第49話 絶望の鏡
■迫りくる人形
ルシアンの姿が、黒い半球体の結界に飲み込まれて消えた。
大聖堂のバルコニーに取り残されたエリアーナは、眼下の広場を絶望的な思いで見下ろしていた。暴動を起こす民衆、黒い幻影に足を掴まれて悲鳴を上げる兵士たち。そして、ルシアンを閉じ込めた「断絶の結界」。
「ルシアン……!」
結界に向かって叫ぼうとしたその時、背後から冷たい声が響いた。
『無駄ですよ。あの結界は、外からの声も内からの声も、全てを遮断する。彼にはもう、あなたの声は届きません』
エリアーナが振り返ると、そこには白銀の髪を持つ第二の魔人、リュカが立っていた。
中性的な美貌に、感情の欠落した人形のような微笑み。その漆黒の瞳が、エリアーナを真っ直ぐに見据えている。
「いつの間に……」
『私は絶望の魔人。人が絶望を抱く場所であれば、どこにでも現れることができます』
リュカがゆっくりと歩み寄ってくる。
エリアーナは後ずさり、壁に背中をつけた。武器は持っていない。そもそも、物理的な武器がこの魔人に通用するのかもわからない。
『エリアーナ・リステン。あなたは1周目で、最も深く、最も純粋な絶望を味わった。だからこそ、悪魔王様はあなたを「極上の餌」として選んだのです』
リュカの手が、エリアーナの顔に向けられる。
『さあ、思い出してください。あなたが最も愛し、最も信じていたものに裏切られた、あの日の記憶を』
リュカの指先がエリアーナの額に触れた瞬間、バルコニーの景色がぐにゃりと歪んだ。
空の暗雲も、燃え盛る市街地も消え去り、代わりに現れたのは——冷たい石畳と、高くそびえ立つ断頭台だった。
■繰り返される記憶
「……ここは」
エリアーナは息を呑んだ。
そこは、1周目の記憶に刻み込まれた処刑場だった。
手首には重い鉄の枷が嵌められ、粗末な罪人服を着せられている。周囲を取り囲む民衆の顔は、どれも嘲笑と侮蔑に歪んでいた。
『稀代の悪女に死を!』
『聖女イザベラ様を虐めた報いだ!』
石が飛んできて、エリアーナの額を打つ。血が視界を滲ませる。
痛い。幻覚のはずなのに、痛みも、寒さも、民衆の憎悪の視線も、全てが本物と同じように生々しかった。
『どうですか? 懐かしいでしょう』
リュカの声が、どこからともなく響く。
『これがあなたの真実です。あなたがどれだけ民衆のために尽くそうと、彼らは簡単にあなたを裏切る。愛などというものは、この処刑台の露と消える運命なのです』
処刑台の上には、アラン皇太子とイザベラが立っていた。
1周目の記憶の通り、アランは冷酷な目でエリアーナを見下ろし、イザベラは「可哀想なエリアーナ様」と偽りの涙を流している。
「違う……わたくしは、もう……!」
エリアーナは首を振った。
これは過去だ。すでに乗り越えたはずの記憶だ。そう自分に言い聞かせるが、心が冷たい恐怖に侵食されていくのを止められない。
『乗り越えたつもりですか? いいえ、絶望は決して消えない。あなたの心の奥底には、まだこの処刑台の恐怖がこびりついているはずです』
ギロチンの刃が、重々しい音を立てて引き上げられる。
死の恐怖。全てを失う絶望。リュカの力は、エリアーナのトラウマを極限まで増幅させ、精神を内側から破壊しようとしていた。
■ルシアンの影
『さあ、絶望を受け入れなさい。そうすれば、痛みは消えます』
リュカの囁きが耳元で響く。
刃が振り下ろされようとしたその瞬間——。
「——エリアーナ!」
幻覚の空を切り裂くように、聞き慣れた低い声が響いた。
エリアーナが顔を上げると、処刑台の群衆を掻き分けて、一人の男が駆け込んでくるのが見えた。
「ルシアン……?」
それは、1周目の記憶には存在しないはずの姿だった。
黒いマントを翻し、剣を抜き放ったルシアンが、処刑台に向かって一直線に走ってくる。
『な、何故……私の見せる記憶に、異物が混じるのですか……!』
リュカの焦ったような声が響く。
絶望の魔人が見せる記憶は、対象者の心の中にあるトラウマを完璧に再現するものだ。しかし、エリアーナの心の中には、1周目の絶望を上回るほど強く、ルシアンの存在が刻み込まれていたのだ。
「俺はお前を選んだ。悪魔王ごときに、お前を渡すものか!」
幻覚の中のルシアンが、ギロチンの刃を剣で弾き飛ばす。
その瞬間、冷たい石畳も、嘲笑う群衆も、アランもイザベラも、全てがガラスのように砕け散った。
エリアーナが目を開けると、そこは再び大聖堂のバルコニーだった。
目の前には、驚愕に目を見開いたリュカが立っている。
「……あなたの負けよ、絶望の魔人」
エリアーナは、震える足でしっかりと立ち上がった。
「わたくしは確かに、あの処刑台で絶望した。でも、今は違う。わたくしの心には、あの絶望よりも強く、彼との記憶が刻まれているから!」
■愛の証明
『馬鹿な……人間の心が、絶望の幻影を打ち破るなど……!』
リュカが後ずさる。
人形のような顔に、初めて「恐怖」という感情が浮かんでいた。
「絶望は消えないかもしれない。でも、それを上書きすることはできる」
エリアーナは一歩踏み出した。
その瞳には、もはや処刑台の恐怖は微塵も残っていない。ルシアンという存在が、彼女の心を絶対的な絶望から救い出したのだ。
『く、来るな……!』
リュカが黒い瘴気を放とうとするが、エリアーナは逃げなかった。
彼女は、リュカの胸に真っ直ぐに手を伸ばした。その手には、大神官から受け取っていた「破魔の護符」が握られていた。
「消えなさい、過去の亡霊」
護符がリュカの胸に触れた瞬間、まばゆい浄化の光がバルコニーを包み込んだ。
光はリュカの体を内側から焼き尽くし、絶望の魔人は悲鳴を上げる間もなく、白い灰となって崩れ落ちた。
リュカが消滅すると同時に、眼下の広場で民衆を苦しめていた黒い幻影たちも、霧のように消え去っていく。
「……ルシアン」
エリアーナは、広場の中央にある黒い半球体の結界を見つめた。
リュカを倒したことで、絶望の幻影は打ち破った。しかし、ルシアンを閉じ込める「断絶の結界」と、民衆を煽る「憎悪の魔人」はまだ残っている。
彼女は深く深呼吸をすると、ルシアンを救い出すために、バルコニーの階段を駆け下りていった。




