第51話 孤独の結界
■静寂の檻
黒い半球体の結界に触れた瞬間、ルシアンの周囲から全ての音が消え去った。
広場で暴動を起こす民衆の怒声も、エリアーナが自分を呼ぶ悲痛な叫びも、全てが厚い壁に遮られたように届かない。視界にあるのは、暗闇に包まれた円形の空間と、目の前に立つ二人の魔人だけだった。
『ようこそ、絶対なる孤独の世界へ』
輪郭が曖昧な第四の魔人、カルナが低く響く声で言った。
結界の主である彼の姿は、煙のように揺らめいており、実体があるのかどうかも定かではない。
『ここは断絶の檻。人と人との繋がりを完全に断ち切る場所。あなたはここで、誰の声も届かないまま、誰にも看取られずに死ぬのです』
「……御託はいい。さっさと始めようぜ」
ルシアンは剣を構え、冷たく言い放った。
彼の心に焦りはなかった。外にいるエリアーナが必ず事態を収拾してくれると信じているからだ。彼が今なすべきことは、目の前の敵を斬り伏せ、この結界を内側から破壊することだけだった。
『強がりを。嫉妬のゼファー、彼のお相手を』
『ええ、喜んで』
貴族風の装いをした第三の魔人、ゼファーが一歩前に出た。
彼の手には、ルシアンと全く同じ形の黒い剣が握られている。
『私の力は、相手の能力を完全に模倣すること。あなたの圧倒的な剣技も、私にとっては容易くコピーできる「嫉妬」の対象に過ぎません』
ゼファーが地を蹴った。
ルシアンは迎え撃つべく剣を振り下ろすが、ゼファーは全く同じタイミング、同じ軌道で剣を振るい、激しい金属音と共に互いの刃が拮抗した。
■終わらない模倣
結界の中で、二つの剣影が目にも留まらぬ速さで交錯する。
ルシアンの剣術は、北の過酷な戦場で培われた実戦的かつ合理的なものだ。無駄な動きが一切なく、一撃必殺の威力を秘めている。
しかし、ゼファーはその全てを完璧に防ぎ、反撃に転じていた。
「……チッ」
ルシアンが舌打ちをする。
フェイントを混ぜた刺突も、力任せの袈裟斬りも、ゼファーはまるで鏡合わせのように同じ動きで相殺してくる。
『無駄ですよ、ルシアン殿。私はあなたの剣の「形」だけでなく、「威力」や「速度」まで完全に模倣している。あなたが強くなればなるほど、私も強くなるのです』
ゼファーが優雅に微笑みながら、ルシアンの肩口を掠める一撃を放つ。
ルシアンは後ろに飛び退いて距離を取った。息が少し乱れている。
『どうしました? 北の覇者ともあろう方が、自分のコピー相手に手こずるとは。それとも、外にいる愛しい女性のことが心配ですか?』
ゼファーの言葉に、ルシアンの目が鋭く細められた。
『お気の毒に。この結界は、中からの物理攻撃では絶対に壊れない。あなたがここで私と永遠に剣を交えている間に、外にいるエリアーナ・リステンは、他の魔人たちに無惨に殺されていることでしょう』
「……お前は、俺の剣を模倣できると言ったな」
ルシアンは、剣の切っ先を下げ、静かに息を吐いた。
「だが、お前が模倣しているのは、あくまで『俺の剣』だ。お前自身の剣ではない」
■名前を呼ぶ声
その頃、結界の外では、エリアーナが黒い半球体の壁に両手を当てていた。
ヴァルゴとリュカを倒し、広場の暴動は収まった。しかし、この結界だけはどうしても破ることができない。破魔の護符を当てても、兵士たちが剣で叩いても、結界はびくともしなかった。
「どうすれば……」
エリアーナは唇を噛んだ。
カルナの能力は「断絶」。人と人との繋がりを断ち切る力だ。物理的な攻撃や魔法が通じないのは、この結界が「概念」として存在しているからだ。
『無駄だ、人間の娘よ』
結界の中から、カルナの声が直接エリアーナの脳内に響いた。
『この結界は、私が死なない限り解けない。そして、中にいる男がゼファーを倒すことも不可能だ。彼らは永遠に拮抗し続け、やがて疲労で倒れる』
「……いいえ、ルシアンは負けないわ」
エリアーナは、結界の壁に額を押し当てた。
冷たい感触が伝わってくる。しかし、彼女の心の中には、ルシアンの温かい手の感触が確かに残っていた。
「断絶の結界というなら、繋がりを証明すればいいだけのことよ」
エリアーナは大きく息を吸い込み、結界に向かって叫んだ。
「ルシアン!」
その声は、物理的な音波としては結界に弾かれた。
しかし、彼女の「愛する人の名前を呼ぶ」という強い意志は、概念としての結界に僅かな波紋を生じさせた。
「ルシアン! わたくしはここにいるわ! あなたを信じている!」
何度も、何度も叫ぶ。
その度に、黒い半球体の表面に、水面に石を投げ入れたような波紋が広がっていく。
■破られた檻
結界の中。
ゼファーと剣を交えていたルシアンは、不意に動きを止めた。
『……?』
ゼファーが怪訝な顔をする。
ルシアンの耳には、確かに聞こえていた。結界に遮られているはずの、エリアーナの切実な声が。
「……聞こえたか、魔人」
ルシアンが、口元に微かな笑みを浮かべる。
「俺の剣は、俺一人のものではない。あいつを守るために振るう剣だ。お前のように、空っぽの嫉妬で模倣しただけの剣とは、重さが違うんだよ!」
ルシアンが再び踏み込む。
ゼファーも同じように剣を振り下ろすが、その瞬間、ルシアンの剣から凄まじい気迫が放たれた。それは、物理的な威力や速度を超えた、守るべき者のために限界を突破した「一撃」だった。
『な……っ!?』
ゼファーの黒い剣が、真っ二つにへし折られる。
そのままルシアンの刃がゼファーの胸を深々と薙ぎ払い、第三の魔人は驚愕の表情を浮かべたまま、光の粒子となって消滅した。
『馬鹿な……私の結界の中で、外部との繋がりを感じ取ったというのか……!』
カルナが狼狽したように叫ぶ。
エリアーナの叫び声が結界を揺るがし、ルシアンの剣がゼファーを打ち破ったことで、カルナの「断絶」という概念は完全に崩壊していた。
「お前の檻は、脆すぎるな」
ルシアンが、崩れゆくカルナに向かって剣を突きつける。
次の瞬間、黒い半球体の結界がガラスのように砕け散り、朝の光が広場に差し込んだ。
「ルシアン!」
「エリアーナ」
結界が消え去り、二人は再び視線を交わした。
四魔人は全て討ち果たされた。帝都を覆っていた絶望と憎悪の気配は、完全に消え去ろうとしていた。
しかし、空を覆う悪魔王の暗雲だけは、いまだに晴れることなく、不気味に渦を巻き続けていた。




