第56話 婚約指輪と永遠の誓い
■嵐の前の静けさ
狂信者たちによる暗殺未遂事件から数日が経過した。
帝都の治安は、ルシアンの厳格な統制と、ヴァレリウス公爵家の精鋭騎士たちの警備によって、かつてないほどの安定を取り戻していた。表面上は、恐ろしいほどの平和が続いている。
しかし、私とルシアンは知っていた。これが「嵐の前の静けさ」に過ぎないことを。
悪魔王の残滓は、確実に私たちの周囲で蠢いている。大聖堂の地下で見たイザベラの手記、そして暗殺者たちの首筋に浮かび上がっていた黒い痣。それらは全て、悪魔王が私たちの幸福を憎み、破壊する機会を窺っている証拠だった。
それでも、私たちは日常を生きることを止めなかった。
憎悪に囚われて立ち止まることこそが、悪魔王の思う壺だからだ。私たちは、帝都の復興という目の前の義務を果たしながら、互いの存在を確かめ合うように、静かで穏やかな時間を過ごしていた。
その日の夕暮れ時、私はルシアンの執務室を訪れた。
彼は窓辺に立ち、夕陽に染まる帝都の街並みを見下ろしていた。その横顔は、かつての復讐鬼のそれではなく、この国を導く者としての威厳と、どこか深い安らぎに満ちていた。
「ルシアン。今日の公務はもう終わったわ」
私が声をかけると、彼はゆっくりと振り返り、私に向かって手を差し伸べた。
「エリアーナ。少し、いいか」
その声の響きに、私はいつもとは違う、静かな決意のようなものを感じ取った。
■鋼の指輪
ルシアンに導かれ、私は彼の隣に立った。
彼は私の手を両手で包み込むと、まっすぐに私の目を見つめた。その金色の瞳には、一切の迷いがなかった。
「お前と出会った時、俺たちは復讐のための『契約婚約』を結んだ」
ルシアンが、静かに語り始めた。
「俺はお前の憎悪を利用し、お前は俺の力を利用した。それは、血と復讐に塗れた、冷たい契約だった」
私は頷いた。あの頃の私たちは、互いの心に巣食う憎悪だけを頼りに、氷のように冷たい関係を築いていた。
「だが、アランは死に、四魔人は討たれた。復讐の対象は、もうこの世界には存在しない」
ルシアンはそう言うと、懐から小さなビロードの箱を取り出した。
箱を開けると、そこには宝石のついていない、飾り気のない銀色の指輪が一つ、静かに光を放っていた。
「これは……?」
「北の黒鷲城の鋼で打たせたものだ。宝石の煌めきはないが、決して砕けず、錆びることもない」
ルシアンは、その鋼の指輪をつまみ上げると、私の前でゆっくりと片膝をついた。
帝国の事実上の頂点に立つ男が、私一人のために、騎士の礼をとっているのだ。
「契約婚約は、もう終わった。俺たちは復讐を遂げたのだからな」
ルシアンの声が、静かな執務室に響き渡る。
「だが、俺の魂の誓いは終わらない。俺は、復讐の果てに見つけたこの光を、永遠に手放したくない」
■永遠の誓い
ルシアンは、私の左手を取り、薬指にそっと鋼の指輪を通した。
冷たい鋼の感触が、ルシアンの体温と共に、私の心臓の奥深くまで熱く染み渡っていくようだった。
「エリアーナ。俺の妻になってくれ。憎悪のためではなく、共に生きる未来のために」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から大粒の涙が溢れ出した。
一周目の人生で、アランから裏切られ、断頭台の露と消えた私。二周目の人生は、ただ復讐のためだけに生きるつもりだった。愛などという不確かなものは、二度と信じないはずだった。
しかし、目の前で膝をつくこの男は、私の冷え切った心を溶かし、再び愛を信じる勇気を与えてくれたのだ。
「……ええ。ルシアン」
私は涙声で答え、彼を抱き起こした。
「私も、あなたを愛しているわ。どんな絶望が待っていようと、あなたと共に生きる未来を選ぶ」
ルシアンが私を強く抱きしめる。
彼の腕の中で、私はこの上ない幸福感に包まれた。復讐の虚しさを越えて、私たちはようやく、真実の愛を手に入れたのだ。
■幸福の代償
しかし、その幸福の絶頂の瞬間。
私の脳裏に、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
私は思わず、ルシアンの胸の中で小さく呻き声を上げた。
視界がぐにゃりと歪み、夕陽に染まる執務室の風景が、一瞬だけ、血に染まった薄暗い地下牢の風景にすり替わった。耳の奥で、無数の怨嗟の声が渦巻くのが聞こえる。
『許サナイ……オ前タチダケガ、幸福ニナルナド……』
それは、イザベラの声のようでもあり、アランの声のようでもあり、そして、もっと巨大で邪悪な何者かの声のようでもあった。
「エリアーナ! どうした!」
ルシアンが血相を変えて私を抱きとめる。
彼の声で、幻聴と幻覚はふっと消え去った。しかし、私の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、全身に冷や汗が浮かんでいた。
「……何でもないわ。少し、めまいがしただけ」
私は無理に微笑んで見せたが、ルシアンの表情は険しいままだった。
彼もまた、気付いているのだ。
私たちの愛が深まり、幸福感が高まるほど、それに反比例するように、悪魔王の残滓が激しく刺激されていることに。
鋼の指輪がもたらした永遠の誓いは、皮肉にも、悪魔王との最終決戦の幕を開ける、決定的な引き金となってしまったのだ。
私は左手の薬指にある鋼の指輪を強く握りしめ、迫り来る真の闇の恐怖に、ただ震えることしかできなかった。




