第一話 ひとりぶんの食卓
森の中にある家で、エルフはひとり夕食を作っていた。
窓の外では、日暮れの光が樹々の幹を赤く染めている。
湿った土の匂いと冬を前にした草木の枯れた香りが混じり、風が吹くたびに頭上の枝葉が重たげに擦れ合った。
町から歩いて一時間ほどの距離にある森。
町の暮らしと森の境目は曖昧で、少し足を延ばせば木々の間に獣の姿を見かけることもあるし、春には道端に野苺の花が咲き、秋には落ち葉の下から食べ頃の茸が顔を出す。
薪を拾いに来たり季節の茸や木の実を探しに来る者もいるが、人の足が踏み入れるのは精々、町と森との境目が見える範囲までだった。
そこから少し進むと、踏み固められた道は次第に細くなり、やがて木々の間に紛れて見えなくなる。目の高さの枝を避け、シダの茂みを抜け、地面を這う木の根をまたいで進んだ先には緩やかな窪地があった。
周囲よりわずかに低くなったその場所は木々の陰に隠れ、近くまで来ても気づかない者が多い。
エルフの小屋はそこにひっそりと建っていた。
森の窪地に収まった小さな石と木の家。
屋根には落ち葉が積もり、近くにある薪小屋には薪が整然と並べられている。
窓辺には乾燥した薬草が吊るされ、家の裏手には食用の植物を育てる小さな畑もあり、人が暮らしていることは確かなのに、森の入り口からはその存在を知ることはできない。
家へ続く道も、傍目には獣道と見分けがつかなかった。
森の恵みは潤沢だが、町へ行けば塩や砂糖、小麦粉など、森ではそう採れないものがある。
珍しい香辛料や、見たことのない土地の果実が市場に並ぶこともあった。
そういうものには目がなかったから、エルフは月に二度ほど町へ行く。
ただし、買い物を済ませたら寄り道はしない。
店主に顔を覚えられないよう、なるべく同じ店には続けて行かない。
話しかけられれば必要なことだけを答え、世間話が始まりそうになれば用事を思い出したふりをして早々に退散した。
誰かに嫌な思いをさせたいわけではないのだが、人間というものは一度言葉を交わすと次には名前を尋ね、その次にはどこに住んでいるのかを知りたがる。
親切にすれば、親切を返さなければならない。
顔を合わせれば挨拶をし、相手の機嫌が悪ければ理由を考え、何気ないひと言を気に病むこともある。
そういうことに、ひどく疲れる。
だから森に住み始めたのだ。
誰も訪ねてこない小屋で、食べたいものを作り、好きな時間に眠り、誰の顔色も窺わずに暮らす。そうしていれば、煩わしいことは何もない。
鍋の中では、根菜の煮込みが静かに煮えていた。
大きく切った黄蕪に、赤い皮の芋、干した茸。
森で採れた香草と町で買った小さな塊の塩漬け肉を加え、朝から火にかけてある。
肉はすっかり柔らかくなり、木べらで押すと繊維がほろりと崩れた。
煮汁には野菜の甘みが溶け出し、表面に浮いた脂が、炉の明かりを受けて淡い金色に光っている。
エルフは蓋をずらし、立ちのぼる湯気に顔を近づけた。
肉と茸の濃い香りのあとから、潰した香草の清涼な匂いが追いかけてくる。
匙で煮汁をすくい唇をつけると、最初に塩漬け肉の旨みが舌に広がり、続いて蕪の甘さが舌の奥に残った。
ほんの少し塩が足りない。
指先でひとつまみ落とし、鍋の底からゆっくりとかき混ぜる。
もう一度味を確かめて、ようやく頷いた。
窯から黒麦パンの香ばしい香りがしてきた。
表面には細かな亀裂が走り、窯から取り出したばかりの皮は硬いが割るとパリパリと良い音がして、内側から白い湯気が上がった。粗い麦の生地は気泡が小さく、噛むほどに穀物の甘みが出る。
煮込みの汁に浸せば、固めに焼いた皮も少しずつ水分を吸い、肉の脂と茸の旨みを含んで柔らかくなる。
エルフは深皿に煮込みをよそい、パンを二切れ添えた。
水差しから水を注ぎ、窓辺に置いてあった小さな林檎をひとつ取る。
食卓に並ぶものは、それだけだった。
椅子を引き、腰を下ろす。
炉の薪がひとつ爆ぜた。
それきり、小屋の中には何の音もしなかった。
エルフは食事を始めた。
煮込みはよくできていた。蕪は匙を入れるだけで割れ、芋の表面は煮崩れかけているのにかすかな歯ごたえも残っている。肉をひと口食べ、パンをちぎり、煮汁を吸わせて口に運ぶ。
急ぐ必要はなかったし、誰かに皿を取られる心配もなかった。
それでも、食べ終わるまでには、いつも少し時間がかかった。
食事のあいだ、エルフは町のことを考えた。
昼どきの市場には、店の他にも様々な屋台が出る。
屋台で物を買う人々は、銅貨を渡しながら今日の天気や家族の話をする。
子どもが菓子を落として泣き、母親が新しいものを買ってやる。
店主は大げさに肩をすくめ、今度は落とすなよと笑う。
エルフは、そういう光景を見るのが好きだった。
人の暮らしはよくわからないことばかりだ。
人間というものは、ひとりでいることが苦手なのだろうか。
店に入れば声をかけられ、道を歩けば誰かが誰かを呼び止めている。
隣り合った者たちは、特に用事がなくても言葉を交わす。
目が合えば笑い、知り合いを見つければ手を振り、知らない者同士でさえ天気や値段について話し始める。
彼には、それがどうにも難しかった。
何を話せばいいのかわからない。話す必要があるのかもわからない。
相手がこちらを見ていると、目を合わせるより先に視線を逃がしてしまう。
返事を考えているうちに、相手の言葉は次へ進んでしまう。
何度か、そういうことがあった。
どうしてあれほど話すことがあるのか。
どうして会ったばかりの相手に、あんなにも気安く笑いかけられるのか。
誰かと一緒にいることが、どうしてあんなに自然なのか。
理解はできなくても、眺めているぶんには心地よかった。
とりわけ、食事をしている人間たちはよかった。
焼きたての菓子を頬張って目を細める老人や、熱いスープをすすって額の汗を拭う荷運びの男たち。
小さな食堂の窓越しに見える、ひとつの皿を二人で分けている旅人たち。
彼らが何を話しているのかまでは聞こえなくても、食べ物を前にした顔を見れば、なんとなくわかることがあった。
おいしいものを食べているとき、人間は少しだけ無防備になる。その顔を見ているのが好きだった。
だが、自分がそこに加わりたいと思ったことはない。
眺めているだけで十分だと思う。
皿が空になった。
エルフは残った煮汁をパンの端ですくい、最後のひとかけを口に入れる。
腹の底からゆっくりと温かさが広がっていく。
窓の外はもう暗い。森の奥で夜鳥が鳴いた。
明日は町へ行こうと思った。
塩が少なくなっているし、砂糖も買い足したい。
ふと耳にした、稀に市場に出るという白い茸も気になっている。
手に入ったら茸をたっぷり使ったパイを焼こう。
表面に溶かしバターを塗り、焼き上がりに黒胡椒を挽く。
切り分けた断面から湯気が立つくらいに熱いうちに食べるのがいい。
考えているうちに、少し楽しくなった。
翌日も、その次の日も、こうして暮らしていければいい。
誰とも親しくならず、誰からも何も求められず、好きなものを作って食べる。
人間たちの暮らしを町の片隅から眺め、たまに気になった新しいものを買い、名前も知らない店主の笑い声を聞いて帰る。その程度の関わりなら、きっと大丈夫だ。
エルフは食器を洗い、火の始末をして、寝床へ向かった。




