第53話 摂政公の重荷と政治の再編
■廃墟からの再出発
帝都は、文字通り瓦礫の山と化していた。
アラン皇太子の暴走、そして四魔人による破壊と混乱の爪痕は、想像以上に深く、帝国の中心部を無惨に引き裂いていた。
しかし、四魔人が討ち果たされ、空を覆っていた暗雲が一時的に晴れたことで、生き残った人々は少しずつ顔を上げ始めていた。
皇宮の執務室——かろうじて原型を留めていた一室で、ルシアンは山のように積まれた書類の束と格闘していた。
「閣下、東部地区の食糧配給計画書です。商工ギルドの承認は得ていますが、警備兵の数が足りません」
「北部の騎士団から一個中隊を回せ。暴動の兆候があれば、即座に鎮圧しろ。今は何よりも治安の維持が最優先だ」
「はっ!」
部下の騎士が慌ただしく退室していく。
ルシアンは深く息を吐き、目頭を揉んだ。
アランが討たれ、皇帝も行方不明(実質的な崩御)となった今、帝国には正式な統治者が存在しない。
権力の空白を埋め、帝都の崩壊を防ぐため、ルシアンは「臨時摂政公」として全権を掌握せざるを得なかった。
彼にとって、政治の実務は北部の領地経営で慣れ親しんだものではあったが、帝都全体の復興と、混乱に乗じて私腹を肥やそうとする貴族たちの牽制を同時に行うのは、並大抵の労力ではなかった。
「……少しは休んだらどうだ、ルシアン」
執務室の扉が開き、リステン侯爵が姿を現した。
彼の顔にも深い疲労の色が見えたが、その瞳にはかつてのような迷いはなく、確かな意志の光が宿っていた。
「侯爵。休んでいる暇はありません。悪魔王の『門』が完全に閉じたわけではない。奴がいつ再び干渉してくるか分からない以上、帝都の防衛体制を一刻も早く再構築する必要があります」
「分かっている。だが、お前が倒れては元も子もない。エリアーナも心配していたぞ」
エリアーナの名前が出た瞬間、ルシアンの険しい表情がわずかに和らいだ。
■貴族たちの思惑
現在、エリアーナは大聖堂に留まり、大神官と共に負傷者の救護と、民衆の不安を鎮めるための活動に専念していた。彼女の献身的な姿は、かつて「悪女」と呼ばれた面影を完全に払拭し、多くの人々の心の支えとなっていた。
「彼女は、大聖堂でよくやっている。だが、だからこそ私は急がねばならない。彼女が安心して暮らせる世界を作るために」
「……お前らしいな」
リステン侯爵が苦笑し、手にした羊皮紙をルシアンの机に置いた。
「南方派閥の貴族たちからの連名状だ。復興資金の提供と引き換えに、次期皇帝の選定会議において発言権を求めてきている」
ルシアンは羊皮紙を一瞥し、鼻で笑った。
「火事場泥棒め。帝都が燃えている時に領地に引きこもっていた連中が、今更しゃしゃり出てくるとはな」
「どうする? 彼らの資金力は、今の帝都には喉から手が出るほど欲しいはずだが」
「突っぱねろ。今、彼らに恩を売られれば、後の政治的再編で必ず足枷になる。資金なら、アラン派閥の残党から没収した隠し財産と、我がヴァレリウス公爵家の私財を投じれば当面は保つ」
ルシアンの即答に、リステン侯爵は満足げに頷いた。
「分かった。そのように伝えよう。……だが、ルシアン。一つだけ忠告しておく。力による押さえつけは、反発を招く。お前は今、帝国の救世主として扱われているが、一歩間違えれば『新たな独裁者』として非難の的になるぞ」
「分かっています。だからこそ、俺は皇帝の座に就くつもりはない」
ルシアンは窓の外——瓦礫の向こうに見える大聖堂の尖塔を見つめた。
「俺の目的は、この国を立て直すことじゃない。エリアーナを守り、彼女を苦しめた元凶を全て排除することだ。それが終われば、俺は北へ帰る。帝国の未来は、残された者たちで決めればいい」
■束の間の平穏と影
その日の夕刻。
ルシアンは執務を抜け出し、大聖堂を訪れていた。
中庭では、エリアーナが子供たちに温かいスープを配っていた。彼女の白いドレスは煤で汚れ、髪も乱れていたが、その笑顔は誰よりも美しく、ルシアンの心を締め付けた。
「エリアーナ」
「ルシアン!」
彼に気づいたエリアーナが、スープの鍋をアンナに任せて駆け寄ってくる。
「どうしたの? 皇宮の執務は忙しいはずじゃ……」
「お前の顔を見たくなっただけだ。それに、少しは休まないと、侯爵に小言を言われるからな」
ルシアンが冗談めかして言うと、エリアーナは嬉しそうに微笑んだ。
「お父様ったら……。でも、本当に無理はしないでね。あなたの目の下の隈、酷いわよ」
「お前こそ。手が荒れているじゃないか」
ルシアンはエリアーナの手を取り、その指先にそっと口づけを落とした。
周囲にいた人々が、二人の仲睦まじい様子を見て微笑ましい視線を送る。かつては冷酷な北の公爵と悪逆な令嬢と呼ばれた二人が、今や帝都の希望の象徴となっていた。
「ねえ、ルシアン。このまま……平和な日々が戻ってくるのかしら」
エリアーナが、ルシアンの胸に寄りかかりながら呟いた。
「ああ。必ず取り戻す。俺が、お前のために」
ルシアンは彼女を強く抱きしめた。
しかし、その言葉とは裏腹に、ルシアンの心の中には拭い去れない不安が渦巻いていた。
四魔人を倒した時、最後に空を覆っていたあの不気味な暗雲。大神官が語った「悪魔王の直接干渉」という言葉。
平和は、まだ訪れていない。
これは、嵐の前の静けさに過ぎないのだ。
■静かなる侵食
夜が更け、帝都が静寂に包まれた頃。
皇宮の地下深く、かつてアランが秘密の儀式を行っていた隠し部屋で、異変が起きていた。
床に描かれた魔法陣の残骸から、黒い瘴気が音もなく漏れ出していたのだ。
瘴気は意思を持っているかのように壁を這い上がり、皇宮の地下から地上へと、ゆっくりと、しかし確実に侵食を始めていた。
『……愚かな人間どもよ。束の間の勝利に酔いしれるがいい』
誰もいない地下室に、低く、おぞましい声が響き渡る。
『私の一部を砕いた程度で、全てが終わったと思うな。絶望は、希望の後にこそ最も甘美な味となる……』
瘴気は皇宮の庭園の草木を枯らし、警備の騎士たちの足元をすり抜け、帝都の街路へと広がっていく。
それは、悪魔王の本体が現実世界へ顕現するための準備だった。
それは誰にも気づかれることなく、静に進んでいた。




