第7話 北の死神との対面
■ 1:死地への到達
雪と氷に閉ざされた過酷な山脈を越え、馬車がようやく目的地に到着した時、私の全身は疲労と寒さで凍りつきそうになっていた。
吹雪の向こうにそびえ立つのは、漆黒の石で造られた巨大な要塞、黒鷲城。
帝都の豪奢で華やかな皇宮とは対極にある、ただ敵を殺し、生き残るためだけに作られた「実戦」の城だ。
「エリアーナ……本当に、行くのだな」
馬車を降りる直前、同乗していた父が、蒼白な顔で私の手を強く握った。
「ええ、お父様。ここまで来て引き返す選択肢はありません」
私は凍える手をドレスの布地でこすり合わせながら、静かに頷いた。
「だが、相手はあの冷血公爵だ。交渉が決裂すれば、本当にその場で首をはねられかねん……」
「大丈夫です。彼は、話が通じる相手ですから」
一度目の人生の記憶では、ルシアン・ヴァレリウスは皇太子アランの失政のせいで北の領地が疲弊し、その怒りから皇室と激しく対立していた。彼は冷酷無比で容赦がないが、同時に極めて「合理的」な男だ。感情や面子よりも、実利と大義を重んじる。
だからこそ、私が持参した「情報」の価値を、誰よりも正確に測れるはずだ。
重い鉄の扉が開き、私たちは城の奥深く、玉座の間へと案内された。
■ 2:冷血公爵の入場
玉座の間は、広大で、そして異常なほどに冷え切っていた。
暖炉に火は入っているものの、広間を包む張り詰めた殺気が、物理的な寒さ以上に私たちの肌を刺す。
部屋の周囲は、ルシアン公爵の側近である「黒騎士団」の精鋭たちによって完璧に包囲されていた。父が連れてきた数名の護衛たちも、北の騎士たちのあまりの練度の高さと、いつでも剣を抜ける実戦的な殺気に当てられ、顔を強張らせている。
その時、広間の奥の重い扉が開く音がした。
入ってきたのは、一人の男。
闇夜を切り取ったような漆黒の髪、長身、そして軍服の上からでもわかる鍛え上げられた体躯。
彼が部屋に入った瞬間、ただでさえ冷たかった広間の温度が、さらに数度下がったかのような錯覚に陥った。
彼こそが、北の「冷血公爵」、ルシアン・ヴァレリウス。
一度目の人生で、私は彼とまともに話したことは一度もなかった。彼は常にアランと対立し、帝都の社交界でも孤立していたからだ。私が遠目から見た彼は、常に氷のように冷たい無表情で、周囲の貴族たちを虫けらのように見下ろしていた。
ルシアンは、私と父を一瞥すると、護衛の者を数名だけ残して他を下がらせ、大股で歩き、私たちの真正面に用意された黒革のソファに深く腰を下ろした。
その氷のように冷たい銀色の瞳が、私を射抜く。
「……リステン侯爵。そして、エリアーナ嬢。本日は、俺のためにわざわざ雪山を越えて『茶番』を演じに来ていただき、感謝する」
声まで凍てつくようだ。
「公爵閣下、本日は急な申し出にも関わらず、お時間をいただき……」
父が商人としての愛想笑いを浮かべて挨拶をしようとするのを、ルシアンは手で制した。
■ 3:最初の牽制
「時間の無駄だ、侯爵」
ルシアンの視線は、父ではなく、私から一切外れなかった。
「俺が話したいのは、あんたじゃない。そこに座っている、皇太子の求婚を蹴り飛ばして俺の元へやってきたという、勇気ある(あるいは底抜けに愚かな)令嬢だけだ」
父がその露骨な侮辱に息を呑んだが、私は動じない。
背筋を伸ばし、彼の銀の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……公爵閣下。わたくしが勇気ある者か、それともただの愚か者かは、この後の話でお分かりになるかと存じます」
「ほう。言うな」
ルシアンは、初めて私の目を「まともに」見た。
値踏みするような、鋭い刃物のような視線だ。
「では、聞こう。皇太子の求婚を蹴ってまで、俺に会いに来た理由は?」
「……」
「アランの差し金か? 俺の軍備と内情を探るために、お前という『美しい貢物』が送られてきたのか?」
ルシアンの言葉には、明らかな侮蔑が混じっていた。
「違います」
私は即答した。
「では、なんだ。アランに飽きられたか? それとも、皇太子の愛人に負けて追い出されたか? だから、次の権力者として、俺に媚を売りに来たのか?」
ルシアンの挑発は続く。側近たちが、私を嘲笑うように鼻を鳴らした。
だが、私は彼の挑発には乗らず、ただ静かに、そして冷たく答えた。
「わたくしがここに来た理由は、ただ一つ」
私は、父でも側近でもなく、ルシアン公爵ただ一人を真っ直ぐに見つめて言い放った。
「貴方様が、皇太子アラン殿下を、心の底から憎んでいることを存じ上げているからです」
■ 4:変化する視線
ルシアンの銀色の瞳が、わずかに見開かれた。
彼の後ろに控えていた側近の騎士が、「不敬な!」と怒鳴りながら剣の柄に手をかける気配がした。
父が蒼白になり、「エリアーナ!」と悲鳴のような声で私の名を呼ぶ。
だが、ルシアンは再び手を挙げて、側近と父を制した。
彼は、初めて私を「退屈な令嬢」として値踏みする視線から、明確な「興味」の対象として見始めた。
「……続けろ」
ルシアンの声のトーンが、一段低くなった。
「わたくしの目的は、アラン殿下への復讐です。あの方から全てを奪い、絶望の底に突き落とすこと。それが、わたくしの唯一の望みです」
私は、はっきりとそう告げた。
広間の空気が、完全に凍りついた。
ルシアンは、驚きを通り越し、ふ、と鼻で笑った。
「復讐、か。温室育ちの侯爵令嬢の『おままごと』にしては、随分と物騒な言葉を使うな。皇太子に愛されなかった腹いせに、俺の軍事力を利用して癇癪を起こそうというのか?」
「おままごとではありません」
私は、懐に忍ばせていた一通の書類を取り出し、テーブルの上に静かに置いた。
「これは、アラン殿下が来月発表する予定の『新税制』の完全な草案と、その裏に隠された『北方領土経済封鎖計画』の全貌です。殿下は、塩の専売と関税の引き上げによって、このヴァレリウス領を干上がらせるつもりです」
ルシアンの表情が、初めて微かに動いた。
「そして、わたくしは、この計画を完全に破綻させ、逆にアラン殿下の政治的立場を失墜させる『具体的な策』を持っております。もちろん、貴方様の領地には一切の損害を出させません。むしろ、莫大な利益をもたらすことをお約束します」
私は、ルシアンの目を見据えて、決定的な言葉を放った。
「わたくしと、偽りの婚約を結んでください。わたくしは貴方様に、アランを破滅させるための『情報』と『リステン家の財力』を提供します。貴方様はわたくしに、皇室の報復から身を守るための『絶対的な盾』を提供してください」
ルシアンは、テーブルに置かれた書類と、私の顔を交互に見た。
その銀色の瞳の奥で、冷たい炎が燃え上がるのを、私は確かに見た。
「……狂っているな。お前も、お前の父親も」
ルシアンは、低く笑い声を漏らした。それは、初めて彼が見せた、心からの「愉悦」の笑みだった。
「だが、悪くない提案だ。その書類が本物であり、お前の策が俺を納得させるものであれば……その『偽りの婚約』、受けてやろう」
■ 5:悪魔王の離脱
交渉が成立した瞬間、私の影が不自然に長く伸びた。
『……くくっ。見事だ、エリアーナ』
私にしか聞こえない、悪魔王の愉悦に満ちた声が頭の中に響く。
『まさか、本当にこの北の死神を丸め込むとはな。お前の憎悪は、本物だ』
(当然よ。私はもう、二度と誰にも奪わせない)
『ああ、その意気だ。……俺の仕事は、どうやらここまでらしい』
(どういうこと?)
『お前に火をつけ、最高の舞台を整えてやった。この北の公爵という最強の剣と盾を手に入れた今、お前はもう、俺が横から煽らなくても自ら進んで地獄への道を突き進むだろう』
悪魔王の声が、少しずつ遠ざかっていく。
『あとは勝手に憎み合え。俺は少し離れた高みから、この極上の宴の収穫を楽しむとしよう』
(……また、来るの?)
『必要な時にな。お前が復讐を諦め、契約を破りそうになった時——か、あるいは、この憎悪の連鎖が最高潮に達した時だ』
その言葉を最後に、私にまとわりついていた不気味な冷気が、ふっと消え去った。
影は元の長さに戻り、悪魔王の気配は完全に消え失せた。
「……どうした? 顔色が悪いぞ、エリアーナ嬢」
ルシアンが、怪訝そうに眉をひそめる。
「……いいえ。なんでもありませんわ」
私は、悪魔王が消えたことで、かえって頭がクリアになったのを感じながら、ルシアンに向かって優雅に微笑んだ。
「さあ、公爵閣下。私たちの『復讐の宴』の打ち合わせを始めましょう」
北の冷血公爵と、復讐の皇妃。
二人の共闘関係が、今ここに成立した。




