第5話 動き出す歯車
■ 1:リステン侯爵の決断
私が「北の冷酷公爵との取引」を提案した後、父(リステン侯爵)は応接室のソファに深く沈み込んだまま、一言も発さなかった。
壁掛け時計の秒針が時を刻む音だけが、冷え切った部屋に響き渡る。
私は、膝をついたまま父の決断をひたすら待った。
父は今、リステン家当主として、中立派の盟主として、そして帝国一の商人として、その全ての重責を天秤にかけているのだ。
皇太子アランという「現在の絶対的な権力」にすがりつくか。それとも、娘が語る「不確かな破滅の未来」を信じ、北の「危険な虎」に一族の命運を賭けるか。
『……どうした? 泣いてすがりつかないのか? お前の愛する父親が、お前を切り捨てるかもしれないというのに』
影に潜む悪魔王が、退屈そうに囁く。
(黙っていなさい。お父様は、必ず正しい選択をするわ。商人としての勘が、私の言葉の真実性を告げているはずよ)
私は内心で冷たく返し、微動だにせず父を見つめ続けた。
やがて、一時間にも及ぶ沈黙の後。
父は深く、長い溜息をつき、ゆっくりと顔を上げた。その瞳からは先ほどの激昂も戸惑いも消え失せ、冷徹な「当主」としての光が宿っていた。
「……エリアーナ」
「はい、お父様」
「お前が、そこまで言うのなら。そして、お前のその目に一切の迷いがないのなら……私がお前に教え込んだ『帝国の経済』が、お前のその恐ろしい予測を裏付けているのも事実だ」
「お父様……!」
「だが、お前のやり方はあまりにも無謀すぎる。皇太子殿下を正面から敵に回すのは、最後の手段だ。まずは、そのヴァレリウス公爵が、我らリステン家が全てを懸けて手を組むに値する男か、私自身が見極めねばならん」
父は、私の無謀な賭けに乗ってくれたのだ。
私は深く頭を下げ、父の決断に心からの感謝を捧げた。
「ありがとうございます、お父様。必ずや、リステン家を……お父様をお守りいたします」
■ 2:父(侯爵)の行動
リステン侯爵の行動は、帝国随一の商人らしく、迅速かつ狡猾だった。
彼はまず、バートン伯爵が報告に戻った皇宮に対し、直ちに特使を走らせた。
「娘エリアーナは、皇太子殿下からのあまりにも光栄な謁見の申し出に極度の緊張を覚え、突如体調を崩して錯乱状態に陥りました。侍女を打ち据えたのもその発作ゆえのことでございます。高名な医師に見せたところ、しばらくの絶対安静が必要との診断が下りました」
アランの申し出を「保留」にしつつ、娘の「無礼」を全て体調不良(錯乱)のせいにする、苦肉の策であり、見事な時間稼ぎだった。
「これで、ひとまず皇太子殿下は『病で錯乱している娘を無理やり差し出せ』とは言えまい。殿下はご自身の体面を何よりも重んじる方だからな。だが、これも長くは持たん」
リステン侯爵は、執務室でそう呟きながら、最も信頼する腹心の部下を呼び寄せた。
「ヴァレリウス公爵家に対し、極秘裏に密書を送れ。内容は『帝国の経済政策に関する、緊急の相談』だ。決して皇室の犬どもに嗅ぎつけられるな」
「はっ。直ちに手配いたします」
歯車は、後戻りできない方向へと回り始めた。
■ 3:皇宮の苛立ち
帝都の中心にそびえ立つ、豪奢な皇宮。その一角にある皇太子の執務室。
「錯乱、だと?」
アラン皇太子は、リステン侯爵からの使者の報告をバートン伯爵から聞き、不機嫌そうに美しい顔を歪めた。
「は、はい。あの場でイザベラを打ち据え、私に無礼な態度を取ったのも、全て極度の緊張による錯乱の発作かと……侯爵は平謝りでございました」
バートン伯爵は、冷や汗を拭いながら報告する。
「フン。都合の良いことだ。俺の妃になるという重圧に耐えきれず狂ったか。所成は成り上がりの血筋だな」
アランは鼻で笑い、側に控えていたイザベラに視線を移す。
「イザベラ。お前の『親友』は、都合が悪くなるとすぐに病気になるらしいな」
「……エリアーナ様」
イザベラは、アランの腕にそっと手を添え、潤んだ可憐な瞳で見上げた。
「きっと、私が殿下とお親しくさせて頂いていることを知って、ひどく嫉妬なさったのですわ……。エリアーナ様は昔から、ご自分の欲しいものは何でも手に入れないと気が済まない、少し我儘なところがおありでしたから……。ごめんなさい、私のせいでエリアーナ様が心を病んでしまわれて……」
イザベラは、声をつまらせて涙をこぼして見せた。
「君のせいではないさ。君は何も悪くない」
アランは、イザベラの儚げで可憐な様子に気を良くし、彼女の華奢な手を優しく握りしめる。
「どうせ、俺の気を引くための子供じみた駆け引きだろう。リステン家の莫大な財力と政治力は、俺の玉座を盤石にするためにどうしても必要だが……まあいい。病が治るまで、少しばかり待ってやるさ。あの女が自ら俺の足元にすがりついてくるのをな」
アランは、エリアーナをまだ「手のひらの上で転がる、嫉妬深く愚かな女」としか見ていなかった。
自分がすでに、破滅の盤上に立たされていることなど、露ほども知らずに。
■ 4:北の黒鷲城
帝都から遥か北。一年を通して雪と氷に閉ざされた、過酷なヴァレリウス公爵領。
その中心にそびえ立つ、漆黒の石で造られた堅牢な要塞『黒鷲城』。
「冷酷公爵」ルシアン・ヴァレリウスは、冷え切った玉座の間で、山のように積まれた執務書類を淡々とこなしていた。
漆黒の髪に、氷のように冷たい銀色の瞳。彼の周囲の空気は、北の地と同様に常に凍てついており、誰も不用意に近づくことはできない。
「……公爵閣下」
重い扉が開き、側近の騎士が緊張した面持ちで一通の密書を差し出した。
封蝋には、リステン家の紋章が押されている。帝都からの、緊急の親書だった。
「リステン侯爵家から? あの帝都の金の亡者が、俺に何の用だ」
ルシアンは、微かに眉をひそめた。
リステン家は中立派の筆頭であり、皇太子アランが喉から手が出るほど欲しがっている巨大な財源だ。
その家が、アランの最大の政敵である自分に密書を送ってくるなど、罠か、さもなくば余程の異常事態だ。
ルシアンはペーパーナイフで封を切り、書状に目を通す。
そこには、彼の氷のような思考回路をもってしても、にわかには信じがたい内容が記されていた。
『――皇太子殿下からの、エリアーナへの婚約の内示を保留いたしました。』
『――つきましては、我が娘エリアーナ・リステンと、公爵閣下との「非公式の会談を兼ねたお見合い」を、至急セッティング願いたく存じます。我が家は、閣下の北方経営にとって有益な「情報」と「支援」をご用意しております』
「……お見合い、だと?」
ルシアンの銀色の瞳が、微かに細められた。
皇太子の求婚を蹴り、敵対する北の公爵に娘を差し出してくる。リステン侯爵が乱心したのか、それとも……。
「閣下、いかがなさいましたか?」
側近が恐る恐る尋ねる。
「面白い」
ルシアンの薄い唇が、弧を描いた。
それは、獲物を見つけた肉食獣のような、冷酷で好戦的な笑みだった。
「帝都の温室育ちの令嬢が、この極寒の地に何の用だ? ……いいだろう。その『情報』とやらがどれほどの価値を持つのか、見極めてやろう」
北の冷酷公爵と、地獄から舞い戻った復讐の令嬢。
二人の運命が、今まさに交差しようとしていた。
「返書をしたためよ」
ルシアンの低く冷ややかな声が、玉座の間に響いた。
「宛先はリステン侯爵。内容は……『提案、承知した。我が城にて、貴殿の娘との会談を許可する。ただし、持参する情報が我が軍の利益に値せぬと判断した場合、その場で首をはねて雪原に晒す』と」
「か、閣下! 相手は帝国一の財力を誇るリステン家の令嬢ですぞ! そのような過激な……」
側近が慌てて止めるが、ルシアンは冷たい視線で彼を黙らせた。
「俺は、帝都の腐った政治ごっこに付き合う気はない。命を懸けた取引であるならば、それ相応の覚悟を持って来いということだ」
ルシアンは再び書類に目を落としながら、微かに笑みを深めた。
皇太子の求婚を蹴り、自らの首を懸けて北の死神に会いに来るという令嬢。
果たして、どんな顔をしてこの極寒の地に現れるのか。
『……くくっ。盤面が、面白くなってきたな』
♢
帝都の豪奢な自室で、北へ向かう準備を進めていた私の影から、悪魔王の愉悦の声が響いた。
(ええ。最高の舞台が整ったわ。待っていなさい、ルシアン・ヴァレリウス。あなたに、決して断れない『悪魔の契約』を持ちかけてあげる)
私は鏡に向かって、冷酷な笑みを浮かべた。
私の復讐劇の、真の幕開けが近づいていた。




