を丸くする。まだ熱かったのだろう。

母親が笑い、子どもは頬を膨らませたまま何かを訴えた。露店の男が何かを言い、親子はまた弾けたように笑った。


エルフは通りの反対側を歩いていた。

それでも、木の実の表面に薄くまとわりついた砂糖が、光を受けて琥珀色に透けるところまで見えてしまった。


ひとつ、食べてみたい。

そう思った。

思っただけだった。


声をかけて品物を求め、代金を渡し、袋を受け取る。その間、初対面の店主と顔を合わせなければならない。あの男の様子だと何か話さなければならないかもしれない。それなら、いらない。

彼はそのまま歩いた。


買い物は北外れの雑貨屋で済ませることにした。

店主が寡黙な男で、必要最低限の会話で終わることの気楽さが良くて何度か利用している。

戸を押すと頭上の小さな鐘が鳴った。

ちりん、と乾いた短い音に、店の奥から店主が顔を出した。

中年の男で、片方の袖を肘までまくっている。初めて来たときより髪に白いものが増えていた。


エルフは棚の前で必要な品物をひとつずつ指で示した。

店主は何も言わず、指された通り塩と砂糖の袋、油の瓶、豆の壺、小麦粉の袋を台の上に並べた。油の瓶は底を確かめ、蓋を締め直してから布で包む。小麦粉は湿気を吸わないよう、袋の口をきちんと縛った。

エルフは硬貨と、前に買った豆の袋を取り出し、台の上へ置いた。   

店主が受け取る。

それで終わるはずだった。


「もう豆も買うのか」

店主が、壺から袋へ豆を移しながら言った。

エルフは顔を上げた。


他に必要なものがあるかと聞かれたのかと思ったが、店主は手元の袋を見ていた。

「いや、いつもより早く買いに来たもんでな、意外だっただけだ」

エルフは黙っていた。

豆がないから買いに来た、それだけのことだ。   

いつもより早く買いに来たからとその訳を説明する必要があるのだろうか。

しかも店主が何を知りたがっているのかもわからない。

沈黙が続いた。


やがて店主は気にした様子もなく肩をすくめた。

「まあ、よく食べるならいいことだ」

豆の袋をぎゅっと縛る。

「袋はまた次の時に返してくれればいい」

エルフは買った物を黙って籠に入れた。

返事はしなかった。


戸を開けると、鐘がもう一度鳴った。

通りの光がまぶしい。

エルフは店を出ようとして、ふと足を止めた。 

背後ではすれ違いに入って来た別の客が店主に声をかけている。

値段を尋ねる声。店主が答える声。何かについて言い合う声。そのどれもが彼に向けられたものではなかった。

それを確かめてから、ようやく歩き出した。

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