第57話 憎悪の逆流と精神の危機
第57話「憎悪の逆流と精神の危機」
■忍び寄る黒い影
ルシアンからプロポーズを受け、左手の薬指に鋼の指輪を嵌められたあの夕暮れから、数時間が経過していた。
私たちは執務室を後にし、皇宮の奥にあるルシアンの私室へと移動していた。かつては冷たい復讐の計画を練るためだけの場所だったその部屋も、今は暖炉の火が赤々と燃え、温かな空気に満ちている。
しかし、私の心臓は、先ほどから不気味な早鐘を打ち続けていた。
執務室で一瞬だけ見た幻覚——血に染まった地下牢と、耳の奥に響く怨嗟の声。それはルシアンの腕の中で一度は消え去ったものの、夜が深まるにつれて、じわじわと私の精神を侵食し始めていた。
「エリアーナ? 顔色が悪いぞ」
暖炉の前のソファに並んで座っていたルシアンが、私の肩を抱き寄せながら心配そうに覗き込んできた。
彼の温かい手が私の頬に触れる。その優しさが、今はなぜか、ひどく恐ろしかった。
「……大丈夫よ。少し、疲れただけ」
私は無理に微笑み、ルシアンの胸に顔を埋めた。
だが、目を閉じた瞬間、私の意識は真っ逆さまに暗い底へと引きずり込まれた。
■処刑台の記憶
ガチャン、と重い鉄の扉が開く音がした。
目を開けると、そこは暖かなルシアンの部屋ではなかった。冷たく湿った石壁、饐えた血と汚物の匂い。一周目の人生で、私が最期の数日間を過ごした、あの忌まわしい地下牢だった。
「違う……ここは……」
私が後ずさりしようとした時、背後から荒々しい力で髪を掴まれた。
『どこへ行く気だ、稀代の悪女め』
振り返ると、そこにはアランが立っていた。しかし、それは生前の彼ではない。顔の半分が焼け爛れ、四魔人の力に侵食された、あの醜悪な化け物の姿だった。
『お前はここで死ぬんだ。私とイザベラを呪いながらな!』
アランの幻影が私を床に引き倒す。
次の瞬間、風景が切り替わった。私は冷たい雨が降る広場に引き出され、無数の群衆の罵声に取り囲まれていた。
処刑台の階段を、一段、また一段と登らされる。ギロチンの冷たい刃が、頭上で鈍く光っている。
『死ね! 死ね! 悪女に死を!』
群衆の顔が、全てイザベラの顔に変わっていく。彼女たちは一斉に嘲笑し、私に向かって石を投げつけてきた。
「やめて……! 私は、もう復讐なんて……!」
私が叫ぼうとしても、声が出ない。
首を断頭台の台座に固定され、冷たい刃が落ちてくるその瞬間——私の脳裏に、百倍にも増幅された「死の恐怖」と「絶望」、そして「激しい憎悪」が逆流してきた。
『そうだ、憎め。全てを憎み、呪い殺せ。お前の幸福など、砂上の楼閣に過ぎない』
脳髄に直接響くその声は、間違いなく悪魔王のものだった。
奴は、私が一周目で味わった最大のトラウマを、悪意を持って増幅させ、私の精神を破壊しようとしているのだ。
■闇を切り裂く声
「——リアーナ! エリアーナ!!」
遠くから、私を呼ぶ声が聞こえた。
断頭台の刃が首に触れる直前、私の体を強い力が引き戻した。
ハッと息を呑んで目を開けると、私はルシアンの部屋のソファの上で、彼に強く抱きしめられていた。
全身が汗でびっしょりと濡れ、呼吸は浅く乱れている。私の両手は、ルシアンの腕を爪が食い込むほど強く掴んでいた。
「ルシアン……っ!」
「俺はここだ。お前をどこにも行かせない」
ルシアンの金色の瞳が、焦燥と強い決意を滲ませて私を見下ろしていた。
彼は、私が幻覚の中で暴れるのを、身を挺して押さえ込んでくれていたのだ。
「処刑台の……記憶が……。アランとイザベラが、私を……」
私は震える声で、先ほど見た幻覚を語った。
ルシアンは私の背中を優しく撫でながら、静かに、しかし力強く言った。
「それは過去だ、エリアーナ。悪魔王が、お前の心に残る傷跡を抉り、憎悪を呼び覚まそうとしているだけだ」
ルシアンは私の左手を取り、薬指に光る鋼の指輪に唇を落とした。
「思い出せ。俺たちはお互いの過去を知り、その上で未来を誓い合った。奴の幻影など、俺たちの誓いの前では何の力も持たない」
■最終決戦の予感
ルシアンの言葉と、鋼の指輪の冷たい感触が、私の心を少しずつ現実に引き戻してくれた。
悪魔王の精神攻撃は、確かに恐ろしいものだった。一周目の死の記憶は、私の魂に深く刻み込まれており、簡単に消え去るものではない。
しかし、今の私にはルシアンがいる。
彼が隣にいてくれる限り、私はもう、あの孤独な処刑台の上の少女ではないのだ。
「……ありがとう、ルシアン。もう大丈夫よ」
私が深く息を吐き出して言うと、ルシアンは安堵したように私を抱きしめ直した。
だが、部屋の空気は依然として重く、窓の外からは不気味な風の音が聞こえていた。
「悪魔王は、焦っている」
ルシアンが、窓の外の暗闇を睨みつけながら低く呟いた。
「俺たちが憎悪を捨て、愛を選んだことで、奴の力の源泉が絶たれようとしている。だからこそ、こうして直接的な精神攻撃を仕掛けてきたのだ」
「ええ。これは、奴の最後の足掻きよ」
私は、ルシアンの胸に寄り添いながら頷いた。
悪魔王の残滓は、もはや単なる影ではない。奴は明確な意志を持って、私たちを破壊しようと動き出している。
今夜の精神攻撃は、ほんの序の口に過ぎないだろう。
明日、あるいは明後日——悪魔王は必ず、その真の姿を現し、帝都全体を巻き込む最後の戦いを挑んでくるはずだ。
私はルシアンの腕の中で、迫り来る真の絶望の足音を聞きながら、決して屈しないという覚悟を魂に刻み込んだ。




