第54話 二人だけの静寂
■玉座の空白と新たな秩序
皇宮の円形議事堂には、重苦しい沈黙が漂っていた。
かつてアラン皇太子に阿り、私腹を肥やしていた貴族たちは、今や戦々恐々として下座に身を縮めている。その一方で、リステン侯爵をはじめとする中立派や、北部の厳しい冬を生き抜いてきたヴァレリウス公爵家の武将たちが、厳しい視線で彼らを睨みつけていた。
議事堂の最上段、皇帝の玉座のすぐ隣に設けられた臨時摂政公の席に、ルシアンが腰を下ろす。
「皆も承知の通り、先の動乱により、アラン皇太子は討たれた。そして、陛下は未だ行方知れず……いや、事実上の崩御とみなすべき状況にある」
ルシアンの低くよく通る声が、議事堂に響き渡る。
誰一人として反論する者はいない。怪物と化したアランが皇宮を破壊し尽くした際、皇帝の寝所もまた瓦礫の下に沈んだのだ。
「帝国には今、正式な統治者が不在だ。だが、我々には悲嘆に暮れている暇はない。帝都の復興、難民の救済、そして治安の維持。これらを滞りなく進めるため、次期皇帝の選定までの間、俺が臨時摂政公として全権を握る」
南方派閥の貴族の一人が、恐る恐る手を挙げた。
「ヴァレリウス公爵閣下……いえ、摂政公閣下。次期皇帝の選定についてですが、傍系の血筋から擁立するというお考えでしょうか? 我々南方派閥にも、推薦したい血筋の者が……」
「黙れ」
ルシアンの一喝で、貴族はびくりと肩を震わせた。
「今は火事場泥棒のような真似をしている場合ではない。帝都の復興に尽力しない者に、発言権など与えん。次期皇帝の選定は、復興が一定の目処を迎え、民衆の生活が安定した後に、中立的な第三者機関を設けて行う。それまでは、全ての派閥争いを凍結する。異論がある者は、今すぐこの議事堂から立ち去れ」
圧倒的な威圧感と、理にかなった宣言。
ルシアンの言葉に、貴族たちはただ首を垂れるしかなかった。リステン侯爵が満足げに頷くのを確認し、ルシアンは議会を解散させた。
政治の再編は、強引ではあるが確実な第一歩を踏み出した。
しかし、その重圧は確実にルシアンの肩にのしかかっていた。
■張り詰めた糸と秘密の逃避行
議会を終え、執務室に戻ったルシアンは、ソファに倒れ込むようにして目を閉じた。
私は、大聖堂での救護活動を終えると彼の執務室を訪ねた。
「ルシアン……。疲れているのね、休んで」
「エリアーナこそ。ずっと休んでいないじゃないか」
ルシアンが目を開け、心配そうに私を見つめる。
二人で疲労を隠し、互いを気遣い合っていた。
戦場での激しいやり取りとは違う、別の意味で張り詰めた糸が、私たちの間にはあった。
四魔人を倒し、アランを討ったとはいえ、悪魔王の影が完全に消え去ったわけではない。大聖堂の大神官も「悪魔王はあなたの愛と幸福を憎んでいる」と警告していた。
だからこそ、私は決断した。
「……仕事を抜け出すわ」
「え?」
突然の言葉に、ルシアンが素っ頓狂な声を上げる。
そんなルシアンの手を、私は強く引いた。
「私たちには、息抜きが必要よ。誰もいない所へ行きましょう」
侍女のアンナに「誰にも言わないように」と厳命し、ルシアンを連れて皇宮を抜け出した。
向かった先は、かつて彼女の実家だったリステン侯爵家の、庭園の奥にある古い小屋だった。そこは幼い頃、誰にも邪魔されたくない時に使っていた秘密の隠れ家だ。
「こんな場所があったのか」
ルシアンが、少し埃っぽい小屋の隅に静かに腰を下ろした。
外の喧騒から完全に隔絶されたその空間は、帝都の中心にありながら、まるで別世界のように静かだった。
■憎悪の向こう側
私たちはそこで、持ってきた簡素なパンとチーズを分け合った。
豪華な晩餐とは程遠い食事だったが、どんな宮廷料理よりも美味しく感じられた。
「アランが死んだとわかった時、憎しみは消えたか?」
ルシアンが、パンを齧りながら静かに尋ねた。
「……いいえ、ルシアン」
私は正直に答えた。
「憎しみは消えなかったわ。でも、虚しさが残ったの。憎しみは、私の人生の終着点ではなかったのね……」
復讐を遂げても、失われた時間は戻らない。その事実を前に静かに微笑んだ。
ルシアンは私の手を取り、その手の甲に軽く口づけをした。
「俺もだ。俺の憎しみも、両親を帰してはくれなかった」
ルシアンの瞳に、かつての冷酷な光はない。
「だが、エリアーナ。憎悪の炎の向こう側で、俺たちは新しい感情を見つけた」
ルシアンは私を引き寄せ、強く抱きしめた。
彼の体温が、私の魂の奥底にあった虚無感を、温かく埋めていく。
「お前を愛している、エリアーナ。お前と創る未来が、俺の全ての復讐の意味となった」
その言葉は、どんな誓いよりも重く、真実味を帯びていた。
■微かな幻影
ルシアンの愛の告白に、私の心は完全に満たされた。
二人はその小さな隠れ家で、静かに抱き合った。
その安堵と幸福感は、私が一周目の人生で夢見た、どんな幸福よりも深く、確かなものだった。
(これでいい。この温もりさえあれば、私は生きていける)
ルシアンの胸に顔を埋めた、その時だった。
ふと視線を向けた窓の隅。
夕闇が迫る影の中に、一瞬だけ——黒く煤けた、あの忌まわしい処刑台の骨組みが浮かび上がる幻影を見た。
「っ……!」
小さく息を呑む。
幻影は、瞬きをした次の瞬間には消え去っていた。
「どうした、エリアーナ?」
腕の中で強張った彼女に気づき、ルシアンが心配そうに尋ねた。
「……何でもないわ、ルシアン」
彼に強く抱きつき、その幻影を無理やり振り払った。
しかし、心臓は警鐘を鳴らしていた。
(悪魔王が、まだ私を見ている……)
(私の幸福が、悪魔王の憎悪を刺激しているのだわ)
復讐の果てに見つけた愛。
しかし、その愛そのものが、悪魔王との真の最終決戦を引き寄せる引き金になろうとしていた。
私は、迫り来る真の絶望の予感を、ルシアンの温もりの中で静かに、しかし強く意識していた。




