第50話 憎悪の炎
■燃え盛る広場
大聖堂のバルコニーから駆け下りたエリアーナが広場に出ると、そこは目を覆いたくなるような惨状だった。
絶望の魔人リュカを討ち取ったことで、民衆の足元から這い上がっていた黒い幻影の手は消え去っていた。しかし、広場を支配する混乱は一向に収まる気配がない。
「殺してやる! 俺の家族を見殺しにした貴族どもを!」
「大聖堂の偽善者ども! お前たちのせいで帝都は火の海だ!」
暴徒と化した民衆が、血走った目でルシアンの部下たちに殴りかかっている。
彼らの体を包んでいるのは、第一の魔人ヴァルゴが放つ「憎悪の炎」だった。その炎は物理的な熱を持たない代わりに、人の心に潜む不満や悲しみを純粋な憎悪へと変換し、理性を焼き尽くす。
『ハハハハハ! 素晴らしい! もっと憎め、もっと殺し合え!』
広場の中央で、黒い肌を持つヴァルゴが高笑いを上げていた。
彼の周囲には、憎悪の炎に完全に支配された狂信者たちが集まり、ヴァルゴを守るように円陣を組んでいる。
「皆、やめて! 争っても何も生まれないわ!」
エリアーナが叫ぶが、その声は暴動の喧騒に掻き消されてしまう。
兵士たちは剣を抜くことを躊躇っていた。相手は守るべき帝都の民衆であり、彼らを斬り捨てることはルシアンの意に反するからだ。しかし、このままでは防衛線が完全に崩壊し、大聖堂内部まで暴徒がなだれ込んでしまう。
『無駄だ、エリアーナ・リステン』
ヴァルゴが、エリアーナの姿を認めて嘲笑うように言った。
『リュカを倒した程度でいい気になるな。絶望は個人の心に巣食うものだが、憎悪は伝染する。一度火がついた群衆の憎悪は、お前のような小娘の言葉一つで止められるものではない!』
ヴァルゴが手を振ると、数人の暴徒がエリアーナに向かって突進してきた。
■身を呈した盾
「エリアーナ様、危ない!」
近くにいたアンナが悲鳴を上げる。
しかし、エリアーナは逃げなかった。彼女は両手を広げ、突進してくる暴徒たちの前に無防備な体を晒した。
「わたくしは、逃げない。あなたたちの憎しみを、全て受け止めるわ」
暴徒の振り上げた拳が、エリアーナの頬を打ち据えた。
衝撃で体が吹き飛び、石畳に倒れ込む。口の中に血の味が広がり、激しい痛みが走った。
「エリアーナ様!」
「手を出すな!」
駆け寄ろうとする兵士たちを、エリアーナは鋭い声で制止した。
彼女はふらつく足で立ち上がり、再び暴徒たちの前に立つ。
「殴りたければ、何度でも殴りなさい。わたくしが憎いなら、わたくしを殺せばいい。でも、あなたたちの隣にいる家族や友人を傷つけるのだけは、やめて!」
エリアーナの言葉に、暴徒たちの動きが一瞬だけ止まった。
彼女の頬から流れる血が、白いドレスを赤く染めている。その痛々しい姿と、決して反撃しようとしない毅然とした態度は、憎悪に狂った彼らの心の奥底にある「良心」を僅かに揺さぶった。
『馬鹿な真似を。そのまま殴り殺してしまえ!』
ヴァルゴが苛立たしげに叫び、さらに強い憎悪の炎を暴徒たちに送り込む。
再び目を赤く染めた男が、今度は手にした石をエリアーナに向かって振り下ろそうとした。
その時だった。
「……やめろ」
男の腕を、横から伸びてきた手が強く掴んだ。
それは、同じく憎悪の炎に包まれていたはずの、別の民衆だった。
「その方は……俺たちを、大聖堂の地下から逃がしてくれた恩人だ……」
腕を掴んだ男の目から、赤い炎がゆらゆらと消えていく。
彼は、大聖堂の火災からエリアーナに救い出された民衆の一人だった。
■伝播する慈愛
「そうだ……この方は、俺の子供を炎から助けてくれた……」
「俺たちを見捨てずに、最後まで残ってくれたじゃないか……」
広場のあちこちで、憎悪の炎が次々と消え始めた。
エリアーナが身を呈して彼らを守ろうとした姿が、かつて彼女から受けた「愛と慈悲」の記憶を呼び覚ましたのだ。
『な、何をしている! 貴族を憎め! 大聖堂を憎め!』
ヴァルゴが焦ったように叫び、さらに強力な炎を放つ。
しかし、一度「愛」の記憶を取り戻した民衆の心には、もはや憎悪の炎は燃え移らなかった。
「わたくしたちは、もう憎しみ合う必要はないのよ」
エリアーナは、目の前に立っていた男の手を優しく握った。
その手から伝わる温もりが、男の心に残っていた最後の炎を完全に浄化する。
「……申し訳、ありませんでした……」
男が泣き崩れ、その場に膝をついた。
それを皮切りに、暴動を起こしていた民衆たちが次々と武器を捨て、座り込んで涙を流し始めた。彼らの心を満たしていた憎悪は、エリアーナの自己犠牲と慈愛の前に、完全に消え去ったのだ。
『馬鹿な……俺の憎悪の炎が、こんな小娘の綺麗事で消されるだと……!?』
ヴァルゴが信じられないというように後ずさる。
彼の周囲を守っていた狂信者たちも、民衆の正気を取り戻す姿を見て動揺し、陣形が崩れ始めていた。
「あなたの負けよ、憎悪の魔人」
エリアーナは、静かに、しかし力強く宣言した。
「憎悪は確かに伝染する。でも、愛もまた伝染するのよ。そして、人が本当に求めているのは、憎しみではなく愛なのだから」
■浄化の光
『ふざけるな! 愛だと? そんな下らないもので、この俺を否定できると思うな!』
激昂したヴァルゴが、自らの体を燃え上がらせて巨大な火柱となり、エリアーナに向かって突進してきた。
それは、精神への干渉ではなく、純粋な物理的破壊力を持った業火だった。
「エリアーナ様!」
兵士たちが悲鳴を上げる。
しかし、エリアーナは一歩も引かなかった。彼女は静かに目を閉じ、胸元で両手を組んだ。
「大神官様……どうか、わたくしに力を」
彼女の祈りに呼応するように、大聖堂の奥深くから、まばゆい神聖な光が溢れ出した。
それは、重傷を負いながらも祭壇で祈り続けている大神官と、エリアーナ自身の「民を愛する心」が共鳴して生まれた、究極の浄化の光だった。
『ガアアアアアッ!?』
光の壁に激突したヴァルゴが、断末魔の叫びを上げる。
憎悪の炎は、純粋な愛の光に触れた瞬間に急速に萎み、黒い炭のように崩れ落ちていく。
『認めない……俺は、愛などという下らないものを……!』
ヴァルゴの体が、光の中で徐々に灰へと変わっていく。
最後まで憎悪を呪いながら、第一の魔人は完全に消滅した。
「……終わったわ」
エリアーナが膝をつくと、アンナや兵士たちが一斉に駆け寄ってきた。
広場を包んでいた憎悪の空気は完全に晴れ、残されたのは静かな夜明けの光だけだった。
「エリアーナ様、お怪我を……!」
「大丈夫、これくらい……」
エリアーナはアンナの手を借りて立ち上がり、広場の中央を見つめた。
ヴァルゴとリュカを倒した。しかし、そこにはまだ、ルシアンを閉じ込めている「断絶の結界」が、黒い半球体のまま不気味に鎮座している。
「待っていて、ルシアン。今度はわたくしが、あなたを助ける番よ」
エリアーナは、残る二人の魔人との決着をつけるため、結界へと歩みを進めた。




