第8話 契約婚約の提示
■ 1:ルシアンの嘲笑
「復讐ごっこか? 帝都の温室で育った侯爵令嬢が、この俺の軍事力を借りて?」
ルシアン・ヴァレリウスの低く冷酷な嘲笑が、広大な玉座の間に響き渡った。
彼の背後に控える黒騎士団の側近たちが、一斉に殺気を放つ。父が息を呑み、リステン家の護衛たちが震える手で剣の柄に触れようとした。
「アランに恥をかかされたか? それとも、あの薄汚い平民上がりの愛人に男を寝取られた腹いせか?」
ルシアンは玉座から立ち上がり、私を見下ろすように一歩近づいた。
圧倒的な体格差と、数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた男特有の死の匂いが、私の肌を粟立たせる。
「その程度の『お遊戯』のために、俺の貴重な時間を潰したというなら……今すぐリステン家ごと、この北の雪原に埋めてやるぞ」
本気の殺意だった。
彼にとって、他人の色恋沙汰や帝都の貴族たちの派閥争いなど、吐き気を催すほどくだらない茶番に過ぎないのだ。
だが、私は一歩も退かなかった。
悪魔王の気配はもうない。私の背中を押す嘲笑も、影からの囁きもない。
ここからは、私自身の力でこの怪物を手なずけなければならない。
「わたくしが本気かどうかは、この『対価』をご覧になってからご判断いただいても、遅くはありません」
私は、父が持参した革鞄から、分厚い蝋引きの封筒を取り出した。
「対価?」
ルシアンの銀色の眉が、わずかに動く。
「ええ。わたくしは、公爵閣下のお力を『借りる』つもりなど毛頭ございません。わたくしは、公爵閣下と対等な『取引』をしに来たのです」
■ 2:「未来の知識」の開示
私は、ルシアンの目の前にある重厚な黒檀のテーブルに、その封筒を滑らせた。
ルシアンは、毒や罠を警戒するような鋭い手つきで封蝋を割り、中から数枚の羊皮紙を取り出した。そして、その一枚目に視線を落とした瞬間——彼の冷ややかな表情が、劇的に変化した。
「……これは」
ルシアンの声から、先ほどの嘲笑が完全に消え失せていた。
そこに入っているのは、一度目の人生の記憶に基づいた、皇太子アランの政策に関する極秘の分析データだ。
「公爵閣下がご存知の通り、アラン殿下は来月、『新税制』と称して塩の専売化を計画しておられます」
「……ああ。帝都の商人たちから搾取し、俺の領地への塩の供給を絶つための嫌がらせだろう」
「表向きはそうです。ですが、その計画には、アラン殿下ご自身すら把握しきれていない、致命的な『裏の構造』がございます。その第一項目をご覧ください」
ルシアンは、私が示した箇所に鋭い視線を走らせる。
そこには、塩の密輸ルートとして使われる予定の、アラン派閥の有力貴族たちの領地名と、関与する商会のリストが詳細に記されていた。
「……なぜ、お前がこれを」
ルシアンが、信じられないものを見るような目で私を睨みつける。
「アラン殿下は、その密輸ルートで私腹を肥やそうとしていますが、そのルートの最終地点は、ヴァレリウス公爵領の管轄する大河と繋がっております。ご存知でしたか?」
「……なんだと?」
「つまり、彼らは公爵閣下の領地を『違法な資金洗浄の隠れ蓑』として利用するつもりなのです。もしこれが明るみに出れば、公爵閣下も密輸の共犯として皇室から断罪される口実を与えてしまいます」
ルシアンの手に握られた羊皮紙が、怒りで微かに震えた。
■ 3:アラン派閥の弱み
「それだけではありません」
私は、ルシアンの手元にある二枚目の羊皮紙を指差した。
そこには、アラン派閥を支える主要貴族たちの、詳細なスキャンダルと犯罪の証拠リストが記載されていた。
「バートン伯爵の、南大陸での違法奴隷貿易への関与と資金の流れ」
「マルケス侯爵の、国境警備隊への軍事物資横流しの証拠と横領額」
「そして、イザベラ・クレアの……皇室の帳簿改ざんの記録」
ルシアンは、もはや驚きを隠そうともしなかった。
彼の背後に控える側近たちも、その内容の一部が聞こえたのか、信じられないというように顔を見合わせている。
「この情報は……我が黒騎士団の諜報網でも掴めていなかったものばかりだ。リステン家の情報網は、いつからこれほどまでに優秀になった?」
ルシアンの銀色の瞳が、私を貫くように見据える。
「わたくしは、リステン家の情報網の、さらに『先』を知っておりますので」
私は、一度目の人生の記憶(回帰)については当然伏せ、静かに微笑んだ。
「わたくしは、アラン殿下の側に、誰よりも長くおりました。彼の思考の癖、彼が重用する人間たちの弱さ、そして彼らがどのような欲望で動いているか。その全てを、わたくしは知っております」
それは嘘ではない。
一度目の人生で、私は皇妃として、アランの尻拭いをさせられ続けてきたのだから。彼らがどのような汚い手を使って富を築き、どのように自滅していくか、私は特等席で全てを見てきた。
■ 4:契約婚約の提案
私は、ソファからゆっくりと立ち上がった。
そして、ルシアン・ヴァレリウスという帝国の北半分の支配者に向かって、毅然とした態度で告げた。
「公爵閣下。アラン殿下は、このままではいずれ帝国そのものを破滅させます。それは、北の領地を守り抜いてきた貴方様の望むところではないはずです」
「……」
「わたくしの持つ『未来を見通すかのような知識』と、リステン家の持つ帝国一の『財力』。これらを全て、貴方様に差し上げます」
私は一歩前へ踏み出し、ルシアンの目の前に立った。
「それらは、貴方様の圧倒的な『軍事力』と合わせれば、アラン殿下を打倒し、帝国の腐敗を切り裂くための、最強の剣となるはずです」
ルシアンは黙ったまま、私を見下ろしている。
その沈黙は、もはや侮蔑ではなく、一人の対等な交渉相手としての「評価」の沈黙だった。
「貴方様には、アランを玉座から引きずり下ろし、ご両親の無念を晴らすための『力』を」
「……」
「わたくしには、アランとイザベラへの、完璧な復讐の舞台を」
私は、手袋を外した白い手を、ルシアンに向けて静かに差し伸べた。
「そのための『契約婚約』を、わたくしと結んでいただけますでしょうか」
広間は、息が詰まるほどの静寂に包まれた。
父も、護衛たちも、黒騎士団の側近たちも、誰一人として声を出すことができない。
ルシアンは、私の差し出した手と、私の顔を、ゆっくりと交互に見比べた。
氷のように冷たかった彼の銀色の瞳に、明らかな「熱」が宿っているのがわかった。それは、血湧き肉躍るような戦いを前にした、猛獣の熱だ。
やがて、ルシアンの薄い唇が、弧を描いた。
「……面白い」
ルシアンは、黒革の手袋に包まれた大きな手で、私の手を力強く握り返した。
その手は、雪山のように冷たく、しかし鉄のように硬く、頼もしかった。
「その狂った提案、乗ってやろう。エリアーナ・リステン」
ルシアンの低く響く声が、契約の成立を告げた。
「今日からお前は、この北の死神の『婚約者』だ。せいぜい、俺を退屈させないことだな」
こうして、私とルシアン・ヴァレリウスの、復讐のための「偽りの婚約」が成立した。
アランとイザベラを地獄の底へ突き落とすための、反撃の狼煙が、極寒の北の大地で静かに上がったのだった。
■ 5:動き出す歯車
契約が成立した直後、玉座の間の張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
ルシアンは私の手を離すと、背後に控えていた側近の筆頭――黒騎士団副団長に視線を向けた。
「聞いたな。今すぐ、この『未来の知識』とやらの裏付けを取れ。特に塩の密輸ルートと、バートン伯爵の南大陸での動きだ。急ぎの密偵を放て」
「はっ! 直ちに」
側近は深く頭を下げ、足早に広間を出て行く。
ルシアンは再び私に向き直り、値踏みするように目を細めた。
「お前の情報は、確かに俺の諜報網を凌駕している。だが、俺はまだお前を完全に信用したわけではない。もしこの情報が一つでも偽りであった場合、その美しい首が胴体から離れることになると思え」
「ええ、承知しております。わたくしの首など、いつでも差し出しましょう。情報が全て真実であると証明された暁には、公爵閣下の『最強の盾』としての働きを期待しておりますわ」
私は、彼の脅しに怯むことなく、優雅にカーテシー(淑女の礼)をして見せた。
ルシアンの喉の奥から、再び低い笑い声が漏れる。
「……いい度胸だ。温室育ちの令嬢とは思えん。お前のような女が、なぜあの愚鈍な皇太子に尽くしていたのか、俺には理解できんな」
「過去のわたくしは、愛という名の幻想に目が眩んだ愚か者だったのです。ですが、もう目は覚めました」
私は静かに微笑んだ。
一度目の人生で、断頭台の露と消えた愚かな皇妃はもういない。
ここにいるのは、復讐のためなら悪魔とも、北の死神とも手を組む女だ。
「お父様。これで、リステン家は皇室から完全に独立し、ヴァレリウス公爵家と同盟を結ぶことになります。アラン殿下からの婚約内示は、正式に『拒絶』の返書をお送りください」
私は、呆然と立ち尽くしていた父を振り返って言った。
「え、あ、ああ……分かった。すぐに手配しよう」
父は、目の前で展開されたあまりにも非現実的な交渉劇に、まだ現実感が追いついていない様子だったが、私の言葉に慌てて頷いた。
「アランの顔が見物だな」
ルシアンが、意地悪く口の端を歪める。
「ええ。自分に傅くと思っていた女が、自分を最も憎んでいる男の腕の中にいると知った時……あのプライドの高い殿下が、どのような顔で激怒するのか。わたくしも、今から楽しみでなりませんわ」
私とルシアンは、互いに冷酷な笑みを交わした。
愛も、信頼も、情もない。
ただ「共通の敵を破滅させる」という、純粋で強固な利害関係だけで結ばれた、最凶の共犯関係。
この日、帝国の歴史を揺るがす巨大な歯車が、音を立てて動き始めたのだった。




