第6話 北の冷血公爵
■ 1:密書の内容
「……ほう」
玉座の間に、ルシアン・ヴァレリウスの低く冷ややかな声が響いた。
そのたった一言で、広間に控えていた屈強な側近たちは一斉に身をこわばらせた。
彼らは長年この北の地でルシアンに仕えてきたがゆえに、主君が「ほう」と興味を示した時が、最も血生臭く、予測不能な事態を引き起こす前兆であることを熟知していた。
ルシアンは、帝都から届いたばかりのリステン家からの密書を、長い指で弾いた。
封蝋は破られ、中には信じがたい提案が記されている。
「皇太子からの婚約内示を保留し、この俺と見合いがしたい、か」
ルシアンの銀色の瞳が、氷のように冷たい光を放つ。
側近の筆頭であり、黒騎士団の副団長を務める男が、緊張した面持ちで進み出た。
「公爵閣下。これは、十中八九、罠でございます」
「罠、か」
「はい。リステン家は中立派の筆頭であり、皇太子アランが喉から手が出るほど欲しがっている巨大な財源です。その家の令嬢が、なぜわざわざ我ら北の陣営に接触を図るのでしょうか。あまりにも不自然です」
別の側近も同意するように頷く。
「『皇太子殿下の婚約内示を保留』というのも、我らを油断させるための偽情報である可能性が高いかと。帝都の温室育ちの令嬢が、アラン殿下の求婚を蹴る理由がありません」
「左様です。アラン殿下の差し金で、娘をスパイとして送り込み、我らの内情や軍備を探ろうとしているのでは?」
側近たちの意見は、見事に「アランの罠」という一点で一致していた。
■ 2:ルシアンの分析
ルシアンは、漆黒の玉座に深く腰掛けたまま、目を閉じて側近たちの白熱する議論を黙って聞いていた。
「公爵閣下、いかがなさいますか。当然、このような怪しい申し出は即座に拒絶なさるべきかと」
「……」
ルシアンは目を開けない。
側近たちは、それが主君の思考を妨げるなという不快のサインであることを悟り、一斉に口をつぐんだ。
重苦しい静寂が、冷え切った広間を支配する。
やがて、ルシアンはゆっくりと銀の瞳を開き、静かに口を開いた。
「……お前たちの言う通り、これがアランの罠だとして。なぜ、あの男が『リステン家の財力』という最も重要な駒を、こんな危険な盤上に乗せる?」
「……と、申しますと?」
「アランは、俺を潰したい。それは紛れもない事実だ。だが、そのために帝国一の財力を持つリステン家を、わざわざ俺という『怪物』の元へ送り込むか?」
ルシアンは立ち上がり、軍靴の音を響かせながら広間の窓辺へと歩く。
窓の外には、猛吹雪に覆われた過酷な北の領地が広がっている。
この過酷な環境を生き抜くために、ヴァレリウス家は常に冷徹な計算と圧倒的な武力を必要としてきた。
「アランは、極度の臆病者であり、同時に強欲だ。奴はリステン家の財力を『無傷』で手に入れたいはずだ。その家の令嬢を、俺の元へスパイとして送るなど、アランのやり方ではない。もし俺がその令嬢を殺せば、リステン家は完全に皇室から離反する。アランにとってリスクが高すぎる」
ルシアンの瞳が、獲物を狙う獣のようにギラリと光る。
「……つまり、これはアランの策ではない。リステン家が、皇太子の意志とは無関係に、独断で動いている可能性が極めて高い」
「なっ……! では、なぜリステン家はあのような密書を?」
「理由は二つに一つだ」
ルシアンは、黒革の手袋に包まれた指を一本立てる。
「一つ。リステン侯爵が、娘の『皇太子妃』という未来に、アラン本人以上の価値を見出せず、一族の破滅を予感して娘を皇太子から遠ざけようとしている。つまり、純粋な『逃亡』だ」
彼は二本目の指を立てる。
「二つ。その娘……エリアーナ・リステン自身が、よほどの『野心家』か『狂人』で、皇太子の玉座に見切りをつけ、新たな覇者として俺に賭けようとしている。つまり、積極的な『裏切り』だ」
ルシアンは、どちらにしても愉快だと、薄い唇の端を吊り上げた。
■ 3:過去の因縁
「公爵閣下、しかし……」
「罠ならば、乗ってやるまでだ」
ルシアンは、なおも食い下がろうとする側近の言葉を冷たく遮った。
「あの皇太子が、わざわざ『リステンの娘』という駒を使ってきた(と俺に思わせている)か、あるいはリステン家が本気でアランから離反しようとしているか。どちらにせよ、帝都の内部で、よほど皇室にとって都合が悪い亀裂が生じている証拠だ。この亀裂を突かない手はない」
彼は、玉座の間の壁に高く掲げられた、父の世代から続くヴァレリウス家の紋章――翼を広げた黒鷲の紋章を見上げた。
アランの父である現皇帝によって、無実の反逆罪を着せられ、処刑された両親。
その血塗られた過去が、ルシアンの胸の奥底で冷たい炎となって燃え続けている。
皇室への復讐。それこそが、ルシアンがこの極寒の地で無敗の軍団を育て上げ、帝国の北半分を支配するに至った唯一の原動力だった。
「それに……」
ルシアンは、手元の密書に記された美しい筆跡の署名、「エリアーナ・リステン」の名を指でなぞる。
「皇太子が欲しがっている女を、横から奪い取ってやるというのは、アランへの嫌がらせとして、なかなか愉快な余興だと思わないか?」
「閣下……お戯れが過ぎます」
側近が呆れたようにため息をつくが、ルシアンの目は本気だった。
■ 4:ルシアンの決断
「会ってやる」
ルシアンは踵を返し、再び玉座へと腰を下ろした。
「そのエリアーナ・リステンという令嬢が、どれほどの覚悟で俺の前に顔を出すのか。そして、密書に書かれていた『我が軍の利益に値する情報』とやらが、一体何なのか。この俺の目で見極めてやる」
「……承知いたしました。では、会談の場は帝都の別邸になさいますか?」
「馬鹿を言え。俺がなぜ、わざわざ帝都まで出向いてやらねばならん」
ルシアンは冷酷に笑う。
「会談の場は、この黒鷲城だ。本当に俺と取引がしたいのなら、あの温室育ちの令嬢に、この極寒の雪山を越えて来させろ」
「なっ……! 帝都の令嬢に、この北の冬山越えは過酷すぎます! 途中で死にかねませんぞ!」
「死ぬような柔な女なら、最初から俺と取引などする資格はない」
ルシアンは冷たく言い放ち、側近に返書をしたためるよう命じた。
「宛先はリステン侯爵。内容は……『提案、承知した。我が黒鷲城にて、貴殿の娘との会談を許可する。ただし、持参する情報が我が軍の利益に値せぬと判断した場合、その場で首をはねて雪原に晒す』と」
「……はっ」
側近は主君の容赦のなさに戦慄しながらも、深く頭を下げた。
ルシアンは再び執務書類に目を落としながら、窓の外で吹き荒れる猛吹雪の音を聞いていた。
皇太子の求婚を蹴り、自らの首を懸けて北の死神に会いに来るという、狂った令嬢。
果たして、どんな顔をしてこの極寒の地に現れるのか。
ルシアンの氷のように冷たい心に、ほんのわずかな、しかし確かな「興味」という名の火が灯っていた。
■ 5:出発の朝
数日後。
帝都のリステン侯爵邸の裏門には、夜明け前の薄暗がりの中、一台の質素な馬車が停まっていた。
侯爵家の紋章も入っていない、一見すれば裕福な平民が乗るような地味な馬車だ。皇室の密偵の目を欺くための偽装である。
「エリアーナ。本当に、行くのだな」
見送りに来た父が、心配そうに私の顔を覗き込む。
「はい、お父様。ルシアン公爵からの『招待状』も届きましたから」
私は、あの恐ろしい返書『価値がなければ首をはねる』と記された手紙を思い出しながら、微かに微笑んだ。
「……あれは招待状などではない。死の宣告だ。北の冬山越えだけでも命がけだというのに、あの冷血公爵が相手では……」
「ご心配には及びません。必ず、彼に『イエス』と言わせてみせます」
私は、父を安心させるように力強く頷き、共に馬車に乗り込んだ。
私たち親娘に同行するのは、最小限の護衛と、御者、そして私一人だ。侍女すら連れていない。
これが命を懸けた「取引」であるという、私なりの誠意の見せ方だった。
『……くくっ。いい顔になったな、エリアーナ。だが、北の死神は手強いぞ。お前のその安い命一つで、釣り合う相手ではない』
馬車が動き出すと同時に、影の中から悪魔王の嘲笑が聞こえた。
(ええ、分かっているわ。だからこそ、私の『全て』を賭けるのよ)
私は、懐に忍ばせた一通の書類――帝国の経済の根幹を揺るがす「ある秘密」を記した書類を、服の上から強く握りしめた。
馬車は、雪の舞う帝都の街道を抜け、遥か北へと向かって走り出す。
一度目の人生で私を殺した者たちへの復讐。
そのための最強の剣にして盾となる男、ルシアン・ヴァレリウスの元へ。




